三章

ミッシング 1~ライオンの話

 くだらない話を聞いて欲しい。

 僕は昔、世界が自分のものだと思って、信じて疑ってなかったんだ。

 もしかしたらそれは、子どもの頃、誰もが抱く感情なのかもしれないし、僕が異常なのかもしれない。

 ただ、その頃の僕はあまりにも恵まれすぎていて、誰の気持ちも理解することができなかったんだ。

 ――だからドロシーに惹かれて、友達になった。

 ――カカシの上辺を好きになった。

 ――ブリキを受け入れた。


 そうだ、思い出した。


「幸せが何なのか、質問したのは僕だったんだ――」




 ドロシー。カカシ。ブリキ。ライオン。

 それは、オズ・ゲームをするための合言葉だった。

 家や家族に縛られている名前を捨てて、幸せを探すことを心に誓うために。

 そのために僕たちは、オズの魔法使いの登場人物たちから名前を借りて、心に刻んだ。


「僕、は…………」


 色々なことを思い出してきた。

 けれど、そのどれもがくだらないことだった。涙が出そうなほど、くだらないことだった。

 財布を落として、家まで歩いて帰った。

 機種変したばかりの携帯をトイレに落とした。

 大学受験に失敗して、浪人することになった。

 初めてできた彼女に振られた。

 ……ある日突然、ドロシーと連絡が取れなくなった。

 ひとつひとつは些細なことだったのだ。

 けれど、恐ろしいことに――。


「僕はずっと、自分が世界の中心に立っていると思い込んでいたんだ……。だから、上手くいかないことが許せなくて、悲しくて」


 僕の口は勝手に言葉を吐き出していた。頭の中はずっとぐるぐるして気持ちが悪い。

 ドロシーの体温が、背中越しに伝わってくる。さっきからずっと、彼女が背中をさすってくれていた。


「ある日突然、僕の世界は広くなった。いいや、それが、本当の世界だったんだ。僕の視界は狭すぎて、何にも気付くことができなかった」


 澱のように積もる小さな挫折の末に広がった僕の視界。

 僕は混乱した。突然、眼前に広がった世界の地平線に。その広さに。

 始めこそ、混乱したり戸惑ったりしたものだけれど、そのうち僕もそこに立っていることに慣れていった。当たり前だ。それこそが、本来僕が見るべき世界だったのだから。

 生暖かい雫が頬を濡らす。涙が、勝手に溢れ出した。


「けど……そうやって忙しく暮らしていると、オズ・ゲームのことを忘れそうになるんだ。僕は忘れたくなかった。大好きな皆との思い出を、失くしたくなかったんだ……」


 だから僕は世界から目を背けた。あの瞬間を覚えているために。昔のまま――何も知らないときのままでいたいがために、様々なものを無理矢理忘れていった。

 けれどその中には、『昔の僕』も含まれていたのだ。何という本末転倒な話だろう。馬鹿馬鹿しくて涙が出そうだ。


「馬鹿ね」


 ドロシーの手が、動きを止める。


「ライオン、まだひとつだけ大事なことを忘れてるわ」


 僕はドロシーの方に顔を向けた。

 ドロシーは僕のことを見つめている。優しい光を、その目に宿して。

 ドロシーがそんな表情を浮かべられるようになったことが、僕には驚きだった。けれど、今の僕にはその言葉を伝えられる術がない。

 そうするうちに、僕はドロシーに抱きしめられていた。


「あなたがあのとき宣誓したこと、私はずっと覚えてる」


 ふんわりと甘い香りが、僕の鼻をくすぐる。


「あなたが誓ったのは『皆の痛みを理解できる人間になること』よ……。それは今、無事に達成されてるじゃない」


 ドロシーの声が震えている。


「あ……」


 僕の声も、無様なほど震えている。

 降り出した雨は、いつの間にか僕たちの身体を冷え切らせていた。濡れた手でドロシーに触れようとして、途中で止めた。


「今日、集まったのは間違いじゃなかったね」


 雨音が、雨粒が。世界を包む雨だけが僕たちを包み込んでいる。

 ドロシーの言葉だけが、静かに響く。

 その様子に、僕は少しだけ昔の僕を感じた。

 今この瞬間だけ、僕たちは四人だけ。他には誰も存在しない世界が、ここだ。


「もう、私たちにオズ・ゲームなんて必要ないんだよ」


 僕たちは四年間、離れ離れのまま広い世界に立っていた。

 あの頃の僕たちは、この場所を失ったら生きていけないとさえ思っていたのに。

 僕たちは生きていけたのだ。まるで、それが当たり前のように。色々なものと折り合いを付けて。

 ドロシーの言葉は、僕たち全員の心を代弁してくれていた。

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