二章

オズ・ゲーム 1~始まりの話

 2 オズ・ゲーム


 幸せが何なのかと質問したのは誰だったのか。


 僕はやっと中学生に上がった頃だったけれど、その言葉はあまりに陳腐に聞こえた。大笑いした。しようと、した。

 けれど笑えなかった。

 誰ひとり、幸せについて答えられなかったのだ。

 そりゃあ、些細なことは説明できる。その頃の僕が考えていた幸せと来たら、休み時間にするサッカーで華麗にゴールが決まった瞬間とか、給食の献立がきなこ揚げパンだったとか、言うなれば『子どもらしい』ものでしかなかった。我ながら可愛いものじゃないか。

 けれど、求められている答えがこれじゃないことくらい、すぐに分かった。


「幸せが、知りたいんだ」


 その声はぶるぶると震えていた。

 真剣な問いに答えられるだけのものを僕は持っていない。何不自由なく、何の問題もなく育ってきたと僕は思うけれど、それでもどこか、心に満たされないものを感じていたからだ。

 自分でも分かっている。自分は四人の中で一番恵まれていた。しかし、だからといって何を求めてもいけないというのだろうか。

 僕は貪欲だ。いや、貪欲でありたいと思っている。足を止めれば人間はそこで終わってしまう。だから、いつまでも何かを求めていたい。何かを。

 やがて、その場に漂う沈黙に終止符を打ったのはブリキだった。

 ブリキは人形のような表情と服装で、ひとつの提案をした。


 ――オズの魔法使いを探そう。


「……はぁ、何それ」


 突飛な提案に、まず最初に顔をしかめたのはドロシーだ。


「全然、意味が分からないんですけど」

「オズの魔法使いという本がある。登場人物たちが自分に足りないものを得るため、エメラルドの都に住むオズの魔法使いに会いに行く話だ。ここまでは分かるか」

「知ってるわよそれくらい。で、それが何だっていうの」

「俺たちもそうすればいい」


 きっぱりと言い切ったブリキに、ドロシーは言葉を失った。僕とカカシは、ただ呆然とことの成り行きを見守っているだけだ。


「俺たちも、自分に無いもの、欲しいものを探して、場合によっては『オズの魔法使い』に貰えばいい。そうすれば、幸せが何だか分かるんじゃないのか」

「…………それはまた、随分と突飛な発言だね」


 やっとのことで僕はそう言った。胸の中では色々な言葉が渦巻いている。ブリキの言葉はあまりにも突然すぎて、しかも飛び抜けている。否定や肯定、胸は複雑な感情にかれていた。


「……ふぅん」


 ドロシーが鼻を鳴らす。


「面白そうじゃない」


 ふ、と口の端を上げるその様は、ドロシーにとてもよく似合う。


「それって、要は生きることを頑張れってことだろ。言い方を変えるだけで、何だか面白く聞こえてくるのが不思議だけど」


 僕もドロシーと同じ気持ちだった。だから、ブリキにそう訊ねてみる。


「その方が実行できそうな気がするだろう。……俺は、変わりたい」


 ブリキが小さく吐き出した一言は、僕の胸に重々しく響いた。

 その日のブリキの服装は、ラベンダー色のキャミソールにベージュのカーゴパンツだった。真っ白な細い腕とうっすら浮いた肩甲骨が、中性的な外見をいっそう引き立てる。第二次性徴を迎えていない少女なのだと言っても通用しそうなほど、ブリキは不思議な魅力を漂わせていた。

 しかし、僕たちは知っていた。ブリキはマンションの中では少女の装いをしなければいけなかったのだけれど、当のブリキ自身はそれをとても嫌っていたのだ。当たり前だ。性別・男でありながら、誰が好きこのんで女の服を着たいと思うだろう。

 けれど、ブリキはそれを着ていなければいけなかったのだ。僕たちの知らない理由があって、ブリキの母親は、マンション内でブリキが男の服を着ることを許さなかった。

 僕は一度だけ、ブリキの母親を見たことがある。思わず吐き気を催すような人物だった。

 がりがりに痩せて皮と骨だけになった身体に、フリルとレースがふんだんに使われた服を着ている。踵の高いパンプスを履いていたのだけれど、筋肉が足りなくて腰と膝が曲がり、かくりかくりと不恰好な立ち姿をしていた。

 頬骨から顎のラインが段を作っているかのようにがくりと落ちて、くぼんだ眼窩では瞳がぎらぎらと光っている。忙しなく辺りを見渡しているその視線から、僕は思わず身を隠していた。

 見られてはいけない、知られてはいけない。それは直感だった。

 ただ思ったのは、彼女がブリキの母親なのだということだった。

 僕の母親は怒ると怖いけれど優しいし、ときどきは甘えさせてくれる。料理も上手い。もし自分の母親がブリキの母親だったら、と思うと、何の想像もできなかった。

 だから、変わりたいというブリキの一言は、とても痛々しく聞こえたのだ。

 僕たち四人が揃うようになって、一ヶ月が経とうとしていた頃だった。大人にとってはこの上なく短く、子どもにとっては永遠のように長いひとときだ。

 その頃になると、カカシも何とかブリキの目を見て話ができるようになっていた。相変わらず学校の中では嫌がらせを受けていたにも関わらず、だ。


「……あたし、やりたい」


 四人の中でもひときわ大きいシルエット。カカシはふくよかな手を握って、ぽつりとそう言った。


「あたしも、変わりたい。口で言うだけなら簡単だけど、行動に移すのは難しいでしょ。だから、その決意を皆と一緒にしたい」

「決まりね」


 カカシの言葉に、ドロシーがうなずく。

 その日のドロシーの右目には青黒い痣があった。殴られた跡だった。口では言わなかったけれど、ドロシーもきっと変わりたかったのだと思う。


「じゃあ……どうする。どうやって始めようか」

 僕がそう言うと、ブリキはこともなげに眉を上げた。


「ひとつ考えた。自分に足りないものを宣誓して、オズの魔法使いに出てくる登場人物の名前を貰うというのはどうだろうか。ここにいるのは、ちょうど四人だ」

「あら、随分と準備がいいじゃない。もしかして、こんな恥ずかしいことを前々から考えてたってわけ」


 ドロシーは妙にブリキに絡む癖がある。けれど、ブリキは一ミリも心を動かしたりしない。いつもドロシーに振り回されてばかりの僕に、そんなブリキは少しだけ羨ましく映る。

 このときも、ブリキはまったく動じる様子もなかった。


「……やるつもりがないのなら、この会話はただの時間の無駄にしかならないな」

「はいはい。私が悪かったわ。やりましょう。カカシもやりたいって言ってるし、それなら私に反対する理由はないわ」


 ドロシーはあきらめたかのようにうなずく。


「さて……そういうことなら、言いだした人間から始めてもらいましょうか」


 ドロシーが促すと、ブリキは少しばかり悩む様子を見せてから、ゆっくりと口を開いた。


「俺は、涙を。そのためにブリキのきこりになろう。心を取り戻しに行ったブリキのように、俺は涙を取り戻す」


 小学生とは思えないほど、ブリキの言葉はいつも芝居がかって小難しい。けれど悔しいことに、僕にはそれがとてつもなく格好良く見えてしまうのだ。

 次に口を開いたのは、負けず嫌いのドロシーだった。


「なら、私はゆっくり眠れるベッドが欲しいな。きれいなシーツとふかふかのお布団と、可愛い枕と大きなぬいぐるみ。一度でいいから、夢も見ないでぐっすり寝たい。家に戻るために冒険の旅に出たドロシーみたいに、私は安眠を取り戻す旅に出たいものだわ」


 続くドロシーの言葉も、きっぱりはっきり芝居じみている。級友の視線を避けるようにいつも難しそうな本を読んでいるだけあって、彼女の言葉もとても小学生だとは思えない。ドロシーの方がブリキより一歳上だから、その点に関してだけ、ドロシーの負けだろう。

 そんなことを考えていたら、いつの間にかカカシが決意を秘めた表情で前を見据えていた。視線の先にはブリキが立っている。


「あたしは普通の女の子みたいな生活が欲しい。食べ物のことを気にせずに、可愛いお洋服がいっぱい着られるようになりたい。二人に比べたら馬鹿みたいなお願いだって分かってるから……のうみそのないカカシみたいになりたい、馬鹿みたいになりたいの」


 カカシの言葉は、少なからず僕を仰天させた。カカシが僕よりも先にはっきりと意見を述べたことにまず驚いて、カカシの言葉の中身に驚いたのはその次だったところが少し悲しい。

 それにしても。カカシもきちんと痩せたいと思っていたのだということが、僕にとっては意外だった。

 初めて会ったときからカカシは太った女の子で、それ以外になることはないのだと勝手に思い込んでいたのだ。

 今考えると僕も相当嫌な奴である。人のこと……もとい、ブリキのことは言えない。


「……で」


 気が付くと、ドロシーがねめつけるように僕を見つめていた。


「あなたは、どうなの」

「僕、は……」


 僕は考えた。けれど、すぐには答えが出てこない。

 何度も言っているように、僕の家庭環境はこの四人の中で口にするのがはばかられるのではないかというほどに恵まれていた。そう考える僕の心が既に傲慢なのだけれど、事実なのだから仕方が無い。今ならそう分かっているけれど、昔の僕は嫌な奴だったから、きっとそうだと分かっていなかっただろう。


 残っていたのはライオン。

 勇気を貰うためにエメラルドの都に行く、臆病者のライオン。


 僕は――。

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