F×Ph×who

佳原雪

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メインエピソード

F×Ph×who


僕は彼と契約した。


◆◆◆


ざあざあと塗りつぶすような暗い夜の色、銀の雨。あの運命の雨の夜に、美しい姿態の悪魔はやってきた。身体と魂、許された時間全て。そういったものを対価に差し出すのならば、この世の快楽を余すところなく授けてくれると、金の髪の悪魔はそう言った。

そうしてそれを良しとした、それがすべての始まりだ。


◆◆◆


そうして彼は今日もお菓子を突きつけてくる。今日の食事はクラッカーだった。肉やソース、クリームやフルーツなんかと一緒に出されることが多いという性質はどこかクレープに似ている。一口お茶を啜って、Fはクラッカーをかじった。水分の絶対量の少ない食べ物は口の中が乾いて仕方がないといって普段は食べないのだが、彼の差し出してくる皿からなら食べてもいいような気にさせられるのを、Fは不思議に感じている。

「トーストの厚さの規格は一斤に対する割合で決まるだろう? 数え方にしてもそうだけどスライスされることはトーストに、いや、トーストを扱う人間にとって、とても重要な意味合いを持つことなんじゃないかと思うんだ」

口の端についた欠片を払い落として、Phのほうを見た。金色の髪の悪魔はカフスのボタンにかかずらうのをやめ、伏せていた睫毛をあげた。男のものとしては長く女のものとしては短い、半端な長さに切りそろえられた髪が頬の上を流れた。

「そうかもな。ホールケーキはピースで数えるが、あれも切り分けることが大事なのかもしれない。ケーキの綺麗な切り方を教えてやろうか、博士。それとも菜食主義者の博士様はケーキなんてものはお嫌いか?」

つりあがった金の目がこちらをじっと注視している。こうしてみていると、美しい造形をしているのだなあと思う。

「……いいや、イチゴの乗ったバタークリームのケーキは例外的によく食べた。甘味の類で僕が習慣的に食べるのはそれだけだ」

皿の上に残っていたラズベリーを指で摘まみ、赤く瑞々しい表面の光沢が白く見えるのをしばらく眺めてから口にいれた。酸っぱい味のなかに、がり、と種の感触があった。果物の繊維特有の風味が口内に広がる。

「ほう、なんでまた」

興味をひかれたように悪魔が尋ねる。Fは口の中に広がるたくさんの種にジャスミン茶を含み、それらをすすいで飲み下した。苦い種の味が余韻として少しだけ残った。

「キャンディー、彼女のことは知っているかい。バタークリームの苺ショートを、彼女はよく持ってきてくれたんだ。いつも僕が紅茶を入れて、彼女が切り分けたケーキをこの机の上で食べるのがいつもの、毎回何も変わらない、いつも通りだった」

机に手を置いて考え込むような仕草を見せたFの目を、Phは覗き込んで息をのんだ。深い色の目の中に、悲哀が満ちているような気がしたからだ。

「お菓子工場の娘だろ、髪が黒くて目の青い…………なあ、F博士、今アンタ随分な顔してるぜ……好きだったのか?」

FはPhの視線に気が付き、額に手をあてて頭を振った。

「どうだろう、よくわからない。嫌いじゃなかったんだとは思うけど……彼女の持ってきたケーキの味が、どうにも思い出せなくて」


◆◆◆


「ところでクラッカー飽きたんだけどどうかな」

「クラッカーばかり食べるからだろう。肉を食え、肉を。それが嫌なら食べ続けろ。アンタの好きな野菜とリンゴを用意してある、出すから咀嚼して飲み込んでくれ」

「消化不良を起こすものはなるだけ食べたくないと思うのは極々自然な考えだと思うんだ。どうかな、君もそうは思わないか」

Phは額に手をあて、大げさにため息をついて見せた。

「……サラダだって閾値を超えれば太る、もう少し危機感を持ったらどうなんだ。……ああ、仕組みか? 水分の重量、ドレッシングのカロリー、付け合せの惣菜やベーコンチップ。ポテトサラダなんかはマヨネーズとジャガイモだから元よりエネルギーの値が高いな、そういったものを食べて人間は目方を増やしていくんだ。聡明な博士様なら理解できるだろう?」

「成程、理解はできるが実践はしたくない」

「だろうな。次は何が食べたい、なにも思い浮かばないようなら……そうだな、ガチョウのコンフィと内臓を冷たいまま出すことにしよう」

さらりと言ってのけられたPhの一言に吐き気を催したFは空咳をし、勢い余ってクラッカーの角を潰した。

「……冗談きついよ、せめて食べられるものにしてくれ」

「それは俺が? それともアンタがか? 答えてくれなきゃわかんないぜ」

悪魔はいたずらっぽく口を歪め、不敵に笑った。


◆◆◆


「スイート、スイート、スイートを俺は求めている。だが一方で、俺はスイーツが嫌いだ。なあ、F、目は覚めたか? もう朝が来た」

のびやかな声で歌うように繰り返すPhはえらく上機嫌だ。甘味が嫌いなのは僕も同じで、一体何がそんなにうれしいのかと問い詰めたいが生憎頭も口もまわりそうにない。低血圧と朝は食い合わせがひどく悪い。

「謎かけの時間だ、F博士」

枕の横に手をついて体を起こすと同時に世界が渦を巻いて脳の奥が痺れていく。目を瞑っても見える青い光と立ち上るノイズ。大方いつもの低血圧だろう。視界は暗く闇に閉ざされているが、ここは僕の部屋だ。惑うはずもなし。ベッドの縁に手をかけて、未だ何か話そうとしているであろうPhの口を手でふさぐ。

「……後にしてくれ、エネルギー補給の時間だ」

立ち上がって、暗い視界の中を歩いて部屋を出た。明け方の冷たい風の匂いがした。


◆◆◆


「ケーキとプディングの共通点はなんだかわかるか、博士。ヒントは食べ物だ」

ダイニングの机に頬杖をついて、悪魔はこちらを見上げていた。椅子に座って足を投げ出すと、軋むような音がした。それが身体からなのか、椅子からなのかは定かではない。もしかしたら、幻聴という可能性だってある。

「簡単だ、クリスマスだろ。二つとも何かの塊だ、クリスマスインゴットなんてものがあってもいいんじゃないかと思うよ」

「……今日はライスプディングを作ろうかと思っている。今米を炊いているところだ」

気まずそうな顔をしているのは、謎かけの答えが一つではないのに気が付かなかったからだろう。この悪魔はこれでいて、変に真面目なところがある。これは一緒に暮らすうちに知ったことだ。

「僕が作ろう、君はここで待っていてくれ」

椅子から立ち上がると、悪魔は意外そうな顔で見上げてきた。ずっと一人で暮らしていたというのに料理の一つもできないと思われていたらしい。失礼な話だ、と思う。

「製菓の類はできないけど、飯の煮炊きはずっとやっていたからね。君が思うほど僕は何もできないわけじゃない……けど、そういえば君の前で煮炊きした覚えがないな。うーん、できないわけじゃないんだよ、あんまりやらないだけで」

目を丸くしていたPhは、ただ、そうか、とだけ言った。


◆◆◆


「出来たよ。こっちの皿が君の分だ、好きなだけ食べてくれ」

湯気の立つ皿を二人分置いて、スプーンを手渡す。加減がわからずに普段と比べてえらく作りすぎてしまったように思う。思う、というのは他人がどれだけのものを一回の食事でとるのか知らないからだ。まさか目の前の男が食事を残すことはしないだろうが、彼の食べる量如何によっては望まぬ摂食を強いられることになるだろう。自分の皿は少ししか注がなかった分、サラダボウルは刻んだレタスでかさを増して見かけの量を均してある。不摂生だの小食が過ぎるだのと言われないかが少し心配だが、言われたらそのときはどうにか言い逃れを考えるくらいのことはしようと思う。

席に着き、手を合わせて食べ始める。レタスは美味だ、もしゃもしゃとレタスを食んでいるとき、これ以上の快楽はないのではないかとさえ思う。

ふと、飲み物を用意していなかったことに気がついて、席を立つ。コップを二つとジャスミンティーのボトルを用意し、どぼどぼと注ぐ。ふわりと花の芳香が広がった。目をあげたPhがフォークを持ったまま不思議そうにこちらを見た。

「レタスといいジャスミンティーといい、アンタこういうのが好きなのか?」

「そうだ。油と砂糖と苦いものが苦手なんだ。ああ、麻婆茄子は嫌いじゃないけど……そうだね、作ってまでは食べようと思わないかな」

Phは眉をひそめたまま、そうか、と言った。なにか変なことを言ったのだろうか。そこでFは、自分が作ったものがライスプディングでないことに気が付いた。とき卵の入ったそれは卵粥だ。

「……ライスプディングを作ると言っていたのに、計画を邪魔してしまったね。君は甘いものが好きなのかい?」

いや、とPhは頭を振った。金の髪が擦れ、さりさりと微かな音を立てた。

「朝に言った通りだ、俺は甘いものは嫌いだ。……いや、アンタほどじゃないな。ああ、そうだな、俺の求めるスイートが何かを少し考えてみてもいいと思うぜ。正しい答えを持ってきた暁には、そうだな、なにか考えておこう。アンタにとっておきの褒美を用意してやる」

悪魔は軽薄な笑みを崩さないまま肩をすくめてみせた。難解な謎かけの答えは語られることなく保留となった。


◆◆◆


机に積んだ紙束の向こうから、悪魔はグラスと瓶を抱えてやってきた。

「リンゴの蒸留酒だ。不摂生の申し子の博士様はこんなもの、滅多に飲まないんだろう。一緒に飲んで、禁断の知恵とは何だったのかについて語ろうじゃないか」

椅子の肘掛けに座って、悪魔はグラスを握らせた。どぷどぷと音を立てて注がれる液体は、リンゴの蜜のような色をしていた。Phはずかずかと窓辺へ歩いて行って、カーテンを少しだけ開いた。月明かりがさっと差し込み、その横顔を照らす。

「ああ、今夜は月が綺麗だ。月見酒と洒落こむのも風流かもな」

手渡されたグラスを空ける。アルコールの苦みと揮発する香は彼の言うとおり慣れないものであった。

「月が綺麗だと言えるのは太陽があるからだよ。月は太陽の鏡だ。照らされて、受け取った光の反射によって自身も発光する。君も知っているだろう」

逆光のなか金の髪が月明かりに照らされてきらきらと光る。こういうとき、この悪魔は美しいのだと改めて認識させられる。その魂は誰によって輝いているのだろうか。どんなものに心惹かれ、そのかんばせをきらめかせるのか。射し込む僅かな月光に、ふとそんなことを考えた。

酔いが呼んだ、つまらない連想だったのかもしれない。しかし、そのつまらない連想へ思いを馳せているうちに肩まで上がった酩酊は喉元を過ぎ、ついにはFの、頭のてっぺんまでもを飲み込んだ。


まず感じたのは温かさ。それから、滑らかな肌触りとやわらかさ。慣れ親しんだ感触は、自室のベッドのものだろうか。もはや体の一部のようなそれにふんわりと包まれて、眠っているのだと理解した。

柔らかく包む繭のようなその中で、普段と違うものに気が付く。あまみと塩気がやわらかに調和した、形容しがたく心地よい匂い。強すぎず、弱すぎず、不快でないそれは、なんだかとても懐かしいもののような気がした。

強く響いた痛みに目を開けば、そこは暗い自室であった。起き上がって頭を振ると、頭はなおさら激しく痛んだ。珍しくアルコールを摂取したのだと思いだして、水を飲もうとふらつく足どりで台所へ向かう。

濡れた口を手の甲で拭って戻ってくると、額に手をあてたPhがソファに腰かけたまま眠っていたのに気が付いた。あの後も一人で飲んでいたのだろうか。首に手をあてると、体温は酷く下がっているようだった。ベッドにかけてあった毛布で眠るPhの体を包む。そうして少し温度の下がった布団に戻って、もう一度眠りについた。


目が覚めた時、感じたのは僅かなもやつきだった。昨晩のアルコールがまだ残っているらしい、こういうときばかりは難儀な体だと思ってしまう。

立ち上がると足の裏が冷たい。鼻がくすぐられるような感覚に思わずくしゃみをした。今朝は随分と冷える。顔を洗って、歯を磨き、髪を整えてダイニングへ向かう。なんだかいつもより回らない頭で、今朝はなにが供されるだろうか、あの金の髪を持つ悪魔は一体どんなものをだしてくるだろうかと考えていた。

「良い朝だ。おはよう、F。今日は」

知らず楽しみにしていた、今日は、の先を聞くことは叶わなかった。その時、聴覚は遮断され、壁と床の境界・重力と天地は一時的になくなった。

「F!」

自分を呼ぶ声がして、それがPhの声だと認識する。肩が痛み、額にひんやりとした感触と、ぬるりと腹をなでる感覚があった。いやに冷たい手が頬を這う。体を寄せる硬いものが床だと気付いたのは見上げたPhの後ろに天井が見えたからだ。

「……感冒だな、驚かせてくれるなよ、F」

抱えあげられて、どこかへ運ばれているのだと辛うじてわかる。たどり着いたのは先ほどまで自分がいたベッドだ。しかし、温かいはずの布団の中は冷たくて、まるで氷の中に閉じ込められているようだ。

「大丈夫か」

Phの問いに応えるべく口を開いた。声が震え、発声が上手くいかない。不安げに触れる指を掴み、力任せに引っ張った。ぐいと息がかかるほどの距離に寄せられた顔、耳に口を寄せて、寒い、となんとかそれだけを言った。

それからのことは、記憶にない。


◆◆◆


腕が引かれる感覚で目が覚めた。手の中にあるのは白い布地で、手元から目を移すと、それはPhのシャツの裾であると分かった。無意識のうちに掴んでいたのであろうその手を、Phはどうにか外そうとしていた。はた、と目が合い、Phがあからさまに顔を歪める。

「起きたのなら放してくれ……手を洗いに行きたいんだが」

「あっ、す、すまない」

苛立ちを押し殺したような声が降ってきて、反射的に手を引いた。遠ざかる背中から目をはなして布団の中で丸くなる。空腹感を覚えて、今日、これから食べることになるであろう食事がなんになるかを考えた。

白米の残りがあったことを思い出し、真っ先に思い浮かんだのは炒飯だった。久しぶりに、炒飯が食べたいと思った。最後に食べたのはいつだっただろうか。無論そんな昔のことが思い出せるわけもなく、深く深く潜っていこうとするたび思考は無残に霧散した。

「F、寝てるか?」

「いや、起きている。急な話だが炒飯を作らないか、炊いた米の残りと卵があるだろう……後は君の采配で選んでくれ。適当で構わない。最悪、食べられればそれでいい」

「偏食のアンタが食いたいものを自分から言うとは珍しいこともあるもんだ。ああ、指名が入ったからには旨いものを食わせてやる、まかせてくれ」

Phは見る間に台所へ消えた。それをぼんやり見送ってから、顔を洗うために洗面所へ向かった。なにか手伝うことがあるか聞けばよかったのかもしれないと気づいたのは、出来上がったと叫ぶ声と軽快に鍋を叩くけたたましい音が響いてきた時だった。耳を押えながらダイニングに足を運ぶ。正直、煩いと思ったが、嬉しそうにレンゲを差し出すPhを見たら文句を言う気も失せてしまった。

「うまく作るね、なかなかこうはいかないんだ」

ぱらぱらと粒状の米がレンゲから流れ落ちる。さらさらと流れる様は、液体か、さもなくば粉末のようですらある。なかなかこうはいかない、本当にその一言に尽きる。

「レンゲがあってよかったよ、これを箸で食べるのは難しそうだ」

「箸でできないのは掬う動作だけとは言うが、どうなんだろうな」

顔を見合わせて首を傾げる。脳の中に滞留する怠さがぐるりと一周回転するのを目を瞑ってやり過ごしてから、頭を振った。

「どうなんだろうね」


◆◆◆


◆◆◆


目が覚めて気が付くと、金の髪の悪魔は消えていた。家の中のどこを探しても彼はいない。夢の中に溶けてしまったのかと思うほどにあっさりとその姿と痕跡は消え失せ、それまでの日々はまるで幻だったかのようだ。

空が白み始め、夜明け前の冷たい空気が窓の隙間から日差しと共に入ってきている。薄暗い部屋の中がひどく寒々しいものに思えてカーテンを開けた。日差しは誰もいない部屋の中を満たし、煌々と照らした。


◆◆◆


彼がどこへ行ったのかを考える。部屋から出ることのなかったPhが誰かのもとへ行ったというのは考えづらい。ずっと遠くから来て、家からおいそれと出られない彼に知り合いはいないはずだからだ。そこまで考えて、例外が一人だけいることに気が付いた。

「……キャンディー?」

お菓子工場の娘のことはPhも知っていた、もしかしたら彼女とも懇意にしていたのかもしれない。キャンディーの風貌をFは想起する。艶やかな黒髪に深い青色の目、小柄な体。彼女とPhがもし、知らず親密になっていたのだとしたら。

「それは、嫌だなあ……」

それを止める権利も力も自分にはないと知っていてなお、Fは言葉をこぼした。

彼が、戻って来ないとしたら。それでも自分は、前となんら変わらずに生きていくのだろう。彼との生活を風化させながら。


◆◆◆


霧雨降る中、冷たい水のカーテンを割いて歩く。彼女の住むお菓子工場は変わらず排気の湯気に包まれていて、その姿を外界から隠そうとしているようだ。

冷たい雨に、思い出すのは運命の日だ。あの金の髪の悪魔がやってきた日も雨が降っていた。彼がこのまま消えるというのならば、あの日の契約はどうなるのだろうか。面倒でも書面に認めさせるべきだったのかもしれないと詮無いことを考えたりした。

ようやくついたキャンディーの家は無人で、なんだか来なければよかったと思ってしまった。やるせない気持ちを抱えながら特にほかに用事らしい用事も思いつかずに家に帰った。


◆◆◆


家に着くと、どこからか水音がした。呼吸を止めて耳を澄ませば、雨水の流れる音に蛇口をひねる音が混じる。台所には誰もいない。部屋を片端から見て回り、思いついて浴室のドアを開けた。

「うわっ」

「……どこへ行っていたんだ」

黒々とした羽を広げて、金の髪の悪魔は湯に浸っていた。振り向いた金色の目が、蝶のように開閉する羽と連動するようにゆっくりと瞬いた。

「探したよ。君が、どこかへ行ってしまったらどうしようと思った」

「F」

驚きか、呆れか。感情の読めない声で悪魔は囁く。安堵、不服。わからない。髪から離れて中空を落ちていく水滴が床の上で砕けた。

「アンタは相変わらず変な奴だ」

「あんまりな言い様だ……君が言うなら、そうなんだろうが」

困ったような表情で曖昧に微笑むPhの言葉を、Fは否定できなかった。間違いではなく、頷くには抵抗がある。

「服をかえたいから出ていってくれるか」

「ああ。……出かけるのなら、一言くらい声をかけていってくれ」

それだけ言って、ドアを閉じた。置いて行かれたと思うじゃないか、という言葉は、口にしなかった。


◆◆◆


思い出す運命の日も、こんな天気だったように思う。約束が果たされぬうちは、消えること許されまじ。


◆◆◆


「アンタは」

PhはFの肩越しに声をかけた。近づくとともに気配と甘い匂いが漂う。

「なに?」

「羽を見ても怖がらないんだな」

抑揚のない声で問われた内容を反芻するのに、しばし時間がかかる。なにが問題とされているのかが実感としてわからなかったからだ。しばらく考えて、ようやく答えが出る。目の前の男は人間ではないのだ。そうして市井の人間は自分たちと違うものを酷く恐れる。それは彼が、たびたび気にしていたことだった。

「……僕は、君がなんであるかを知っている。ただ、それだけのことだよ」


◆◆◆


「今日はゼリーとサンドイッチを用意した」

トーストの間にレタスとトマトとオリーブの挟まったハムサンドが皿の上に行儀よく並んでいた。さくさくとした八枚切りのトーストはほんのりと焼き色が付いている。隣では器に盛られたゼリーが透明な体を揺らしている。

「ゼリーとプリンは似ていると思わないか。プリンは好きかい、僕はどちらかと言えばゼリーのほうが好みに合っていると思うが」

「柔らかいプリンはあまり趣味じゃないが、食べられないことはない。プリンとゼリーの製法の違いは固めるときに冷やすか熱するかだ。単純に生焼けというのはぞっとしないな、食中毒が怖い」

Phは恐ろしそうに身を竦ませてみせた。Fは笑い、それに同意した。

「そうだね」

Fは整然と並んだサンドイッチのうちの一つを手に取り、噛り付いた。ざくざくと荒いテクスチャのパン生地が音を立てて割れる。齧り取ったそれらを噛んで飲み込む。瑞々しい野菜の冷たさが心地よい。Phはその様子を普段と何ら変わりない様子で眺めていた。Fは齧りかけのサンドイッチから顔をあげて目の前の男へ問いかけた。

「君は食べないのかい」

悪魔はなにを言われたのかわからないといった様子でぱちぱちと目を瞬かせた。Fは皿を指の背ですこしだけPhのほうへ押しやって意図を示す。

「そうだな、じゃあ、もらおうか」

控えめに口を開き、悪魔は咀嚼・嚥下を繰り返す。咀嚼されていくパンやトマトの鮮やかな色を、Fは珍しげに見ていた。Phが作るときは、いつだってFの為だけに作られていた。

「美味しいかい」

「アンタはどうなんだ。これを食べてどう思った? 不味いと、一度でも思ったか?」

Phは手を止め、口の周りを払った。FはPhから目を逸らさずに頭を振った。

「……不味いわけないじゃないか」

「だろう、そういうことだ」

目を細め、悪魔は誇らしげに笑ったが、Fは内心はぐらかされたような心持ちだった。そうして、サンドイッチが皿の上から消えるころにようやくFは思い至った。自分が欲していたのは料理の味やそれに係る技能の高さの情報ではなく、Ph自身がどう思ったかだったのだと。


◆◆◆


「俺の顔に何かあるのか? そんなに見られたら穴が開くぜ」

「おっと、これは失礼」

無意識だったFの視線が指摘されてあちこちへ泳ぐ。Phは呆れたように肩をすくめた。

「何かあったのか」

「……この間の雨の日のことだ」

じっと見つめられ、Fはたじろいだ。

「君が、どこかへ行ってしまうと思ったんだ。たとえば、工場の娘と」

「工場の娘がどうした。俺が、彼女を博士様から取り上げると?」

頬杖を突き、不愉快そうに悪魔は言った。Fは即座に否定した。

「違う。キャンディーは元より僕のものではない。そうじゃない、僕は君の話をしているんだ。わかってくれるか、Ph。君が、君が彼女と連れ立ってここを出れば、僕は君と、たった一人の友達を失うんだ」

悪魔は口を閉ざし、Fを見ていた。Fはその目をじっと見据える。大切なことをいうときは目を逸らしてはいけない。決して、離すことは許されない。

「君がどうしようが君の勝手だ。でも僕は君を失いたくない。勝手なことを言っているのは承知だし、君に強制はできないが……それでも、頼む、僕を置いて行かないでくれ」

項垂れたFに、Phはぽかんとして言った。

「俺、俺がどこかへ行く心配をしていたのか? ……あんた、お菓子工場の娘が好きだったんじゃないのか」

「何を言っているんだ、嫌いなわけがないだろ……ああ、待ってくれ。それが恋情や思慕を抱いているかという質問ならNOだ。彼女は大切な友達だ、彼女に何度助けられたか知れない。それでも、今、君がいなくなったら、僕は」

目の前で、金色の髪が揺れた。

「……告白と受け取っても?」

「ああ、君がそこにいてくれるのなら、それでいい」

「そうか」

悪魔は躊躇いがちに手を伸ばし、Fを抱きしめた。

「そうか……」

部屋を沈黙が支配する。Fは、恐る恐るといったように口を開いた。

「君は、君はどうして僕に良くしてくれる。君の言っていた快楽とはなんだ? 生まれてきたことへの祝福、承認されることによる高揚? なぜ、頼まれてもいない煮炊きをしてくれる」

「違う……」

Phは苦い顔で静かに首を振った。

「食べることへの純粋な喜び?」

「違う……全ては俺の我儘だ」

「……君の言うことは時々ひどく難解だ」

「わからなくていい。わからないままでいい。今は、それでいいんだ」

まだ何か、知らない裏があるのは明白だった。しかしFは、それ以上の詮索はしなかった。


◆◆◆


テーブルに置いた皿の上にはきつね色の球体が山と積まれていた。Fは首を傾げる。

「これはなんだい。たこ焼き?」

「……クロカンブッシュだ」

「ああ、これが……実物は初めて見るよ。君には悪いけど家には金槌しかないんだ。しかし、クロカンブッシュか」

Fは眉根を寄せて積みあがったシュークリームの山を見た。

「なにか、まずかったか。シュークリームがたくさんできたから作ってみたんだが」

「キャベツ畑の話は知っているかい。ウェディングケーキをおやつにするのはいかがなものかと思うよ」

「……っえ、ああ、そうだな、悪い、気が付かなかった……」

驚いたような顔をしたまま狼狽えるPhを見て、Fは怒るに怒れず首を振った。

「他意がないならいいんだ。それにしても甘いね」

Fはシュークリームの一つを摘まみ、口に入れた。

「ああ、砂糖をふんだんに使ってある」

「なあ、Ph……僕は甘いか?」

金の目がFを捉えた。視線が交錯する。

「……決まっている」

「そうか」

Fは頬についたクリームを拭い、真顔で頷いた。


◆◆◆


Fは目の前の男のことを何も知らない。素性も、出身地も。言葉が通じるので全くの異文化の人間というわけではないのかもしれないが、あまり人とかかわってこなかったFにはそれもよくわからない。

「そういえば、君はどこから来たんだ?」

悪魔は天を指差した。仄暗い空の上では星が輝いている。

「考えが及ばないほどのずっとずっと遠くからだ」

「遠く……」

「そうだ。俺は、地上の人間じゃない」

その言葉に否定的な色を感じ取り、Fは言い返した。

「だからなんだというんだ。そんなことで僕が君を諦めるとでも思っているのか」

「いいのか、俺と一緒にいたらどんな死に方をするかもわからない。俺は約束を果たす気ではいるが、それはそれとして、あんたの未来にどんな保証もしてやれない」

「構うもんか。人間が死に方を選べないのは元からだ。文句があるなら君が殺してくれ」

「俺が?」

悪魔は端正な顔に驚きの表情を浮かべた。Fは強く頷いた。

「そう、君がだ。……君の望みはなんだ。君は契約を通して、なにか叶えたい望みがあったんじゃないのか?」

「違わない、だが、時期尚早だ。急いて、仕損じるわけにはいかない」

「頼むよ。僕の命が尽きる前に、ちゃんと全ての約束果たしてくれよ」

悪魔は頷いて肯定を示した。


◆◆◆


◆◆◆


そうして今日も僕は甘味を取り続けている。


◆◆◆

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