シンパシィ 3~ブリキの話

 『彼』の姿を見つけて、カカシは身体を強ばらせた。


 ドロシーは意外そうに上を見ている。

 僕は驚かなかった。ドロシーにも言われたが、僕が覚えていたのだ、彼が忘れているはずがない。

 六階。あと数階分昇れば、僕たちは懐かしいあの場所に辿り着くことができる。そこに、彼はいた。

 逆光で顔が見えないのに、僕は何故か彼の表情が分かってしまう。彼は僕たちを見下ろしている。触れたら切れてしまいそうなほどに鋭い瞳で、僕たちのことを馬鹿にするかのように。


「遅い」


 息を切らしながら六階まで昇った僕たちに、彼はたった一言、それだけを言い放つ。カカシが身体を強ばらせる。ドロシーはにやりと笑った。


「あなたがここのことを覚えているとは思わなかったから、ゆっくりと思い出に浸ってたのよ」


 ドロシーの言葉に、彼は耳を貸す様子も見せなかった。まっすぐに僕を見て、それからカカシに視線を移す。その瞳から、何を思っているのかはほとんど読み取れない。

 彼は相変わらず、端正な顔立ちをしている。すっきりと通った鼻梁に薄い唇、切れ長の瞳。雪のように白い肌からはうっすらと青い血管が透けて、病的な印象を見るものに与える。

 逆立てたアッシュブラウンの髪。白いコットンシャツと、細身のジーンズ。いたってシンプルな服装なのに、彼が着るとこの上なく洒落たスタイルに見えてしまうのは何故だろうか。

 僕はカカシを庇うようにして一歩踏み出した。途端に、彼は顔を皮肉に歪ませる。


「馬鹿」


 ドロシーの声が背中に刺さる。僕は自分がとんでもない勘違いをしていることに気付いた。ここは小学校でも中学校でもないのだ。僕と彼が対立する必要はどこにもなかった。


「ブリキ……」


 カカシが囁くように彼を呼ぶ。


「こんにちは、お姫様。元気そうで何よりだ」


 ブリキは心にもない言葉を吐いて、優雅に一礼する。まるでおとぎ話から抜け出てきた王子のような所作だ。

 ブリキは、カカシをいじめていた張本人だ。けれど、僕たちのかけがえのない仲間でもある。


 その証拠に――ほら。

 僕たちは四人揃って初めてひとつなのだ。互いに抱いている思いに違いはあれど、僕もドロシーもカカシもブリキでさえも、初めて安心したように呼吸をする。その大切さを噛みしめるように何度も息をする。

 僕たちはここで出会った。ここで育った。『寂しさ』からすべては始まった。

 四人で共有しているこの感情を、何と呼べばいいのか僕は知らない。

 ただ、ここにいる限り、ブリキはカカシをいじめないし、ドロシーは強いままでいられる。カカシは笑顔を覚えていられる。

 僕は……。


「日が傾いてきた。さっさと行くぞ」


 ブリキに急かされて、僕たちは慌てて階段を駆け上がった。

 僕は思い出す。これで最後の記憶、ブリキと出会ったときの話を。

 彼もまた寂しかったのだと理解するまで、僕はこれほどに時間をかけてしまった。



* * *



 あれは、僕が小学校の高学年に上がった頃の話だ。

 何とかしてカカシを助けようとして、でもその考えのことごとくが失敗に終わった。ならば僕たちだけでもと、僕とドロシーはいつもカカシと一緒に遊んでいた。

 僕たちは三人とも、住んでいたマンションの屋上に憧れていた。いつかあそこから町を見下ろしたいと切望していて、それは意外なほどあっけなく叶った。

 ある日、学校から帰る僕たち三人の前に、ブリキが現れた。

 ぞっとするほど綺麗だと子供心に思った。けれど一瞬、僕たちはそれがブリキだと分からなかった。彼が女物の服に身を固めていたからだ。


 ――いいところを教えてやる。


 彼は呆気に取られていた僕たちにそう言った。


 その言葉を信じたかどうかはともかくとして、僕たち三人は彼に付いて行ってしまった。そうして、マンションの屋上に出る抜け道――閂の錆びた階段を教えてもらったのだ。

 そもそも、僕たち四人はこのマンションに住んでいた。けれど僕とドロシーとカカシは、ブリキまで一緒のマンションに住んでいることにまったく気付いていなかった。八階建てのマンションは確かに大きかったけれど、同じ学校にまで通っていたのだ。エレベーターホールですれ違ったのは一度や二度ではないはずだった。

 それなのに、ブリキに気付かなかったのは――彼が、マンションの中ではいつも女の服を着ていたからだ。

 何故、そんな格好をしているのか、一度として質問したことはない。それを許さないだけの凄みがブリキにはあったし、追求するだけの好奇心も僕たちにはなかったのだ。

 僕たちは全員、何かしらの思いを抱えて立っていた。一人で立てないから支え合っていた。重ければ重いほど、人に知られたくないものだった。

 ブリキもまた、そんな思いを持っている人間の一人だったから、自然と僕たちは三人から四人に変化していった。けれどそれはマンションの中だけでの話で、学校では相変わらずブリキはカカシを傷付けていたし、僕たちもそれに対抗していた。


 そうして僕たちは四人になった。


 ――ひとつの遊びが始まる。

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