シンパシィ 2~カカシの話
「ちょっと、何笑ってるのよ」
僕ははっと我に返る。
目の前では、今のドロシーが不満そうに唇を尖らせていた。
「ごめん。ちょっと昔のこと思い出してた」
「何よそれ」
「ドロシーと初めて会ったときのことだよ」
「ふぅん。ま、いいけど。それより、早く行きましょう。さっきから上で、どこかの誰かが手を振ってるわよ」
「え」
ドロシーの言葉に、僕は慌てて上を見上げる。
三階の廊下から身を乗り出して、一人の少女が勢いよく手を振っていた。
「あれは……」
「カカシ、だね」
ドロシーは嬉しそうに笑う。
僕たちは急いで階段を昇った。
四階の廊下と階段の境目で、カカシは僕たちを待っていた。
「遅かったじゃない。あたし、ずっとここで待ってたんだよ。それこそ、ライオンとドロシーが来るよりずっと前、朝からずーっと」
怒ったように眉を寄せてそう言ったカカシは、けれどすぐに笑顔になった。
「誰も来ないんじゃないかって思ってた。……二人とも、すごく久しぶり」
目を細めて笑うカカシは、記憶の中のものとまったく様変わりしていた。
短く切られた黒い髪と、よく日に焼けた肌。無駄な肉のない身体には、綺麗に筋肉が付いているのが分かる。よく鍛えられた身体は、僕の想像を遙かに超えていた。
僕の沈黙の意味を察したらしく、ドロシーがくすりと笑う。
「どうしたの」
その笑みの意味が分からず、カカシが不思議そうに眉を寄せた。
しょうがないので、僕は正直に話すことにする。
「話には聞いてたけど……想像以上に痩せてたから、驚いたんだ」
僕の告白に、カカシは一瞬面食らったような顔をして、それから可笑しそうに笑い始めた。
「確かに。昔の写真と記憶だけじゃ、あたしって分からなくても無理はないかな」
「いいや、分かるよ。笑顔は変わってない」
カカシの笑顔が好きだった。それは、ドロシーの笑顔とはまた別の感覚だった。
僕の言葉にカカシは笑うばかりだ。何となく気に喰わない。
「いやいや、ごめんごめん。まさかライオンがそう来るとは思わなくって」
ひとしきり笑った後、カカシは目じりに浮かんだ涙を擦りながらこう言った。
「でも、あたしにしてみればライオンも充分変わったと思うんだけどな」
カカシの言葉に、ドロシーも大きくうなずいた。
当の僕はといえば、二人の言葉にまったく思い当たるフシがなく、ただ首をひねるばかりだ。
「それよりも、早く行こう。もしかしたらもっと上の方にブリキがいるかもしれないし」
カカシはそう言って、僕の手を掴む。昔のカカシからは考えられない行動だ。昔のカカシは人の後ろに隠れて、人づてでしか自分の意見も言えないような少女だったのに。
僕はどちらのカカシが好きだろうか。そんなことを考えて、すぐにくだらないことだと思ってやめてしまう。
カカシはカカシだ。きっとドロシーと同じように、一見変わった風でいてあまり変わっていないのかもしれない。人間がそう簡単に変われるとは思えない。
案の定、カカシは変わっていなかった。
まだまだ上へと続く螺旋階段を、カカシは一向に昇ろうとしない。
「早く行ってよ」
何か不都合があるのかと戸惑っている僕に、カカシは先を急ぐように道を空ける。
僕はようやく納得した。
そういえばそうだった。カカシは。
「……相変わらず、だね」
ドロシーが笑う。
カカシは随分と変わった。ドロシーもだけれど、女というものは随分と変化するものだと思う。綺麗になるのだ。
カカシは黒いノースリーブに、白いパイル素材のパーカーを着ている。下は迷彩柄のショートパンツで、そこから伸びる足も小麦色だ。足元は、グレーのスニーカー。
その格好はとても今のカカシに似合っている。けれど、昔のカカシにこういう格好はできなかっただろう。それだけは断言できる。
カカシに急かされて、僕は仕方なく再び先頭に立って階段を昇り始めた。
しばらくは会話もないまま、ゆっくりと螺旋階段を昇っていく。
僕は、鉄格子の向こうに見える景色を眺めていた。それは他の二人も同じだったらしく、やがてぽつりぽつりと取り留めのない会話が始まる。
「今見ると、小さいね」
「気持ち悪いくらいいっぱいある家のこと」
「うん。あと、学校。あたしたちの行ってた」
「ああ、あそこ」
カカシの言葉にドロシーが指差したのは、立ち並ぶ同じような家々に埋もれた、灰色の建物だった。フェンスに囲まれた敷地内には、小さいながらもプールと校庭がある。グラウンドに作られた丸いトラックは、確か一周が二百メートルだった。住宅地の真ん中にあるというのに、やたらと校庭が広い学校だった。
どうでもいいことばかりを思い出す。そこは確かに僕たちが毎日通っていた場所なのだけれど、僕としては特に思い出があるわけではない。ドロシーもそれは同じことらしく、ミュールの踵を階段の縁にぶつけ、音を立てて遊んでいた。
けれどカカシにとって、学校は特別な場所だった。特別、嫌な思い出のある場所だ。
縦に走る格子の一本を握り緊めた手に力がこもるのを、僕は見逃さなかった。
「早く行こう」
気付かれないように、そっけなく言ったつもりのその言葉の本当の意味に、カカシは気付いたのか。二人の少女は同時にうなずく。
僕たちは階段を昇る。五階を過ぎた。カカシの息が切れるのは、いつもこの辺からだった。けれど今はもう、あの苦しそうな息が聞こえてくることはない。
少しだけ寂しかった。けれど、それよりもカカシがここに来たことが嬉しかった。
そのせいで、僕は少しハイになっていたのかもしれない。相変わらずの刺すような日差しは、いつの間にか気にならなくなっていた。
* * *
カカシは太っていた。
何を食べれば、そんなに――というほどに丸かった。歳の離れた兄の真似をして、小学生になったばかりの僕は覚えたての言葉を使う。
「にくかい」
肉塊という漢字を書くことも知らず、その意味も知らず。僕はそう口にして、カカシの母親に怒られた。意味も分からず怒られて、僕は怖がるよりも先に首をかしげた。よく覚えている。
一方。言われた方のカカシは、言われた言葉の意味も分からずににこにこと笑っていた。顔に付いた肉で唇が少しだけめくれたようになるのが面白くて、僕はよくカカシを笑わせた。
僕はカカシが嫌いではなかった。動きも頭の回転も鈍かったけれど、僕が出会った頃のカカシはよく笑う子どもだった。そして、優しい心を持っていた。
何度約束を破っても、カカシは僕を怒らなかった。その度に僕は自分を恥じて、けれどカカシはそんな僕を励ましてくれるのだ。心の底から、嘘ではない笑顔を浮かべて。
変化は突然に訪れた。
ある日を境に、カカシは人の後ろに隠れるようになった。人の多い場所に行かなくなった。自分の考えを人に伝えられなくなった。
僕とカカシはひとつだけ歳が離れていて、僕の方が上だった。
学校というのは小さな社会だけれど、ひとつ学年が違えば、それだけで大きな違いが生まれる。
カカシが学校でどんな目に合わされていたのか、知ったのは本当に偶然だ。
掃除中、通りかかったらカカシが同じクラスと思しき男子に囲まれて、一言で言えば『いじめられて』いた。
酷い言葉を浴びせかけられて、カカシは大きな体を小さく縮こまらせて震えていた。僕はそれを追い払った。
けれど次の日にはまた、同じことが繰り返される。それを僕が追い払い、その次の日には――悪意のループだ。
分かっていた。体が大きいわけでも足が速いわけでもなく、肉体的にはなんら優れたところのない僕が口を挟んだところで無駄なのだ。それどころか、事態は余計に重くなる。
それくらいなら教師にいじめがあるという事実をさりげなく報告した方が効果もあるかと思ったが、教師はそれを躊躇いもせずに握り潰した。悪ふざけをしすぎたという、加害者の少年たちの言葉を信じたのだ。
それだけではない。カカシを率先して傷付けていたのは、カカシと同じ学年の子どもたちに、リーダーとして認識されていた一人の少年だった。彼は、飛びぬけて美しい顔をしていた。成績もよく、運動神経も抜群で、まるで少女漫画の中から抜け出してきた優等生だったのだ。
そんな少年が、いじめに加担するわけがないというのが、教師たちがいじめを否定する理由だった。彼が中心にいる限り、カカシへのいじめは『悪ふざけ』という名前で呼ばれるしかなかった。
僕は、どれだけ力を尽くしてもどうにもならないことがあるのだと、そのときようやく知った。既にドロシーとは知り合っていた頃のことだったけれど、それからぐっとドロシーのことが理解できるようになった気がした。……気がしただけ、だが。
一方。カカシを溺愛していた両親は、このことをまったく知らなかったらしい。カカシも特に何を言うわけでもなく、結局、中学校に上がってもずっとカカシはいじめの標的だった。
大人というものは不条理だ。
教師というものは不条理だ。
学校というものは不条理だ。
僕たちはひとつずつそれを知って成長する。
けれど、僕たちもまた、不条理なのだ。
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