ミッシング 2~君の、本当の名前

 いつの間にか、雨は上がっていた。

 僕たちは四人並んでそこに座っていた。ただ、ぼんやりと空を見上げていた。

 空がゆっくりと暮れていく。紫色に染まる世界の下、街灯がぽつりぽつりと灯り始める。

 それは昔、僕たちが見ていた光景とまったく同じだった。


「……ブリキが言ってた、僕にあって自分にないものって、何」


 ふと思い出して、僕は呟く。

 ブリキの髪の毛はすっかりぐしゃぐしゃだった、垂れた前髪から、たくさんの雫が滴り落ちている。


「…………『無知』だ」

「無知って……知らないってこと。僕が」

「ああ。お前は幸せを知らなかった。それが何故か、今なら分かるだろう」

「……不幸を、知らなかったから」


 僕は恵まれすぎていて、それ以外のことを知らなかった。それこそが、その頃の僕の不幸だったのだから。


「それが羨ましかった。俺は結局、今でもときどき女の格好をするよ」


 ブリキが、微かに口の端を上げて笑う。昔と変わらない表情で、寂しそうに。


「でも、今は男の格好をしてるじゃないか」


 僕はブリキの言葉が信じられず、そう言い返した。


「俺は結局、変われなかったんだ。母親は……お袋は結局、入院してる。拒食で倒れて病院に運ばれて、そのまま精神科の世話になることになった。親父は相変わらず、全然家に戻ってもこないしな。……俺が女の服を着ると、お袋は喜ぶんだ。そうして少しだけ、心の調子が良くなる。けれど……そんなお袋を見ていても、俺は泣けないんだ」

「でも、それって……」


 ただのその場しのぎだ、そう言おうとしたけれど、言葉を遮られる。


「分かってるさ、それくらい。結局は、ただの自己満足なんだよ。俺はお袋が好きで、昔みたいに元気になって欲しい。だから……俺はときどき、女の服を着てるんだ」

「ブリキ……」


 今になって初めて理解できたのは、ブリキが抱えている孤独の予想以上の深さだけだ。僕からブリキにかけられる言葉なんて、何もない。だから、ただ黙って彼の横顔を見ていた。


「大丈夫だよ、ブリキのことなら」


 それは、カカシの声だった。


「ブリキにはあたしがいるもの。こうやって四人で集まれなくなってから四年間、あたしはずっと一人でブリキのことを見てた。ただ、ずっと見てた。そして」


 カカシは、突然ブリキに抱きついた。


「おい、放せ……」


 ブリキが、身体をねじってそれに抵抗しようとする。


「ブリキもずっと、あたしのこと見てた。憎んでくれてた。自分の中の憎しみをすべて、あたしに向けてくれてた。だからブリキは大丈夫なの。あたしがいるかぎり」


 その言葉を聞いて、ブリキは動きを止めた。


「…………そう、だな」


 やがて、ブリキの唇から呟きが漏れる。温かい言葉だった。


「あたしはずっとブリキのことが好きだった。……いつからか、知ってる」


 僕たちは三人とも、首を横に振った。そもそも僕は、ブリキがいつからこのマンションに住んでいたのかすら知らなかった。ドロシーやカカシとは、幼稚園の頃から一緒なのだけれど。


「ブリキが引っ越してきたのは、あたしが五年生に上がった年だよ。桜がすごく綺麗で、その下にブリキが立ってたんだ。何で悲しそうなんだろうと思ったそのときには、もう恋してた」

「父親が帰ってこなくなった家にお袋は価値を見出さなくなって、それで俺はここに引っ越してきたんだ。けれど俺は……そのお前を知らない。覚えていない」

「当たり前だよ。あたしは自分の部屋から見てたんだから。けどそのとき、すごく必死になってブリキの気を引く方法を考えたんだ。うまくいった」

「そしてそれにつき合わされたのが、私とライオンってわけか。まったく、腹が立つわね」

「ありがとう。ドロシーの強さは嫌いだったけれど、すごく羨ましかったのは確かだよ。あたしには欠片もないものだったから」

「……私も、あなたのそのしたたかさが嫌いよ。醜くって」


 にっこり笑っていながらも、ドロシーの言葉は容赦がない。


「カカシ。君にとって、オズ・ゲームってなんだったんだ。僕たちは自分を変えたいと願っていたけれど、君はそうじゃないだろう」


 きっと、オズ・ゲームの話題を出すのはこれが最後だ。だから僕は、今までの話の中で気になっていたことを訊ねてみる。


「あら、あたしも変わりたいと思ってたし、忘れたいことがあったよ」


 カカシは目を細めて笑う。


「ブリキの気を引くためにわざと醜くなっていても、あたしだって女の子だから、綺麗になりたかったの。だから、あのときの誓いは本当。ここにいる間だけは、醜い自分を忘れられていたのも本当。ライオンのこと、嫌いじゃなかったのも本当だよ」

「カカシ……」


 じんわりと胸の中が温かい。

 世界が揺らぐその光景を、僕は今でも覚えている。

 あの頃の僕は勝手にこれですべてが終わるのだと思い込んでいた。その向こうにもう何もないのだと、未来を信じようとしなかった。

 けれど、それがどうだ。

 僕たちは生きている。

 あの日、信じていた未来を、遠くに押しやって――。


「……俺はもう少し、お前に優しくする必要があるのかもしれないな」


 大人しくカカシに抱きつかれたまま、ブリキはそう言った。


「必要ないよ。あたし、今でも充分幸せだし、満ち足りてるし」

「……俺の心の問題だ」


 ふぅ、とブリキがため息をついた。カカシにはその意味がまったく分からなかったようだけれど、僕には痛いくらい分かってしまった。

 僕も、変わらなければいけない。

 井戸の中から出たカエルの時点で満足していてはいけないのだ。


「…………ドロシー」


 僕は、隣に座る少女に声をかける。

 ドロシーは、つま先にミュールを引っ掛けて遊んでいた。真っ白だったワンピースは雨ですっかり黒く汚れてしまっている。

 けれど僕は、そんな彼女ですら綺麗だと感じるのだ。


「……ドロシー」


 彼女が何の反応も見せないので、僕はもう一度呼びかけてみる。けれど、何の答えもない。

 どうすればいいのかと僕は困ってしまって、けれど唐突にあることを思い付いた。


「………………あさひ」

「やっと、私の名前を呼んでくれたね」


 本当の名前を口にすると、ドロシーはようやく僕の方を向いてくれたのだった。

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