オズ・ゲーム 4~夢の残滓
オズ・ゲームの暗黙の了解であり、鉄則だったのは、学校や家庭での出来事を持ち込まないことだった。
僕は周囲の世界が無くても生きていけると思っていた。自分が、その『周囲の世界』にいかに助けられているのか、まったく考えもせずに。その目に見える世界はどうしようもなく狭くて、僕はまだ、幼い子どもでしかなかったのだ。
実際、オズ・ゲームはよく機能していた。僕は螺旋状の非常階段を昇るたび、嫌なことをすべて忘れて新しく生まれ変わったような気がしていた。そしてそれは、他の三人も同じ気持ちだったのだと、ずっとそう思っていたのに。
少なくともカカシにとっては、そうではなかったのだ。ここはあくまで、ブリキと接点を持つための手段に過ぎなかったのだろう。
「……もしかして、傷ついてる、とか」
黙り込んだ僕に声をかけたのは、僕の憂鬱の原因、カカシだった。
「確かに、あたしはオズ・ゲームを利用したわ。あなたたちと仲良くなってあたしの醜さを引き立ててもらうために、もっともっとブリキの視線を惹くために。言い訳も何もない、それが真実よ」
カカシの言葉は、清々しいものだった。嘘を止めてしまえば、誰しもこうなるものなのだろうか。それとも、そこにはほんの一パーセントだけでも真実が混ぜられているとでもいうのか。
「けど、楽しかったのは本当だよ」
「そっか……なら、いいんだ」
本当かどうかも分からない言葉に、僕は素直にうなずいてしまった。そう言われるだけで充分だったから。
徐々に太陽は傾き、日差しもゆるゆると弱まっていく。雲が、増えていく。
「ライオンは馬鹿よ」
ドロシーが吐き捨てる。
「そうやってほいほいと人を許してしまう。今、このカカシの言葉に、五年以上の裏切りに、あなたは確かな嫌悪を感じたはずなのに。寛容すぎて涙が出てくるわ。まるで人間じゃないみたい」
大げさに首を振ってみせるドロシーの気持ちも、僕は分かる……つもりだ。
けれど僕は、何故かカカシを悪く思うことはできなかった。
「お前は救いようがない馬鹿だが、そういうところは変わっていないな」
突然、強い力で背中を押されて、僕は思わず前につんのめった。
後ろを振り返ると、微かに表情を和らげたブリキが立っている。
「だから、俺はお前の近くに寄ってみたかったんだ。お姫様のことを含めても、お前の近くは面白そうだった」
「ブリキ……」
オズ・ゲームの鉄則は、と言おうとして、その言葉はすでに無効だということに僕は気付く。
昔、始まりを宣誓したように、終わりを宣誓したのはブリキだった。それこそが、このゲームの幕引きに相応しい形だ。
「……これをオズ・ゲームの最後とするには、俺も真実を語らなければいけないな」
そうしてブリキは、先ほどまで触れることを嫌っていた過去を、自ら進んで語ることを選んだのだ。
「俺の母親は娘が欲しかったんだ」
それは、予想できる答えだった。
「けれど、それ以上に息子が欲しかった」
思わぬ言葉に、僕はブリキを見つめる。
「……ずいぶんと興味があるようじゃないか、ライオン。そういうところは、昔よりもずっと人間らしいな」
ブリキが皮肉っぽく吐いた言葉の意味が飲み込めず、僕は思わず首をかしげる。
「ライオンったら、本当に忘れっぽいよね。それとも、自分のことって分からないものなのかな」
続くドロシーの言葉に、僕の頭はますます混乱するばかりだ。
と、それまで様子を見守っていたカカシが、面白そうに笑って口を開いた。
「昔のライオンは、他人の状況の『過程』を気にするような人じゃなかったよ。あたしが泣いてても、そばで待っててくれるだけだった。……そう思うと、果たし状なんてライオンらしくないけどね」
「そう言われても……」
昔の僕、なんて言われても、何も分からないのだ。まるで底なし沼に落ちた指輪を探すため、手だけをその中に差し入れているように、言葉は重く、ぬるく絡み付いてくる。それなのに肝心の指輪――僕の過去は掴むことすら出来ない。
僕の困惑を放って、ブリキは言葉を続ける。
「俺の母親は美しい人だった。……元々は。『痩せなければいけない』という強迫観念に囚われてしまったことから、すべてはおかしくなったんだ」
僕が見たとき、ブリキの母親は既に病み切ってしまっているように見えた。僕は、それ以前のブリキの母親を知らない。ブリキ自身もだ。そういえば僕は、ブリキの過去をまったく知らなかった。
「発端はよくあることだ。父親に愛人ができたんだ。母よりも醜く、けれど母より若い愛人が。それから母はおかしくなった」
美貌を磨くため、若さより秀でるために。
そう言われたところで、僕には女性の気持ちはさっぱりだった。美しくなろうとして、何故、身体を細くしようとするのだろうか。
けれど、僕にそんな言葉を言う資格はなかった。四年ぶりに再会したカカシを見て、僕の心は少なからず揺れた。ほっそりとして、健康的な身体のカカシに。
ブリキの母親はこんな気持ちを夫に抱いて欲しかったのだろうか。だとしてもやりすぎだと、僕は思う。
「痩せただけじゃない。母は俺に女の格好をさせるようになった。けれどその中身は男でなければならなかったんだ。……何故だか、分かるか」
誰も、言葉もない。
ドロシーは事の成り行きを見守るように、カカシは想い人の言葉にうっとりと聞き惚れるように、僕は――どうしていいのか、今でも分からないまま。
心が微かな期待に揺れている。
きっと、これは夢の残滓だ。今、ブリキが男の格好をしてここに来ているということは、すべてが終わった話なのだろう。女の格好をしていることも、病的なまでに痩せ細った母親のことも、既に過去の事柄なのだ。だからこそ、こうやって僕たちに話してくれるのだろう。
僕は自分が分からない。
昔、僕は確かにブリキの家庭の事情を探ろうとしたことはなかった。屋上に来るブリキがいつも女の格好をしていても、それについて何かを口にしたことはなかった。一度もなかったのだ。
脳が重い。ねじり込まれていくような感情は、これは――。
「母は娘が欲しかった。飾り立てて、自分の隣に置くために。母は息子が欲しかった。父親の愛を自分だけに向けるために。そして……」
一瞬だけ、ブリキは辛そうな顔をする。
……嫌だ。
こんなのは嫌だ。
何故、僕は言葉の続きに期待している。
僕は。
僕は……。
「母は俺を娘に仕立て上げた。娘として父親の愛情を受けるけれど、身体の中身は決して父親を受け入れる構造になっていない、男の俺を」
女としての愛を得られるように仕向け、心を惹く。
けれど身体も心も男である限り、決して同性を受け入れられることはできない。
いいやそもそも、とブリキは言う。
「女として娘を愛する父親なんて、一部の変態だけだ。俺の父親は、愛人を作っていただけで、あとは平凡なサラリーマンだったんだ。……女の格好をした俺を見て、親父は二度と家に帰ってこなくなったよ」
ブリキは微笑んでいた。
僕は、自分を苦しめる感情の正体に気付く。
「結局のところ、俺はお袋に子どもとして見られてなかったんだな」
ごめん、ブリキ。
傷口を抉るような真似をさせる気なんて、僕にはなかったのに。
僕は自分が憎い。君にそんなことを言わせた自分が。
「……どうした、ライオン。今にも泣きそうな顔をしてるぞ」
僕はうつむいたまま、ブリキの顔を見られなかった。
「昔のお前はそんな奴じゃなかった。俺はそんなお前を見ていて、自分を変えたくなったんだ」
ブリキの声が耳にこだまする。頭の中を、かき回す。
「何不自由のない暮らしをして、心を許せる友人を持ち、他人のすべてを受け入れる。それが、昔のお前だった。……なのに、今はどうだ」
昔の僕。
先ほどから何度も話題に上るそれは、間違いなく僕だ。僕のはずだ。
それなのに。
「お前は何の変哲もない人間になったな。……いや、違う。お前は」
そこで、ブリキは言葉を切った。
少しだけ視線を上げると、ドロシーが彼の口を塞いでいた。
自分の、口で。
それが視界に映った瞬間、僕は勢いよく顔を上げた。
ドロシーの唇はすぐにブリキのそれから離れたけれど、僕の心臓の鼓動は早くなる一方だ。頭の中でバイクのエンジン音のように心臓の音が響いている。
ドロシーが、僕の方を振り返った。微かに舌を出してぺろりと唇を舐めたその動作に、僕はどうしようもないほどのやるせなさを感じた。
「やめてあげて、ブリキ」
ドロシーは僕の方を向いたまま、優しくそう言ってみせる。
「本当は知ってるのよ、ライオンは」
ドロシーの言葉の意味が、何故だか僕には理解できなかった。
顔が、頭が熱くなる一方で、ああこれは頭に血が昇っているのかと冷静な判断を下す僕が心の片隅にいる。
何なんだろう、いったいこれは。
「大丈夫よ、ライオン。怖くないわ、何にも。あなただって、この四年間で変われたのでしょう。……それとも、変われたからこそ怖いのかしら」
頭を抱えてうずくまった僕の傍らに、ドロシーが優しく寄り添ってくれる。
僕は何度も深呼吸をしようとした。けれどなかなかうまくいかなかった。
「どうしたの、ライオン……」
おずおずとカカシが問う。ブリキでさえも、心配そうに僕のことを見つめていた。
ドロシーはゆっくりと首を振った。まるで、この混乱の原因を知っているかのように。
何故、僕に分からないことを彼女が知っているんだろう。
頭を抱えたまま、僕は馬鹿みたいに視線をさまよわせる。本当に馬鹿みたいだ。答えなんて、どこにも落ちちゃいない。
落ちてくるのは――雨。
「ライオンに、何があった」
ぽつり。コンクリートの地面に一粒、水滴が落ちる。
ブリキが、僕の前に立ちはだかる。
彼に遮られるような形で、空は隠れた。僕には急に暗くなったように思えたけれど、本当はその前から雲が流れてきていたのだろう。
びゅうびゅうと、僕の身体に打ち付ける風。唐突に降り出した雨。ドロシーのワンピースの裾が揺れている。
「今のライオンには、昔あったものがなくなっている。それは、俺が欲しくて欲しくてしょうがなかったものだ。……お前たちもそうだろう。ドロシー、特にお前は」
「それ以上言わなくていいよ。分かってる」
ブリキの言葉を手で遮るドロシーに、僕は少しだけ安心する。
「ねぇ、ライオン。ひとつだけ聞きたいことがあるんだ」
優しく僕の顔を覗き込むドロシーに、僕は喘ぐばかりで満足な答えを返せない。
そんな僕をいたわるように、ドロシーの手がそっと、地面についた僕の片手に重なる。
「ねぇ、ライオン。あなたは、私たちの本当の名前を覚えてるのかな――――」
息が苦しい。
呼吸が、できない――。
僕の耳を雨音が包んでいく。
どうしよう、ドロシー。
……僕は、君の質問に答えることができないんだ。
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