ペイン(ガレット・デ・ロワ補稿)
嫌な記憶は瘴気を発し、充満する怖気と嫌悪が脳を腐らせていく。テーブルへ転がる瓶は幻覚だ。ラブポーションとはまやかしで、そこに甘い愛はない。身を蝕むような享楽と、苦痛に満ちたお楽しみ。Fは血の気の引く顔で、玩具のように跳ね起きる。後ずさり、怖がり、距離を取る。部屋の中には何もない。ただひとつ、光る眼を血走らせ、怖れる男がいるのみだ。
一人になる必要があった。たとえ、誰もいなくとも。家のトイレに駆け込んで、鍵を上からかけていく。まじないのように。すれば救われるとでもいうように。
息も絶え絶え吐き戻す。そこには怖れとフラッシュバック、あるいは痛む記憶があった。便座を抱えてFは吐く。怖かった。恐ろしかった。信じられないような気持ちの悪さが狭い喉を反対から叩き、開いた喉に気泡がたった。舌を伝って胃液が垂れる。
Fは身震いし、瓶の事を考えた。誰が、どうして。なんのために。わかりきったような問いにも答えるものはなく、流水の渦は恐怖を連れ去ってはくれない。Fは汚れの始末をし、鍵を外して廊下へ出た。震える指は電話機をたぐる。 かける相手はただ一人。
呆れたような声はすぐ応え、『すぐ行くわ』とそう言った。
訪問を知らせるベルは鳴らされない。薄い身体は害さない。玄関、施錠、開けられた小窓。彼女を阻むものはなく、箱を持ったキャンディが部屋の中へと現れた。侵入だ。だが、それを咎めるものは居ない。『きたよ』と彼女は静かに告げる。親切な隣人は箱を掲げ『ケーキ食べる? 工業製品で悪いのだけれど』と言った。
むしろそれこそがありがたいのだと応えれば、冷えたテーブルに箱が開く。キャンディがフォークを差し出し、切り分けるよう促した。匙の角でケーキを崩し、手元に寄せてひきつぶす。柔いスポンジは均質で、そこにむらや角はない。潰し、広げ、混ぜつつ食べた。口を潤す油分はどこまでも淡白で、爽やかな砂糖味に不透明さはない。
キャンディは黙っている。髪は黒く、ヘアバンドも然り。肌も服も白色で、見定めるような二つの目だけが海のように青い。そこに蕩けるような色はない。
背中合わせで歯を磨き、部屋へ入るまで付き添った。帰ろうとしたキャンディに、まだ居て欲しいとFは言う。ヘアバンドをつけたまま、キャンディはベッドに寝転がる。ボウタイもボタンも解かれない。冷たいベッドへ二人で入る。
踏んで潰れた空箱を、キャンディはゴミ箱へ放り込む。使用期限は二ヶ月前。中身は空の薬包紙。哀れなことだ、とただ思う。Fから腕が回される。繊細でささくれた隣人の、額へ指をそっと置く。キャンディは窓に目を向けた。閉じられたカーテンの向こうには、星空が広がっているのだろうか。雨音はなく、ここはただ冷えていた。
瞼を降ろせば夜はくる。混じり合わない只の二つは、そうして今日をやり過ごした。
(おわり)
◆2013-09-18・privatter再録
◆2022-03-18 補稿へ改稿
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