第2話 パン屋の彼女と僕について

 労働が好き、なんて言う人間は相当な変態か、或いは脅されて言わされているかのどちらかである。少なくとも僕はそう思っている。大抵の人間は、労働なんかせずに生活を営むことを望んでいる。僕もまた、その例に漏れない。明日あたり、口座に国家予算が間違って振り込まれないだろうかと馬鹿馬鹿しいことを夢想している。勿論、現実にはそんなことは無いのである。生活を営むためには金銭が必要不可欠だ。金銭を合法的に得るには労働をする他ない。僕は、学生という身分のおかげで、生活のための金銭に関しては仕送りでどうにかやりくりできる。しかし、外食費や娯楽費を鑑みるとかなり心許ない。結論を言えば、僕もまた、労働することを迫られていたわけである。

 僕が労働先として選んだのは、自宅から徒歩五分程度の場所にあるパン屋であった。ベーカリー宮川、と言う名前で、見た目は古き良き町のパン屋、といった感じである。ある時、店先にアルバイト募集の張り紙を見つけ、すぐに応募した。よく行っていたから、と言うこともあったのだが、応募理由の九割を占めていたのは、自宅から近い、と言うことであった。履歴書を三枚書き損じた後、どうしても志望理由の欄が埋められず、アルバイトにそんなものを求められても、と半ば自棄になって、交際費調達のため、と一文書いて面接に向かった。面接の担当は店主本人ではなく、店主の奥さんの方であった。彼女は、僕の履歴書に目を通し、あら、正直ねえ、と言って笑った。

 そんな有様であったのだが、何故だか採用されてしまった。聞くところによると、完全に奥さんのフィーリングで選ばれたらしい。こちらとしては有難いことこの上ないが、そんなに適当に従業員を決めてしまってよいものかと、しなくてよい心配をしてしまう。

 何はともあれ、僕は今、そのベーカリー宮川でアルバイトとして勤務している。パン屋で働いてはいるが、僕は全くパンを焼かない。僕の主な仕事はレジ打ち等の接客と、焼けたパンを棚に陳列することである。雇ってもらっている手前、あまり大きな声では言えないのだが、正直、僕を雇う必要は無かったのでは、と疑いたくなるほどの仕事量である。ここの店主には娘さんが一人いて、彼女が良くお手伝いとしてレジに入っている。彼女や僕が居ない時はどうやら奥さんがレジに入っているらしく、それでしっかりお店を回せていると言うのだから、ますます僕を雇う必要性が薄い。

 ここの店主の娘さんは、髪は女の子には珍しく耳が出るほどのショートで、目元がきりっとしている。可愛らしいと言うよりも格好が良いと言った風である。見た目に違わず、性格も男勝りで少し口が悪い。初対面の時に、

「おいメガネ、こき使ってやるから覚悟しろ」

と言われたのは本当に衝撃的であった。そんな彼女の名前を僕は知らない。あの、とかすいません、と言った言葉で呼びかけているうちに名前を聞くタイミングを完全に逃してしまったのである。恐らく名前を知らないのは、彼女も共通だろうと思う。初対面で、おいメガネ、であるから。

 彼女はけっして悪い人ではない。と言うことは彼女の名誉のために弁明させてもらおうと思う。確かに口は悪いが、明るく朗らかで、何だかんだ言いながらこちらのことを気遣ってくれる。彼女と話すところによるとどうやら友達はいるらしい。それを聞いて、内心少しほっとした。それでも多くはないらしいが。

 僕が雇われたのは、彼女に話し相手をやりたいと言う親心だったのかもしれない、とふと考える。彼女は友達が少ないと言うのは彼女自身が認めるところであるし、そう考えると、アルバイトを奥さんのフィーリングで決めると言うのも何となく納得できる。子供の交友関係に首を突っ込みたがる親の悪癖の一つとでも言えるだろうか。

 そんなことを彼女の、数学の教師に目を付けられててウザったいと言う愚痴と、焼けたパンの香りに包まれながら思っていた。

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