どうしてまんがなの?

さわだ

どうしてまんがなの?

最悪だと思う。

ここ数日最悪が重なって、鏑目重幸(かぶらめしげゆき)は我が身を呪った。

中年太りが始まった少し重めの身体を引き摺りながら、ただでさえメガネを掛け目が悪いのに、目を細めて睨み付けるように下を向きながら歩いていた。

まず、一人で百件分封書に詰めて請求書を送らなければいけない二十日締め週に入って、前から調子の悪かったパソコンが壊れた。

パソコン等のシステムリソースを管理する社内情報システム部なんて上等なものがない零細企業では、パソコンの予備なんかある筈が無く、昼休みにハードディスクを買いに行き、そのまま一日パソコンのセットアップで潰れたため、会社に泊まり込んで請求書の準備をするハメになったのが昨日の事だった。

朝ほぼ徹夜で請求書の投函を終えて早めに帰宅しようと思ったら、請求金額に間違えがあったのを営業が伝え忘れていた為、また全部作り直す騒ぎになったので徹夜の作業もなんの充実感もなくただの徒労に終った。

最悪というのは重なる事があるのか?

もっとも悪いと思っていた事の上を行くから新しい最悪が産まれて来る。

だから最悪とは自分に取っての都合の悪い事が重なって、地層の様に折り重なり自分に対する理不尽の積が最悪というものの正体だと鏑目は考えていた。

そう、最悪はまるで週刊漫画誌の主人公の敵達の様に際限なく強くなって行く。

倒しても倒しても最悪は生み出され続ける。最悪とは不都合のインフレーションなのだ。

鏑目は今年二八歳になって気がついた事は歳を重ねるごとに最悪というヤツはそんな風によりいっそう強くなっているような気がしていた。

自分の精神が弱くなっているのを感じながらも、足は自動的に一歩一歩家へと向かっている。

心は荒み、怒り狂っていても表情には出ない。能面のような表情を引き摺って鏑目は家路を急ぐ。

野生動物の帰巣本能のようなもので、なにも考えずに足が動く。

表立って不満を露にして、なにか他人に対して改善を期待するような歳でもないので、鏑目は心に黒い色のない感情を抱えながらも吐き出す事もせずに家路に急ぐのは二日間まるまると会社に居て、とにかく誰にも邪魔されない自分の部屋で横になりたいからだった。


「ひとりか?」


誰に言ったわけでも、自分に言い聞かせるわけでもないのに言葉が出た。

鏑目は立ち止まって空を見上げた。

東京都下の夜空はぼんやりとしていて星は殆ど見えない。

辛うじて南の空にオリオン座の三連星が見えた。

疲れて来るとなんでこうも感傷的になるのか、格好良く見せるためでも何でもなく近くを見るのが嫌なので、自然に空へと目が行くのが自分でも信じられない気がした。

視線を元に戻して鏑目は鼻をフンと鳴らす。

駅から二十分以上歩いて、ようやく自分の住むボロアパートが見えて来た。

今時珍しい木造板張りの正面に玄関があるアパートで、四畳半風呂無しの二階建て。

周りの銭湯も潰れてしまって流石に風呂がないと不便なので、何故か庭に戸別に風呂のユニットが並んでいる変な建物だ。

取り壊して新しいアパートにした方が余程儲かるのに、大家の怠慢なのかわからないがボロいままで、築三十年を超えて隙間風すら感じる薄い壁に囲まれたアパートで家賃の安さだけが魅力だった。

コンクリートの古い塀に囲まれて、門の柱の電灯が点いているのを見た事がない。

暗い玄関で靴を脱いで下駄箱に入れて、アパートの廊下を渡る。

今どき土禁のアパートなんて貧乏学生寮だってない。

履いてから二日目を超え異臭を放つ靴下越しに冬の寒さが伝わる冷気に耐えながら、薄暗い廊下を通って二階の自分の部屋の前に立つ。

ドアに付いた小さい曇りガラスの窓から明かりが漏れている。

二日戻ってない自分の家のドアの前に立って、鏑目は大きな溜め息を付く。

鍵のかかってないドアを開けると、目の前にはコタツに入り込んでいる女が居た。


「今日はなんでセーラー服なんだよ?」


キノコのような凸型の形で量の多い黒髪が肩口にかかる。盛り上がった胸のラインがコタツのテーブルに押し付けられているように見えた。


「あっ先輩おかえりなさい」


女から鏑目に向けられた笑顔は穏やかだった。

黒い睫毛でアイラインがハッキリとした瞳に肩幅がしっかりとした女の学生服姿に、鏑目は驚くよりも呆れるよりも、なんだか見ては行けないものを見てしまったような気がして、ドアの前で固まってしまった。

どう考えても淑女が学生のコスプレをしている様にしか見えなかった。


「先輩寒いですよ?」


鏑目はドアを閉めて、部屋にひとつしか無いコタツにコートを着たまま入り込む。

場所は部屋の壁際に座っている女の左手側に潜り込んだ。

部屋にある唯一の暖房器具は暖かく、やっと鏑目は落ち着けるような気がした。

隣の学生服姿の女を見て鏑目は溜息をつく。

「谷津、なんで俺の部屋にまた勝手に入ってるんだよ?」

部屋にはシャーペンを紙の上に走らせるカリカリっという音が聞こえる。

鏑目の大学時代の後輩、谷津征子(やずゆいこ)は部屋の主が戻ってきても、落書きをする手を止めなかった。


「何か言いました先輩?」


「なんでここに居るんだって聞いた」


「えっ?」


征子は素直に驚く。


「なんだよ?」


「先輩いつでも好きに使えって言ったじゃないですか?」


「言ってねえ」


「そうですね、言ってませんでした」


ニッコリと誰もが隙を見せてしまうような笑顔を向けられて、鏑目は吹き出しそうになった。


「やっぱりコタツって良いですね、私の実家には無かったから憧れてたんです」


隣の征子の部屋には暖房器具が一つも無かった。なので懇願して留守中の鏑目の部屋に居候させてもらっていた。

そのうちに征子は鏑目の部屋に住み着くようになっていた。


「そうかよ・・・・・・」


「丁度いい高さで描きやすいですしね」


征子は手にシャープペンシルを握って、話している間も手が動いて何か描いている、テーブルには描き損じのコピー用紙が何十枚も散らばっていた。


「これ何のネームだ?」


ネームとは漫画の設計図のようなもので、大まかにコマ割や絵の構図を描いたものだ。

簡単にキャラクターの配置が分かるように丸と棒だけで現した簡略したキャラクターなどをおく場合も多いが、征子の描いたものはかなり描き込まれたものだった。


「何の?」


「この前描いていたやつの続きかコレ?」


「何でしたっけ?」


「ほら、あの主人公が木目調の壁に囲まれて、空に浮いてる饅頭の化け物


みたいなヤツと会話して出口を探し廻る漫画」


「ああ、それじゃないです、別の話です」


嬉しそうに征子は白いコピー紙に向かってシャーペンを走らせていた。

鏑目は端に散らかっている紙を一枚拾って目を通す。

コピー用紙の真っ白い紙の上にはフリーハンドで描かれた四角の中に、記号のように簡略化された表情と併せて吹き出しに文字が打たれている。

征子が描いたものは日本人が見れば、ひと目で紙に描かれているのが漫画だと言う事が分かる絵だった。

コマというフレームで切り取られた絵にキャラクターの台詞を入れる丸い吹き出しがあって、大きな手書き文字で擬音が描かれているものは漫画と呼ばれるものだった。

コタツの机の上にある殆どの紙には何らかの絵が、漫画が描いてあった。


「谷津、これ一日中描いてたのか?」


「ええ、まあ・・・・・・あれ昨日からだったかも?」


大量の書き散らしを見ても征子が嘘を言っているのでは無さそうだった。

テーブルの上には既に空になって、内側がコーヒーの色で黒いマグカップが一つだけあった。


「なあ谷津」


「なんですか先輩?」


「お前今年で幾つだっけ?」


「二十五歳です」


勿論自分の部屋に勝手に入り込んで漫画を描いてる征子の年齢は鏑目も知っていた。

だからこそもう一度嘘ではないと確認したかったのだ。

二十五歳になって無職で、二日間飯も喰わずにコスプレして落書きばかりしている事になんにも後ろめたさを覚えない事にだ。

呆れながら鏑目は散らかった征子の落書きを集め始める。

よく観るとコタツの反対側には書き損じの紙が大量にばらまかれていた。

寒いのでコタツを出たくなかったが、仕方が無く鏑目はコタツを出て畳に散らばった紙を拾い上げて集める。

その間も征子は手を止めることなく、それどころか興が乗ってきたのか、前のめりになって白い紙にシャーペンを殴りつけているように見えた。


「俺はもう寝るぞ?」


「あっどうぞ」


「ここは俺の部屋だろう?」


「そうですよ?」

「眠いから布団敷くんだけどよ」



「コタツどかしますね」


征子はコタツから出てスカートから太腿と、ご丁寧に履いた黒い靴下を露わにする。


「よいしょ」


両手でテーブルを掴むと自分が座っていた壁際にコタツを寄せた。


「これで布団敷けますよね?」


部屋に出来た狭いスペースを見て満足そうに征子は笑う。

壁を背もたれにして、征子は再びコタツに入り込んで、シャーペンの芯を少し出してから再び紙に漫画を描き始める。


「そういうことじゃねえだろ?」


「どうゆうことですか?」


「俺が自分の部屋で寝るって言ってるのに、なんでお前が俺の部屋で漫画描いてるんだよ!」


「ちょっと今いいところで手が離せないので、先輩どうぞ寝て下さい」


「お前の部屋は隣だろ!?」


鏑目が借りている部屋が二○四号室で征子が借りている一番端にある部屋が二○五号室だった。


「私が自分の部屋で漫画掛けない理由・・・・・・先輩知ってるじゃないですか・・・・・・」


「ああ、汚すぎてテーブルが置けないゴミ溜めみたいな部屋だからな」


征子の同意を求める表情に鏑目はイライラしながら、散らかったコピー紙を整え始める。

自分の部屋を征子にゴミ溜めのような部屋にされてたまるかと思ったからだ。


「ったく、なんでお前はそういつも・・・・・・」


鏑目はどうして征子は自由なんだと言うつもりだったが言葉を呑み込んだ。

どうせ征子本人は自由を謳歌してるつもりはないからだ。

意識しないで振る舞っている人間に自制を即しても意味が無いことは会社でもよく思い出される。

営業の若い人間が、客から聞いた注文を鏑目の部署、といっても一人しか居ない経理部門に伝え忘れて、請求書の発送が遅れて相手にも自社にも迷惑を掛ける事がしょっちゅうある。

そういう場合は大概営業が自分の仕事のことしか考えていないから事故が起こる。自分の仕事は注文を受けることだけと思い込んで、次の仕事を待っている人間に連絡をする事を忘れているからだ。

無自覚に自分のやることを定義して、仕事の引き継ぎを待っている人間の事を考えずに自己完結するヤツに文句を言ってもいつも同じ事を繰り返す。

なぜ学習してミスを無くさないのか鏑目なりに考えてみると、三度言って直らないヤツは一生直らないという事実だけだった。

何度も漫画は自分の部屋で描けと言っても改めない征子に鏑目はとっくの昔に諦めた。

鏑目は溜息をつきながら立ち上がって寒い台所に立つ。

水道水を銀色の小さなヤカンに注いで、ガスコンロに火を付けて湯を沸かす。

大きなマグカップと小さな湯飲みにインスタントコーヒーの粉をスプーンで計量して入れるなんて細かいことはせずに、適当に瓶を二、三回振って湯飲みとマグカップの底を茶色い粉末で満たして、熱い湯を注いでコーヒーを作る。


「うん」


「先輩ありがとうございます」


鏑目は湯飲みを征子に差し出す。

幾ら征子が招かざる客であっても、自分だけお茶を飲むということは出来ない。こういう態度が征子を自由にさせているのだなと思いながら、鏑目は何も入れてないブラックコーヒーに口を付ける。


「先輩寝ないんですか?」


「まぁ、もういいや」


そう言って鏑目はコタツの上に纏めた征子の書き散らした漫画を読み始めた。

コーヒーを片手に、ゆっくりと読み始める。

自分がなぜメチャクチャな征子をどうしても拒絶できない理由を思い知らされた。

紙に描かれていたのは不思議な物語だった。

長い髪に片眼を隠した女の子が、狐の影絵の形をしたままの右手だけの生物を抱えて山や野原や街を旅していくという漫画だった。

主人公の女の子には名前がなく、「狐の形の右手」にも特定の名前はない。

話しの始まりは名前の無い女の子が暗い森に入り込むと、人の肘から上の右手や左手だけの化け物が集まった場所を目撃するところから始まる。

キャンプファイヤーのような松明を中心に、手の化け物達は集まっていた。

右手や左手の集まりの真ん中に、一つだけ囲むように取り残されてたのは狐の影絵の手だった。

他の手達は指を指したり、拳の形を作ったり、冷やかすように手のひらを広げて狐指の手を取り囲む。

まるで糾弾するように狐指の手を囲い、やがて轟々と燃え上がる松明の方へと狐指を追い込んでいった。

沢山の手が、狐指の存在を許せないのか、狐指の手は怯えながら徐々に火の方へと追いやられて明るい松明の光に照らされて、地面に狐の影絵をクッキリと作っていた。

その姿は寂しそうで今にも泣き出しそうだった。

その時、外周から見かねた少女が手達の中に飛び込んで、狐手の元へと駆け寄る。

胸に狐手を抱きかかえると、そのまま全力疾走で森の中へと駆け込む。

追ってくるものは居なかったが、少女は何かに追われている恐怖で暗い森の中を駆け回る。

何処が出口か分からない。

そもそも出口があるのかも分からない。

それでも女の子は暗い森を必死に駆けていった。

胸に不思議な手を抱えて必死に走り回っていた。

やがて視界に光が広がる。

少女は森を抜けて、別の世界に辿り着いていた。

何もない平原に道がある。その先の地平線の遠くには大きな壁が宇宙まで伸びていた。

不思議な世界に辿り着いてしまった少女はそれでも怯まずに助け出した狐手と共に歩き始めた。


「相変わらずお前はスゲエな」


「どうしたんですか先輩?」


いつの間にかページが切れていた紙、続きはなく少女の不思議な話は終わっていた。

キャラクターも背景も書き込まれた漫画は今まで見た事も無い世界だった。

一目見て征子が征子しか描けない線、しかも紙に描かれた絵はどの線も迷いもなく引かれて消しゴムなどで消して書き直した後は無かった。

頭の中にある架空の世界をそのまま紙に落とし込んでいる。

そうとしか思えないくらい征子の漫画は独創的だった。

漫画作りのセオリーである物語の骨子を作って、登場人物の設定を作り上げて、コマと吹き出しで演出していく流れを完全に無視して好き勝手描いている。

それでも征子の作品は漫画で、鏑目は気がついたらコーヒーを片手に作品にのめり込んでしまった。仕事で疲れてるはずなのに、気がついたら夢中で征子の描いた漫画を読んでいた。


「これペン入れするのか?」


「どうしましょうね?」


鏑目は下書きのコピー紙の束を持ち上げながら聞くと、征子は少し首を捻りながら笑う。


「これ編集部に持って行けば会議くらいには通してくれるだろう?」


「うーん、でもそこから先思い付かないというか興味ないんですよその話し、だからなんか違うのまた描きます」


そう言いながら征子の手は止まっていなかった。

もう次の漫画を書き始めてるようだったので覗いて見ると、なんだかセーラー服を来た女子高生が教室で世間話をしてるような内容だった。

もう一度鏑目は手元のファンタジー風の漫画に視線を落とす。

独創的で今まで見た事の無い漫画、読んでいるうちに何故か鏑目は腹が立ってきていた。

イライラを落ちつかせようともう一度コーヒーを飲もうと思ったが、もうマグカップはいつの間にか空だった。

もう一度入れ直す気力も無く鏑目は背中を畳にくっつける。

寝ながらもう一度、征子の漫画を読み始める。


「先輩?」


「なんだよ」


「先輩はどうしてもう漫画描かないんですか?」


一瞬部屋からは音が全て止まった。

それまで断続的に聞こえてた征子のシャーペンを走らす音も聞こえず、部屋は冬の寒さと同じように静かで冷たくて全ての運動が止まったようだった。


「漫画は難しい」


鏑目は手に持って読んでいた紙の束をコタツの上に放り投げた。

腕を頭に組んで征子に背を向ける。


「お前は難しくないのか?」


目を閉じながら鏑目は愚問だなと思った。

あんなに自由に描けるヤツが漫画のことを難しいなんて思うはずが無かった。


「私、先輩の漫画好きですよ」


征子の言葉は返答になってもなく、一番鏑目が聞きたくない言葉だった。




鏑目が漫画家デビューしたのは大学三年生の時だった。

応募した月刊雑誌の新人賞に入賞して、そのまま連載を持った。

就職活動もせず、大学では漫画研究会に入って殆ど漫画を描くことに時間を費やした。

漫画が好きだった鏑目はそのまま大学も中退して漫画家としての生活を始めた。

そしてそんな生活が破綻するまで三年も掛からなかった。

人気が出ずに連載が打ち切られてから、新連載の編集会議にも何度も描きたい漫画のネームを提出するが、会議を通らず結局デビューした雑誌からついには声が掛からなくなった。

連載が終わってからの結局一年以上はほとんど無職同然で、あっという間に税金やアシスタントさんを入れる部屋数の多いマンションの家賃などで貯金は底をついた。

そんな時期に悪いことは重なるもので鏑目の親が入院する事になって看病と生活を立て直すために定期収入のある会社勤めをする事になった。

そのまま鏑目は漫画を描かずに会社勤めを続けている。

貯金もなくなった鏑目が選んだアパートは古くていつ地震で潰れてもおかしくないような古いアパートだった。

兎に角安くて、経済的に負担の掛からないアパートを選んだのは自棄になっている部分もあった。

周りが結婚して立派に家庭を築いたりしている中、自分は憧れていた漫画家の生活を諦めて、慣れない集団作業の事務仕事を毎日こなしている。

望んだ未来ではない。

でも自分の漫画が世の中に受けなかったせいで訪れた未来。

だから誰に文句を言えるはずもなく、鬱屈とした日々が続いていた中で変化が訪れたのは去年の春からだった。


「先輩、隣に引っ越して来ました」


デビューが決まってから殆ど大学にも漫画研究会にも顔を出さなかったので、久しぶりの再会だった。

大学時代の漫画研究会という名の漫画が好きでも漫画を描かない連中の集まりの中で、征子はまだ漫画を描く人間だった。

でもその描き方はよく言えば個性的で悪くいえばノートの端に書くような落書きのようなものばかりで、しっかりとページにコマ割されたものではなかった。

鏑目の大学の漫画研究会は「漫画の話をするのが好きであって、漫画を描くのは趣味じゃない」人間の集まりだったので、漫画を描くのが何よりも楽しかった鏑目には緩いサークル活動に見えた。

そんな中で征子だけは漫画を、いや漫画のようなものを部室の片隅で描いていた。

そんな征子に鏑目は上から目線で漫画の基本的な描き方を教えていった。

そこからの展開は漫画みたいだった。

あっという間に征子はプロットの作り方、ネームの切り方を覚えて百ページ近い漫画を完成させた。

百ページ近い漫画を持ち込める編集部はそんなに多くないので、試しに年四回発表している雑誌に申し込んだら大賞をとってしまった。

その発表を見てから鏑目は征子と会ってなかった。

自分が何年も持ち込みしたり、同人誌を作ったりして長い修行の末に雑誌掲載と連載を勝ち取ったのに、征子はあっという間にデビューを決めてしまった。

その事に嫉妬してもしょうが無いのは分かっているが、自分が一番好きな事、自信を持っていた事をあっさりと飛び越えられてしまって、何だか生まれて初めて身を焼かれるような恥ずかしさを覚えた。

征子のデビュー作は今でも鏑目は読みながら震えるくらい面白かった事を覚えている。

今日も会社に帰ってきてから読んだ征子の漫画は面白かった。

自分には描けない。

そう思わせる漫画だった。

そこまで考えて鏑目は目が覚めた。

周囲は明るくて、日当たり悪く薄暗いボロアパートの部屋にも日光が差し込んで来て、幾らか暖かくなり始めた。

明るい鏑目の部屋には白い紙が錯乱していた。

征子が座っていた所には誰も居なかった。

筆記用具もそのままに机には征子が描きかけの紙とシャーペン、消しゴムがそのまま置いてあった。

落書き遊びに飽きたのか、何もかもが寝る前のままだった。

不意に鏑目は目の前の光景が信じられなかった。

さっきまで漫画を描いていた征子の事、部屋に一人でコートを着たままコタツで寝てること。

全部がなんだか幻のように思えたが、他人に散らかされた部屋は現実で、押し入れに叩き込んでいる一週間分の洗濯物の山も現実だった。

久しぶりの休日に、早く洗濯をしないと日が暮れてしまう。

怠い身体を引き起こして、鏑目は部屋に散らかった紙を拾い上げて行く。

部屋に散らかった紙を集めると週刊漫画雑誌くらいの束になった。

二日家を空けただけでこれだけ「何か」を描けるのだから、征子の脳はどこか壊れているのかと思った。

多分本人は今頃隣のゴミ溜めみたいなカーテンを締め切った自分の部屋で寝ているのだろうと考えるとまた鏑目の眉間に皺が寄った。

征子の部屋には姉が趣味で買ったという服が、主に制服系コスチュームが大量に保管という名の放置をされていた。征子はいつもその中から適当な服を見つけては着込んで暮らしている。

征子は自分で服を買ったことが無いという話しを聞いたとき鏑目は本気にしなかったが最近本当だと言うことを理解した。

彼女は外に出ずにただ時々漫画を描いている生活をしている。

どうしてそれで生きていけるのか鏑目は不思議に思うが、征子の生活はずっと変わらなかった。

顔が良いので化粧でもすれば幾らでもどうにでもなりそうな気がするが、コミュニケーション能力は明らかに低いので、勿体ない事だと思った。

だから自分とは気が合うというか腐れ縁を続けられるのかまで考えて鏑目は頭を振った。

その時鏑目の部屋のドアをノックする音が聞こえた。

一瞬征子かと思ったが、征子だったらドアを開けた後に意味の無いノックをするので、まだ空いて居ないドアを見て誰か来たのかと鏑目は今更まだ来ていたコートを脱いで応対に出る。

ドアを開けると、コートを脱いだ薄手の紫のセーターを着込んだ女性が立っていた。

黒い長髪を背中に流して、キツイより目をメガネ越しに鏑目に向けてきた。

抗議に来たかのかと思うほど目の前の人物は怒っているのかと思ったが、本人にはそのつもりはまったくなかった。


「出かけるところですか?」


鏑目はまだ自分が会社用の服を着ているのを思いだした。


「いや、別に」


「部屋に谷津先生のネームが有るって聞いたんですが?」


「ああ?」


女性は谷津の担当編集者で名前を城福博美(じょうふくひろみ)と言う。


「一ヶ月ぶりにメールがありまして、それで今日伺ったんですが?」


「そうかよ・・・・・・」


鏑目は女性がコンビニにでも寄ったと思われるビニール袋を下げているのを見て納得した。

征子の描いた漫画を見るためにわざわざ食料を買い込んで、長く居座る気だ。


「征子のネームはテーブルの上に並べてある、勝手にしろ」


「では上がらせてもらいます」


女性は小さく頭を下げた後、畳の部屋に上がる。


「何も食べてなければ、適当に買ってきましたので?」


「コーヒーでも煎れる」


「ありがとうございます」


城福から自動応答的な返事が返ってきても鏑目はムッとはしなかった。

いつも言葉少ないうえに、偶に喋れば大体堅苦しい挨拶だけだった。

城福博美は堅物というよりも、感性が麻痺しているというか、必要の無い無駄なコミュニケーションは一切しない、そんな基本プログラムで動いているロボットのような物だと鏑目は思っていた。

台所でお湯を沸かす準備をしていると、後でタバコに火を付ける音を聞いた。

家主に許可も取らないでタバコを吸い始めるのを見て、ただの無神経なのではとも思ったが、今更口にせずに黙ってインスタントコーヒーを差し出す。


「ありがとうございます」


鏑目は城福の対面に座ってコタツに入った。


「この二つの束は?」


城福の目の前のコタツのテーブルには紙の束が二つあった。


「こっちが落書きで、たぶんネームはそっちだ」


落書きのほうが倍以上の厚さだったが、特に城福はそこには感心を覚えず、さっそくネームを読み始める。昨日鏑目が見ていた女の子の話だ。


「あっ灰皿ってありませんか?」


「ない」


城福は脇に置いたコートのポケットから携帯灰皿を取り出して机の上に置く。


「禁煙ですか?」


「そうだよ」


「何回目ですか禁煙?」


「数えるのは止めた」


「年一回くらいですか?」


「もうちょっと多い」


鏑目は高校の頃から吸い始めたタバコを定期的に止めようと禁煙をしていたが、止められた事は一度も無かった。


「太りました?」


「タバコ止めてからな」


そこで唐突に会話は打ち切られた。話してる最中も城福はネームから目を離さない。

城福は白い紙の上にある何かを探すようにゆっくりと紙を捲っていく。

一定のペースで紙を捲っているかと思ったら、何ページか元に戻ってまたゆっくりと見直す。

その後一息ついて、コーヒーを口にしてまた紙を捲る。

そんな城福の姿を見ていて、何故か鏑目は胃が痛くなるのを感じていた。

別に城福に付き合っているつもりもなく、風呂も入っていないのでシャワーでも浴びに行けば良いのだが、なぜか城福の前で鏑目は固まっていた。


「鏑目さん?」


「なんだ?」


「鏑目さんのネーム見てるわけじゃないので、そんなに緊張されなくてもよいのでは?」


城福の忠告で初めて自分が緊張していた事に気がついた鏑目は照れ隠しにマグカップに手を付けてコーヒーを飲んだ。

マグカップのコーヒーは手つかずのままだった。


「気になるんですか?」


「別にそういう分けじゃない」


「鏑目さんはこの谷津先生の作品どう思いますか?」


「どうって?」


「率直に」


「意味が分からない」


「確かに」


「でも面白い、谷津の漫画だ」


四畳半の畳敷きの部屋は静かで、日の暖かさで部屋の室温もだいぶ暖かくなってきていた。


「谷津先生は自由ですね。誰とも違って面白い」


「あいつは自由すぎる」


鏑目は鼻を鳴らして眉間に皺を寄せる。

鏑目の不遜な態度を気にせずに、城福は再びネームに目を通していく。

黙りながらネームを見ている城福を見て、鏑目は何か不満でも有るのかと思っていたが、そんな事は杞憂だった。

やっぱり征子の描いた漫画は面白かった。自分も読んで面白いと思ったのだから自信はあった。

けど、どこかで面白くないかもと思ったのはなんだろうか?

仕事もせずに、人の部屋で勝手に漫画を描いてた征子への嫉妬だろうか?

単純な作品の面白さの外側に嫉妬している自分はもの凄く見窄らしいと思った。


「違う」


「どうしたんですか?」


「うん、いや何でも無い」


思わず否定の言葉を心の外に出してしまって、鏑目は天井を仰いでしまった。

頭の上からゆっくりと「恥ずかしさ」が降りてくるのを感じた。

何だか体中が痒くなってくるのを覚えて、そういえば二日風呂に入っていない事を思い出した。

幾ら無神経な城福が相手とは言え、女性の前で失礼かと思って風呂でも入りに行こうかと思って鏑目はコタツから抜け出た。


「風呂に入ってくるから、あとは勝手にしてくれ」


「谷津先生はいつ起きてくるでしょうか?」


「さあな、昨日何時までそれやってたか分からない」


「起きるまで待ちます」


「俺は洗濯とか掃除したいんだけど?」


城福がなんで私に了解を取る必要があるのでしょうか? っという顔をするので鏑目はそれ以上何も言えなかった。

城福は何をしようと征子が起きてくるまで鏑目の部屋で待つと決めているようだった。

なんで俺の部屋は女が勝手に入ってきて居座るんだ?

二人とも一般常識に照らし合わせれば美人の範囲に収まる気がする。

けど二人とも一般常識からは掛け離れた自己中心的な考え方で生きている。

他人の部屋にズカズカと入って来て漫画を描いたり読んだりする。

いや、一般常識的に考えると漫画を描くと言うことは誰もが行う行為ではない。

そう考えるとやはり征子は非常識な人間なのは必然なのか?


「鏑目さん?」


「うん?」


「洗濯しないんですか?」


さっきから押し入れの前で立ちっぱなしの鏑目に城福は声を掛ける。


「今からする」


押し入れを空けると片隅には服が詰め込まれたカゴが置いてあった、そこにはシャツから下着まで一週間分の洗濯が入っていた。

溜息付きながら洗濯物に手を掛けると隣の部屋、征子の部屋から物音がした。

ドアが開く音が聞こえてからそのまま鏑目の部屋のドアがノックも無しに開いた。


「あっ城福さん」


「お久しぶりです」


コタツに入ったまま軽く城福は頭を下げる。


「早いですね」


「今日はオフなので」


なにも驚きもせずに挨拶を始めた二人の声を聞きながら洗濯物のカゴを押し入れから取り出して洗濯物を片付けに行こうとするが、目の前に現れた黒い影を見て、一気に脱力する。


「谷津、おまえその格好なんだよ?」


「えっ? 知らないんですか「くまのん」ですよ?」


征子は黒い縫いぐるみのようなものを来て鏑目の部屋に入ってきた。

子供用の寝間着のようなブカブカの黒い着ぐるみ、フードのように被るところには人を食ったような目付きをした熊のキャラクターの顔が描いてあった。

キャラクターの顔の下、には残念な事に美人の顔があった。

「なんで縫いぐるみなんか着てるんだ?」

征子は肩をすくめて手を上げる。


「これ、凄く暖かいんですよ。これ着て寝るとほぼ布団いらずの着る毛布みたいで」


「それでそのまま俺の部屋に来るのか?」


「いや、なんか洗濯するんだったらお願いしようかなと思って」


征子の手には洗濯物と思われる茶色いトレーナーや白いナース服、作業着のようなポケットが沢山付いたジャケットなどが握られていた。


「なんで俺がお前の洗濯してやらなきゃならんのだ?」


「いいじゃないですか、洗濯機に突っ込むのは同じなんですから」


「俺の洗濯物と一緒でいいのか!?」


「私の家はお父さんの洗濯物一緒に洗いますよ。あとでお金取りますけど」


「俺はお前のお父さんじゃない」


「折角いい天気なんですから、今洗濯しないともったいないですよ?」


「そんな事は分かってるんだよ!」


「谷津先生、ネーム見させて貰いました」


城福が洗濯物を持って立ち話している二人の間に入ってきた。普通に仕事の話しを挟まれて、なんだか鏑目納得いかなかった。


「あっもう読んでくれたんですか?」


「まだ途中ですけど、いいですねこの話し」


「そうですか?」


嬉しそうに征子は洗濯物を鏑目が持っているカゴの中に突っ込んで、そそくさと城福の近くに座り込む。


「もうちょっとで全部読み終わりますから、打ち合わせしましょう」


「はい、これ食べて良いですか?」


征子はテーブルの上にあった城福が買ってきた食べ物に目を付けて手を伸ばす。

特に断りもせずに、城福は原稿を読み進める。

その横で子供みたいに征子はおにぎりを見つけて食べ始める。

征子は何も緊張感もなく、隣でネームを覗き込んでいる城福の横顔を見ている。


「今回だけだからな」


「ありがとうございます先輩」


目を輝かせて征子は鏑目に礼を言う。

征子の声は媚びているような甘い声でもなく、お婆ちゃんにお年玉もらって親に無理矢理お礼言いなさいと言われてから言うような感謝の言葉だった。

まあ土下座してお願いされる事でも無いのは分かるが、釈然としないまま鏑目は洗濯に行くことにした。

ドアを開けて部屋を出るときに真面目な編集者とクマの縫いぐるみを着た漫画家のシルエットを見て一つ大きな溜息をついた。

なんだか漫画みたいな絵だった。




洗濯が終わった後部屋に戻ると打ち合わせはあらかた終わっていて、なぜか鏑目の部屋に全員で昼飯を食う事になった。

勿論用意するのは鏑目だった。

適当に冷凍庫にあった余りもののご飯を炒めてチャーハンにした。


「次の号で百ページくらい空きが出たので何ページでも良いのでなんか描いてみませんか?」


「百ページも空き?」


部外者の鏑目が最初に驚いた。

月刊誌とはいえ百ページは大きな穴だ。


「ええ、まぁ色々とありまして」


説明が出来ないのかめんどくさいのか城福は詳しい説明はしなかった。


「どうですかコレを少し直して貰えれば・・・・・・もうペン入れして頂いて構いません。発表しましょう」


「うーん、どうしましょうかね?」


昼になって熱くなったのか、征子はクマの着ぐるみパジャマを脱いで今度は黒いタイトスカートにシャツを着て、何処から貰ってきたのか分からない医者が着る白衣を着ていた。

今更コスチュームに突っ込むのも疲れた鏑目は自分で作ったチャーハンを黙々と食べる。


「先輩どう思います?」


「・・・・・・悩んでないで描けよ」


鏑目は早めにチャーハンをかきこんで皿を空にしていた。

城福はゆっくりと静かに食べていて、一番多く盛った征子はまだ半分も食べ切れていなかった。


「他にやることないだろ?」


「確かに」


征子は腕を組んで唸る。


「そろそろ雑誌に作品を発表しないと読者に忘れられてしまいますよ?」


「もう忘れられてるんじゃないですか?」


「問い合わせありますよ、アンケートにもまだ質問が来ます」


征子のデビュー作はインターネットの漫画批評のサイト上で色々と取り上げられていて、半分伝説のようなものになりつつある。


「まあ何も情報発信もしてないし、同人誌即売会に出てるわけでも無いから逆に謎が謎を呼んで気になってるみたいですけどね」


征子はインターネットなどで常に作品を発信しているタイプではなかった。


「あっお前また俺の押し入れのパソコン勝手に使っただろ?」


「メール打つのに借りました」


「連絡手段くらい持たないと仕事できないだろ?」


「仕事?」


「お前は漫画家だろ?」


白衣を着た征子に鏑目は職業を諭す。


「そうですね、漫画描いてお金貰ってたら漫画家ですもんね」


「こっち見んな」


一回でも漫画描いてお金貰ったら漫画家だと言ったのは昔の大学時代の鏑目だった。


「とりあえずこのネーム編集会議に通しますけど、もうペン入れして貰って構いませんので作業始めて下さい」


「随分急だな?」


「ええ、早めに着手して頂いたほうが・・・・・・谷津先生アシスタントさんもいらっしゃらないですし」


征子は今まで一人でしか描いたことが無かった。


「こっち見んな」


城福は正面の鏑目の方を見た。


「俺は絶対手伝わないからな、仕事あるし」


「土日は休めてるんですか?」


「繁忙期の月末月初以外は休めてる・・・・・・」


今度は征子と城福二人同時に鏑目の顔を覗き込んだ。

時間が無いことは無いのだ、平日中は頭の中は仕事のことでいっぱいになるし、忙しいが週末の土日の休みは空っぽになる。

征子と城福はじっと鏑目の顔を覗き込む。


「だから俺はもう漫画は描かない」


「本当に描かないのですか?」


「俺は漫画家を廃業にした普通のサラリーマンだ」


「そうですか、今回のお話は部外の原稿でも良いので鏑目さんも何か原稿あればと思ったんですが・・・・・・」


「俺はもう描かない」


「そうですか」


無言のまま鏑目は城福の空になった皿を自分の皿に重ねて、自分の背の後ろにある流し台に持って行く。

どうせこの二人は洗い物を手伝うなんて殊勝な心がけは一つも無い。


「早く打ち合わせ終わったんだったら帰れよ」


「どうしてですか?」


「迷惑してんだよ」


「もうちょっと味わってからで良いですか、先輩のよく火が通ったチャーハン」


「早く喰えっていってんじゃ無い!」


「とりあえずこのネームをスキャナーかなんかで読み取りたいのですが、お持ちですか?」


「あっ押し入れにありますよ」


征子が押し入れを指差す。

城福はそのまま動かなかった。


「勝手にしろ」


「ありがとうございます」


鏑目の許可と同時に城福はコタツから出て、押し入れの下にあったスキャナーを取り出して、自分の鞄から銀色のノートパソコンを取り出した。

パソコンにスキャナーを接続して、征子の原稿を取り込んでいく。


「さて、ご飯も食べたからもうひと眠りしますね」


いつの間にご飯を平らげて、征子はコタツから出て立ち上がる。

皿はテーブルに置いたままだった。

ご飯食べてすぐ寝るなんて良い身分だなと文句も言いたかったが、作業する城福を置いて征子はさっさと隣の自室へと白衣を翻して戻って行った。

鏑目は大きな溜息をついてテーブルに置かれた征子の昼食の後片付けをした。

腹立たしい事に皿には少しチャーハンが残してあった。


「良いのかアイツに釘刺さなくて」


「大丈夫です」


鏑目には城福の大丈夫は信頼と言うよりは諦めに近いものを感じた。


「今回はここまで出来てますから」


城福はスキャニングが終わったネームの束をちらつかせる。


「今まで催促したって出て来なかったものが、これだけ溜まってるんですから、大丈夫です多分」


「また途中で放り出すかも知れないぞ」


「それは困りますね」


城福は作業する手を止めない。


「最初の連載が潰れたせいで私は編集部で凄い肩身の狭い思いをしましたからね」


征子の読み切りは評判が良かったのでそのまま連載開始と雑誌は行きたかったのだ。気分屋の征子はまったくネームを出さず、作品は一向に完成せず出て来なかった。


「だったらもっと強く言った方が良いんじゃないか? もう雑誌で描けなくなるぞとか・・・・・・」


「言ったところでそれがどうしたってなるでしょう?」


城福は珍しく笑っていた。


「谷津先生は漫画を描くのが好きだから、それを雑誌に載せて世間の評判を獲るとかお金を稼いで生活に当ててまた漫画を描くとかサイクルを意識して物事を論理的に繋げていく事なんて考えてないですよ」


「アイツもう二十五歳だぞ?」


「そうですね」


「なんであんな自由なんだよ・・・・・・」


「そうですか?」


「そうだろう、何も先の事なんか考えてない」


「私には谷津先生は酷く不自由に感じますけどね、描く漫画は自由なんですけど生き方は不自由ですね」


「アイツが?」


「ええ、一本道を真っ直ぐに歩くしか無いような、他に選択肢がない感じが」


テレビも何も無い鏑目の部屋に小さなモーター音が鳴る。

城福は話しながらも淡々と原稿をスキャニングしていて、最後の一枚を取り込み終わった所だった。


「スキャナーありがとうございます」

自分のノートパソコンからケーブルを外して、城福はテキパキと帰り支度を始めた。


「あいつ今回はちゃんと完成させられるかな?」


「してもらわないと困りますね」


「あんたの立場がないしな」


「いえ、これ以上待たせると読者さんに忘れられてしまいますよ」


征子の新人賞受賞作が掲載されてから一年近くが経とうとしていた。

幾らデビューが鮮烈でも、後に続かなくては新しい新人や湧き水の如く生み出される作品群の中に埋もれて読者に忘れ去られてしまう。

雑誌の編集者側、本を売る側にとっては大きな機会損失だ。


「あいつの不自由さってなんだ?」


「谷津先生、漫画しか描けないじゃないですか」


部屋でコートを着込みながら城福は笑う。鏑目から見て城福の笑顔は今更聞くのかという感じで、嘲笑のように見えた。

確かに毎日寝てるだけで偶にしか外に出ない征子は社会不適合社一歩手前みたいなものだった。


「ご馳走様でした」


城福は荷物を持ち立ち上がって部屋を後にしようとする。

見送る義理のない鏑目はただ納得の行かない様子でテーブルを片付け始める。


「あっ」


扉の前で気がついたように城福が振り返る。


「じゃあ鏑目さんよろしくお願いします」


城福は深々と頭を下げた。


「何が?」


「今回の掲載が谷津先生のラストチャンスになります」


城福は求刑を言い渡す裁判官のように感情を抑えて言う。


「どうゆうことだよ?」


「一年前に載ったっきりの新人をこれ以上編集部としても・・・・・・私も担当外れそうなんです」


「あんたの所は一年くらい新人にネーム描かせるんじゃなかったのか?」


「描いてくるから描かせるんであって、描いてこない人には一年も掲載枠考えて待ったりしませんよ」


やる気がある作者はそれなりに対応するが、気まぐれな征子の相手はこれ以上できないということだ。


「だから、これが谷津先生の作品が世に出る最後かもしれません」


「それは言い過ぎだろ?」


「一度折れた漫画家さんの気持ちを立て直すなんて不可能なんじゃ無いでしょうか?」


城福は真っ直ぐと鏑目を睨み付けた。


「職業柄そういう人をよく見ますから」


鏑目は自分の事を言っているのかと聞き直すつもりも無かったが、城福はその前に否定した。


「だから谷津先生の事を鏑目さんお願いします」


「どうして俺なんだよ・・・・・・」


「だって谷津先生に漫画を描かせたのは多分鏑目さんだけだから」


「俺が?」


「私は一年やってみたけどダメでしたしね」


「俺は何も言ってないぞ」


「言わなくても伝わるんですよ」


「なにが?」


「絵から何かが」


もう一度頭を下げて、城福は鏑目の部屋を後にした。

部屋には納得のいかない顔をした鏑目だけが残った。

コタツのテーブルの上に残ったネームを見ると、だいたい五十枚くらいあった。

下書きから書き込まれた背景などをみてペン入れをするのに普通にやったら一日一枚くらい掛かるだろうか?

無職で時間だけがある征子がやればまあ一日で二、三枚はペン入れ出来るのではないかとは思う。

それでも来月号の掲載となると正味二十日間程しかない。


「ギリギリだな・・・・・・」


何故か胃が痛くなるのを覚えながら鏑目は首を洗濯機の脱水機のように振る。


「関係ない、俺はもう関係ない」


コタツに腕を突っ込んで、テーブルに頭を擦りつけながら鏑目は独り言を呟く。


「明日から地獄か・・・・・・」


鏑目は年齢と共に諦めるのが早くなることには薄々気がついていた。





「先輩、ここのベタお願いします」


今日の征子の姿は建設現場の作業服なのか、野暮ったいポケットの沢山ついたジャケットを羽織っていた。

女性らしい色気はゼロ点を超えて無限大に達している感じだった。

元が美人なだけに、髪をアップに纏めて手元を汚して作業する姿はなんだか悲しい感じすらした。


「お前いい加減さぁデジタル環境導入しようぜ!?」


渡された原稿を受け取りながら鏑目は文句を言うが、気にせずに征子はペンを走らせている。


「私パソコンはダメなんですよね、お金掛かるし」


「でもこんな黒ベタとか一発だぜ?」


「先輩ベタ塗り丁寧じゃ無いですか?」


「お前なぁ」


会社から帰ると征子は鏑目の部屋で毎日原稿の仕上げをしていた。

勿論鏑目は追い出そうとしたが、鍵の壊れたプライバシーも無い鏑目の部屋に入り込んでは征子は原稿を続けていた。

征子も最初は何も言ってこなかったが、締め切りが近づいて来るとそうも言ってられなくなり、原稿の仕上げを鏑目に手伝って貰うようになっていた。

シャーペンの下書きを消す消しゴムかけの作業、範囲を黒く筆で塗りつぶすベタ作業、陰影を付けるトーン処理から、背景を書き入れる等、鏑目が気がついたら作業は複雑なものになっていった。


「俺はなんで手伝ってるんだ?」


「なんでですか?」


「お前が聞くなよ・・・・・・」


「気になるじゃないですか?」


鏑目も征子も喋りながら手は止まっていない。

鏑目は征子からアシスタント代を貰ってるわけでもない、それどころか居候されているようなものだった。


「自分の部屋でカリカリやられて寝られるか!」


「じゃあ私の部屋で寝ます?」


「お前の部屋のどこに寝るスペースがあるんだよ」


「身体丸めれば何とか行けますよ」


鏑目は身体を丸めて洞窟の中で冬眠するクマのことを思いだした。

部屋中に散らかって積層した服の山に埋もれている征子の部屋は、日中も薄暗く洞窟みたいだった。


「いい加減に服をタンスに仕舞え」


「面倒です」


二人とも会話しながら手が止まらない。

まるで手と頭は別の仕組みで動いているように思えるほど、口では鏑目は征子を罵り、征子は鏑目の罵りを受けて適当に答えを返す。


「おい、これ下書きと違うぞ?」


原稿用紙の下に薄いエンピツの線が走っているが、その後に描かれたインクで描かれた線は下書きの線を大きく逸脱して、違う絵が描かれていた。


「どれですか?」


征子が顔を上げて覗き込む。


「ああ、こっちの方が面白いと思ってペン入れするとき変えちゃいました」


「下書きの意味がないじゃねえか!」


「うーん、でもこっちの方が面白いですよ?」


「そういう問題かよ?」


「面白くないですか?」


下書きでは小さく割られていたコマが、ペン入れでは纏めて一コマで大きくキャラの表情が描かれていた。

確かにペン入れした絵の方が見やすくて、読んでいてリズムがよかった。


「ネーム通りやらないと期限内に終わらないぞ?」


「そうですね」


分かっててやらないのは征子の特長だった。


「あとペン入れ何ページだ?」


「あと二十ページですね」


鏑目が会社から持ってきた卓上カレンダーに書き込まれたスケジュールには毎日仕上げなければ行けないページ数と実際に仕上がったページ数が書き込まれていた。

殆どの日付に同じ数字が上下に書き込まれていて、概ね満足出来る進捗状況だった。


「このまま行けば何とか締め切り通りに間に合うな」


「凄いですね」


「俺が手伝ってるからだろ」


「ああ、先輩どうしてですか?」


この時初めて征子のペンを動かす手が止まった。


「なんだよ?」


「仕事終わったあとで疲れてるのにどうして私の漫画手伝ってくれるんですか?」


「どうしてって・・・・・・」


もちろん鏑目は明確な答えは持ち合わせていなかった。

この漫画が載らないと征子の漫画家人生が終わってしまう危機感、後輩に格好いい先輩面したい、美人な女性を助けて優越感に浸りたいなど幾つかの思い当たる理由はあったが、どれも説得力に欠ける気がした。

少し考えたあと鏑目は手元の原稿を見る。

紙の白とペンの線とベタの黒塗りで表現された征子の漫画。

誰が見ても征子の漫画と分かる特徴的な絵。

視線をページの右から左下まで落としていくと、次の展開が何度読んでも気になる。

それはストーリー展開がどうという問題では無い。

鏑目は漫画に一番必要なものはテンポだと思っていた。

断片的な画を繋いでいくノリのようなもので、読者には見えないがそれがないと漫画は唯の画の並びになってしまう。

コマを大きくして強調したり、小さくして流れの中に紛れ込ませる。

そんな小さな工夫なのだが、征子は圧倒的に上手かった。

鏑目には無い才能というものが紙面に踊っていた。


「お前手伝って欲しくて態と俺の部屋で作業してるんだろ?」


「まあそれもありますけど、それだけじゃないですよ」


「なんだよ?」


「先輩と居ると私漫画描けるみたいなんです」


「どういうことだよ?」


「私、先輩に会うまで漫画を描ききった事がないんです」


そう言えば賞で大賞をとった作品以外征子の完成された作品を見たことがなかった。

落書きのような話しに落ちが無いものは何度か見た事があるが、ストーリー漫画は見たことがない。


「なんででしょう?」


「しらねぇよ」


本当に分からないのか、重そうに目を細めて作業着姿の美人は頭を下げる。


「寝るなよ終わらないぞ」


「昨日も殆ど寝てないんですよ?」


「今まで半年以上寝てたんだから大丈夫だろ」


「あっ知ってます? 人間って寝だめ出来ないんですよ」


「俺は人間はもしかして冬眠は出来るのかも? ってお前の行動見て考えを改めた」


鏑目の返しに征子は言葉も発せずに再びペンを走らせ始めた。

カリカリっとペン先が紙を走る音が聞こえる。

鏑目はこの音が嫌いだった。

いや、漫画家を止めたときから嫌いになった。

幾ら描いても描いても満たされない。心が空っぽになっていく音だ。

でも隣で描いている征子は真っ直ぐに手元の紙を見ながらペンを走らせる。

コイツには面白い漫画を描けない俺の気持ちなんか一生わからないのだろう。そんな事を原稿を仕上げながら鏑目はボンヤリと考えていた。

ただその時は鏑目は気がつかなかった。征子の中に生まれていた疑問を。


「先輩は漫画描いてて楽しいですか?」


「なんだよ急に」


「なんとなく」


「お前はどうなんだよ」


「私はそういうのないんですよ、楽しいとか辛いとかないんですよね」


「じゃあなんで描いてるんだよ?」


「紙があるじゃないですか」


征子は描きかけの原稿用紙を指差す。


「ペンがあるじゃ無いですか」


鏑目に見えるように征子はインクで汚れた手でペンを持ち上げる。


「だから描く・・・・・・みたいな?」


「どうしたんだお前?」


「えっ?」


「そんな質問、変だぞ?」


「そうですか?」


「そうだよ」


「そうか私変なのか・・・・・・」


何だか征子は嬉しそうだった。


「ペン入れ進んだから、少し休んでもいいんだぞ?」


予定よりは遅れていたが、巻き返せないペースではなかったので鏑目は征子に優しい声を掛けた。そして直ぐに後悔したのは、作業を後伸ばしにしているだけなので後に響くと思ったからだ。

今は月末の繁忙期じゃないからいいが、締め切り近くになると月末も近づいてきて忙しくなる。

それにあまり作画作業を長引かせたくも無かったし、早く自分の部屋を自分のものに取り戻したかった。

自分の都合と征子の原稿を天秤に掛けながら、ハッキリと休めとも頑張れとも言えない自分が段々と情けなくなって来た。


「大丈夫です」


征子が笑顔で笑うので、何だか自分の考えが見透かされる思いだった。

たぶん征子の笑顔は作業服と修羅場で風呂に入ってないパサパサの髪じゃなければ、殆どの男性だったら心が溶けてしまうような笑顔で、誰もが心を奪われるような完璧な笑顔だった。

でも鏑目は不安を感じてしまった。


「本当にお前大丈夫なのか?」


「何がですか」


「いや、何でもねぇ」


再び部屋には作業するだけの音が響いた。

何もなくても軋む音が聞こえるような古いアパートで、ペンが紙の上を擦りながら走る音だけが聞こえる。

男女二人部屋に居て言葉も交わさずに、ただ白い紙に黒い線を引く作業を続ける。


「先輩」


「なんだよ?」


「今私の描いてる漫画面白いと思いますか?」


「あぁ?」


「面白いですかね?」


「面白いよ」


鏑目は嘘はついていない、征子独特のテンポと不思議なストーリーが絡まって、誰にも描けない征子の漫画だと思っていた。

正直に自分にこの個性があれば漫画家も続けられたのにとも思っていた。

それにあの編集の城福もペン入れの指示をしたのだから、面白さに間違えは無い。あの雑誌は何度も編集部の方針で決して駄作は載せずに一定のクオリティーを維持している雑誌だったから面白さの保証については尚更だ。


「そうなんですね・・・・・・」


嬉しそうに笑う征子を見て鏑目はなんだか背筋が寒くなる思いがした。

征子の事を漫研の後輩、隣の住民、腐れ縁、色々な関係があるが、全てを遮断されたような気がした。

普通笑顔だったら融和を象徴するものだと思うのだが、征子の笑顔は別物だった。

美人の笑顔を見て、それを自分に向けられた好意だと受け止められずに冷徹に思うのは卑屈だと鏑目は分かっていても征子の笑顔を直視出来なかった。

中年太りをし始めた自分と、身なりが変でも美人な征子。

漫画を描く才能が無い自分と、面白い独自の世界を持った漫画を描ける征子。

比べれば最初から壁がある。鏑目にその壁を越えてどうこうする気力なんか無かった。

征子の笑顔はそれくらい美しいと同時に遠くにあると感じた。

鏑目は征子の漫画の原稿を仕上げながらそんな事を感じている自分に呆れた。

手を伸ばそうともしない自分に何か掴めることがあるのか?

そんな事を考えながら鏑目はホワイトで原稿を直した。

もうすぐこのページは完成する。

手が動く限り漫画は完成へと終わりへと近づいていく。

なんだか不安になりながら鏑目は明日の朝ちゃんと起きて会社に行けるか自信が無くなったので、そのまま徹夜仕事をする事に決めた。

そして作業しながら寝落ちしたためにその日は会社に遅刻をした。




鏑目達が住んでるボロアパートがある街に雪が降ってきた。

薄く白い雪に覆われ始めた道路を歩きながら、鏑目はいよいよ今年の冬の寒さも峠に差し掛かって来たのだなと思いながら帰路を最寄りの駅のコンビニで買ったビニール傘を挿しながら歩いた。

一週間以上、殆ど口も聞かずに鏑目と征子は漫画を書き続けて原稿を仕上げ続けた。

余計な事もせずに淡々と漫画を描き続ける。

征子が疑問を口にした日から嘘みたいに原稿を書き上げる作業は順調に進んだ。

鏑目が会社から帰ると仕上げを待つ原稿が並んでいて、直ぐに作業に取りかかれた。

待たされる事も無く、ほぼ毎日同じようなペースで征子の漫画は仕上がっていった。

上手くいっている時こそ何か大きな落とし穴があるような気がしたが、漫画の完成原稿は着々と積み上がっていた。

もともと鏑目の部屋には何にも無く、それしかやることが無いのも手伝って作業は順調に続いた。

それでも締め切り日当日までずれ込むのは仕方が無かったが、まあ五十ページほどの原稿をよく期日通りまでに仕上げられたと感心した。

会社の帰り道、残業が終わり一人で帰路につきながら鏑目は今日までの征子の原稿手伝いをしていた日々を思い返した。

思った以上に混乱も無く征子の久しぶりの新作は描き上がった。

ホッとするのと同時なにか呆気なさに鏑目は落ち着かない気持ちでいた。

でも自分が漫画家として連載を持っていた時も原稿終わりの日はこんなものだったのを思いだした。

迫る締め切りに追い詰められ、いつももう間に合わないと思いながら描いていて何とか間に合う。

原稿の入稿が終わると魂が虚脱して、二日、三日は何も手がつかない。

次はギリギリにならないようにと早めに手を付けても、原稿をしたくないと逃げても結局はいつも締め切りギリギリになる。

なんでこんな辛いことを繰り返しているんだろうなと考えた事は何度もあって、その度に漫画家を辞めようと思っていた。

でも実際に漫画家を辞めるときは別の理由で、ただ人気が無くて声が掛からなくなったからだった。

地面をみながら鏑目はなんで昔の事を考えてるんだろうと思った。

今日の仕事のミスは明らかに集中力不足で昨日のほぼ徹夜に近い背景のペン入れ作業のせいで、漫画の事なんか当分考えたくないのにだ。

でも、今日最後のページをペン入れして編集の城福に原稿を渡せばこの騒ぎも収まる。

そして、今度は征子の原稿の手伝いを断ろうと思った。

部屋に鍵を掛けて、もう二度と自分の部屋に征子が勝手に入れないようにしようと思った。

ふと、鏑目は帰路の住宅街の道路の真ん中で立ち止まった。

俺はなぜ征子が部屋に入るのを拒めなかったのだろうか?

アイツと居れば否が応でも嫌いな漫画と向き合わなければ行けなかったのに、なぜ征子を拒めなかったのだろうか。

征子が大学の後輩だからか?

それもある。

征子が美人だからか?

それもある。

征子が漫画家だから?

それもある。

でもどれも決定打ではなかった。

チッと舌打ちをしてコートのポケットに手を突っ込み直して、傘を握る手は手袋も無く冷たかったが鏑目は道路を睨め付けながら再び歩き始めた。

ボロアパートの前について、自分の部屋に明かりが灯っているのを確認して小さな溜息をついてから、鏑目はアパートの門を通って自室に向かう。


「ただいま」


「お邪魔してます」


返事は久しぶりに聞く編集部の城福の声だった。

部屋にはコタツに入らずに、コートを着たまま座り込んでいる城福が居た。


「あれ谷津のヤツは?」


「逃げました」


「はぁ?」


「原稿を抱えて逃げました」


「逃げた?」


「はい外へ」


城福がドアの外を指差す。


「なんで」


「私が原稿を受け取ろうとしたら急に原稿を抱えて部屋を飛び出して行ってしまいました」


鏑目は軽い目眩を覚えて頭を抱えた。


「どうしてそんな事になるんだ・・・・・・」


鏑目は全身から力が抜けていく虚脱感に襲われた。

足下が、唯でさえ古い木造住宅が遂に自分の重みを支えきれずに崩れ始めたのかと思ったが、崩れたのは自分の膝だった。


「納得行かなかったんでしょうね自分の書いた漫画に」


「だからって・・・・・・逃げていいわけないだろうに」


「普通ペン入れ完成してから納得がいかなくなる人なんて居ませんからね」


何日も徹夜仕事で手伝った征子の漫画は読んで面白かった。

決して鏑目には描けない「面白い漫画」だった。

なのに征子は納得が出来ないといって原稿を持って逃げてしまった。


「ちょっと探してくる」


「私も行きます」


城福も立ち上がろうとする。


「いや、あんたは部屋で待っててくれよ、帰って来るかもしれないから」


金の無い征子がそんなに遠くに行ってるようには鏑目は思わなかった。


「とにかく探して、征子の原稿を回収してくる」


「わかりました」


会社の鞄を部屋の中に放り投げて、そのまま鏑目は部屋を後にした。

部屋に残された城福はコタツの中に足を入れて、コートを着たまま待つことにした。


「あっアイツどんな格好してるんだ?」


「白いダウンジャケットを着てました」


そんな防寒着持ってたか鏑目の記憶に無いが、寒さで震える事も無さそうだった。


「分かった」


もう一度ドアを閉めて鏑目は出て行く。

そしてすぐに戻ってきて再びドアを開ける。


「他に特徴は?」


城福はスッと両手を頭上に挙手した。


「兎の耳が付いてます」





本当に公園で黒い兎の耳を見つけたときは呆れた気持ちと安心した気持ち、そして不安に苛まれたなんとも境界線がハッキリとしない、不定形な感情だった。

都内住宅街の中にある少し広めの公園の広場はすっかりと雪に覆われていて白かった。

草木や歩道を白く埋めて、純白のシーツを敷いたように真っ白だった。

明日になれば子供の足跡や、真昼の太陽で溶かされてしまって消えていく景色だ。

まっすぐと公園の入り口から小さな足跡が続いていた。

その先に白いダウンジャケットを着た征子が立っていた。


「そんなところでなにやってんだ谷津?」


ゆっくりと近づいてから鏑目は征子に声を掛けた。


「先輩?」


征子はどうして居るのという感じで鏑目に気がついた。


「お前なんでそんな格好で外出歩けるんだよ・・・・・・」


白いダウンジャケットの前から胸元の肌色と黒いレオタードと網タイツが見えていた。

見るからに雪の中では寒そうな格好であり、扇情的な格好だった。


「原稿最終日で着るものがコレだけになっちゃって・・・・・・お姉ちゃんがこれが最終兵器だって言ってました」


なんの最終兵器だか知らないが、確かに普通の男だったら征子がバニーガールの格好をしてたら確実に相手は怯む。

わざわざ黒い兎の耳を模した黒いリボン飾りまで付けてあざとすぎると鏑目は思ったが、もう問いただす気力は無かった。

それよりも手もとに持って居た紙の束、封筒にも入れていない剥き出しの原稿の方が気になった。


「谷津、お前その原稿どうするつもりだったんだ?」


「コレですか?」


征子が手にした大きな紙の原稿の束は既に雪に当たって濡れていた。

だがまだ乾かせば何とかなると思っていた。

征子が手に持っていた原稿を見て鏑目は手を伸ばす。

同時に征子は原稿から手を離した。


「馬鹿!」


原稿はスルリと征子の細長くしなやかな小枝の様な指先から離れて、白い雪の上へと一枚一枚バラバラになりながら落ちた。

慌てて鏑目は原稿を集め拾い上げる。

征子が描いて、自分が徹夜して手伝った原稿を無駄にしたくなかったから必死で集める。


「先輩・・・・・・」


鏑目は原稿を拾いながら征子の足下を見た。

古くさいコンバースのスニーカーから微妙な曲線で構成される征子の足を覆う網タイツ。

腰と突き出た胸の先には重たそうな目を大きく見開いて、鏑目を睨み付ける瞳があった。


「その漫画はダメです」


「何がだよ」


「だめです、違います、私の頭の中にある漫画じゃ無かったです」


「だから?」


「それはダメです、面白くないです」


完成した原稿は雪で汚れていた。

一ヶ月近く毎日ペンを入れていた作業が無駄になろうとしていた。


「原稿を捨ててどうする?」


「また描きます」


「ふっざけるなぁ!」


数枚の原稿を持って鏑目は立ち上がって征子を怒鳴りつけた。怒鳴ることになれていないので声は変に上擦った。

だが征子は怯まずに鏑目の顔を直視する。


「俺も城福もこの漫画は面白いと思った、それのどこがダメなんだよ!」


「私にはもっと面白いものがあるような気がするんです」


「その為にこの完成した作品を捨てるのか?」


「はい」


空を、真黒な空を見上げて鏑目はやっと分かった。

征子が長い間、ずっと漫画を描かなかった理由。

彼女は小難しい理屈をこねくり回しすぎて決してペンが動かないわけでもなく、幾らでも漫画を描けるのだ。

けど、描いても描いても満足しない、もっと面白いものが描けると途中まで描いていたものを捨ててしまえる人間だった。


「お前は何様のつもりだよ、この原稿を作るのに編集さんや俺がどれだけ待ったと思ってるんだよ・・・・・・」


デビューから次作をずっと待っている城福、そして征子の漫画を見たいのは鏑目も同じだった。

じゃなければ態々会社から帰ってきて手伝うなんてしない。


「納得いかないからってさあ、妥協しろよ・・・・・・みんな妥協してやってるんだからさ」


鏑目は泣きそうになりそうな自分が恥ずかしかった。

納得いかないからって、時間を掛けた原稿を捨て去ろうとする征子の考え方は自分には出来なかったからだ。

納得いかなくても時間を掛けたらそれで良しとしてしまいたい。

出来なくなったら諦めてしまいたい。

白い雪の上に捨てられた原稿は確実に自分が描いてきたどの漫画よりも面白かったのに、無残に雪に捨てられた。


「先輩はこの漫画を面白いと思ったんですか?」


征子は鏑目が手に持っている原稿に手を添える。


「お前の漫画は面白いよ」


「本当に?」


「嘘付いてどうするんだよ」


征子は驚いた顔をする。


「私は先輩の近くに居ると漫画描けるんです」


征子は座り込んで落ちている自分の描いた原稿を覗き込む。

バニーガールの耳飾りが小さく揺れる。


「先輩の漫画を大学で見たとき、私は初めて漫画ってこうやって完成するのかって思ったんですよ」


「俺の漫画?」


「漫画って結局頭の中にあるものを紙に描いていく作業じゃないですか、私は紙に漫画を描くことができてもそれが面白いのか、なんなのかよく分からなかった」


雪は少し弱くなったがまだ降っていて、征子の頭や肩を濡らしていた。


「でも、先輩の漫画描いているところを見てなんとなく何が面白いかが少し分かったような気がしたんです」


「俺が何をしたっていうんだよ?」


「白い紙を埋めていく事です」


顔を見上げて征子は笑う。


「毎日あーでもない、こーでもないって唸りながら、悩みながら一人で描いていくのが漫画なんだってあの時初めて分かったんです」


大学の部室の片隅で、サークル仲間のみんなが話し込んでいるときも、鏑目はいつも一人で漫画のネームを練っていた。

今考えれば何も人前でやらなくても良かったのだが、漫研なのに漫画描かない奴らへの当て付けもあって、漫画の構想を練るのはいつも誰かが居る部室だった。

その姿を征子はずっと見ていた。


「私は漫画を描くのに悩んだことはなかった」


征子は散らかって、雪に塗れた原稿を見ながら笑っていた。


「漫画の描き方って、机の上の白い紙をみてると自然と手の上になにかが降りてきて勝手に描き始める。そんなものだと思ってたんです」


都内では珍しい量の雪は地面を白く染めていた。


「だから、先輩みたいにあんなに悩んで描く人が居ることに本当に驚いたんです」


「俺はお前ほど才能ないからな、だからダメだった」


「私は先輩の漫画が好きなんですよ」


「俺の漫画が?」


「はい、あんまり面白くないんですけど」


鏑目は手に持っていた原稿を征子に投げつけてしまおうかと思ったが我慢した。


「でも先輩の漫画は読みやすくて、読んでいて元気になるんです。スーと身体に入ってくるような、そんな感じがしました」


まあ毒になるような個性が無いからなと鏑目は白々しく笑った。

よく征子は自分の描いた漫画を読んでいると思った。


「だから、悩みもせずに描いている私の漫画はどうなんだろうって思うと何だか怖くなりました、それが今回の漫画を描いててずっとずっと頭の中から離れないんです」


背を丸めて顔を膝に埋めて征子は蹲る。

その背中は小さくて小動物に見えた。

白い景色の中に黒い耳が立っている、鏑目は征子の背中を見てまた諦めた。

溜息をつきながら征子の周りに落ちている原稿を拾い上げる。

一枚一枚自分が手伝った部分を思いだしながら原稿を拾う。

ここの背景を描いた日は営業が伝票入力ミスって、クレームの電話が掛かって来た日だ。ここの集中線を描いた日は急に請求書寄越せと客に言われて確認するとただの営業の伝え忘れだった。

原稿を落ち葉拾いのように拾いながら、鏑目はなんだか色々な事を思い出せそうだった。

全部拾い上げて鏑目は征子の後ろに立つ。

目の前に座り込むこの変な格好をした漫画家はそんな他人の苦労も全部呑み込んで、もっと新しいものを作ろうとしている。

多分人間としては破綻してる。

でもたまらなく鏑目は征子が羨ましかった。

そこまで没頭できる、なり振り構わないでいる孤独で崇高で馬鹿らしい考え方が出来る征子が羨ましかった。


「帰るぞ」


何も聞かずに征子は立ち上がった。

鏑目の方へと振り向くと、集まった原稿の束を渡された。


「お前の原稿だろ? お前が持って行け」


鏑目は紙の束をふくよかな征子の胸元に押し付けた。


「先輩?」


「お前が描いたモノだ、興味がなくても大事にしろ」


踵を返して鏑目は歩き始める。


「先輩」


「なんだよ」


「ごめんなさい」


征子は頭を下げる。


「また描くんだろ?」


「はい」


「救いようがないな」


「他にやることもないので」


鏑目が磨いていない汚れたの革靴で雪を踏みしめると小さく動物が鳴くような音がした。

その後をゆっくりともう一つの雪を踏み込む音が聞こえる。

鏑目は征子の足音を聞きながら城福といつか話した事を思い出した。

夜中に進捗を確認する為に部屋に寄った城福が描きかけの征子の原稿を読みながら呟いた。


「漫画の種類は二種類しかないんですよね」


「少ないな」


原稿を仕上げながら鏑目は答える。

征子は自室に戻って寝ていた。


「人に求められて描く商売に適した漫画と芸術肌で自分が求めて手に任せて描く漫画の二種類です」


「じゃあ谷津の描く漫画は芸術タイプか?」


城福は首を振ったあと鼻で笑った。


「谷津先生が描く漫画は先生本人も誰も求めてない漫画です」


「どうゆう・・・・・・」


城福の断言に鏑目は絶句した。

城福は手のひらをゆっくりと机の上においた原稿に添えた。


「こうやって白い紙に線が降りてこないと誰も読めない、分からない、不思議な漫画」


「それじゃあ商売にも自己満足にもなりゃしないじゃないか?」


「だからどうでもいいと思ってしまうし、なんだろうこれはと不安にもなるんでしょうね。おもしろい」


それ以上城福は何も言わずに、原稿を見てその日は帰った。

ひとり部屋に残された鏑目は描いてみなければ面白いかどうか分からない漫画なんて残酷すぎると思った。

漫画を描くことが、作品を作り上げることがどれだけ大変かは一度作ってみれば分かる。

それは孤独で寂しくて何もない空間で足掻いているようなものだった。

だからみんなまんがの作り方を考えて理論・理屈へと作り上げて、何度でも繰り出せるものとして形を整えていく。

でも理論・理屈がなければ一人で足掻いて白い紙に線を引き続けなければいけない。

ペンで線を引かなければ漫画は描けない。


「イタい」


立ち止まった鏑目の背中に原稿を持った征子が突っ込んだ。


「先輩?」


「お前はこの白い世界で諦めないんだろ?」


鏑目は背中を押す力を感じた、征子が額を背中に押し付けている。


「先輩の漫画好きですよ、面白くないけど」


「嫌らわれてもいいから面白い漫画を描きたかったよ」


二人はそのまま顔も併せずにくっつかず離れず、古ぼけたアパートへと向かって歩き始めた。


後日、今回の雑誌の穴埋め原稿は思った以上に集まったため、征子の新作は来月に回される事が決まった。また一ヶ月余裕ができたので、征子の新作は一から書き直して完成し無事雑誌に掲載された。

発表された作品は最初に描いたものとは全く別の作品になったが、なかなかの好評で、早くもネットなどで話題になっていた。

鏑目は掲載された雑誌を自分の部屋で読みながら、バタバタとした二ヶ月感を思い出しながら、鏑目はそろそろコタツを仕舞って、ちゃんとした机でも買おうかと思ったが、やはりコタツの温もりには勝てずに背中を丸めて暖をとった。


閉じた征子の漫画が載った掲載誌を頭に敷きながら、そう言えばこのボロアパートに引っ越してから初めて紙の漫画雑誌買った事を思い出した。


「先輩居ます?」


ドアを開けた音の後にノックする音が聞こえた。

振り向かずに征子がどんな格好で入ってくるのか考えて鏑目は溜息をついた。

どうして征子はいつも漫画みたいなタイミングで部屋に入ってくるのだろうか?




END

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どうしてまんがなの? さわだ @sawada

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