一章

シンパシィ 1~ドロシーの話

 僕たちはゆっくりと階段を昇った。

 真夏の午後。一番日差しが強い時間。辺りには誰もいない。

 廃棄され、もうすぐ取り壊される予定のマンションに用のある人間なんて誰もいないし、いくら周囲が住宅地だといっても、こんな日差しの中で外を歩く奇特な人間は誰もいない。


 つまりのところ僕たちは馬鹿だ。


 僕の身体はもう汗でぐっしょりと濡れていた。オレンジ色のTシャツが汗で色濃く変わっている。ブラックのダメージデニムは一番のお気に入りだったけれど、汗で張り付くだけで邪魔なことこの上ない。穴が空いていたところで涼しいわけがないのだ。

 僕たちの真上にある太陽は、殺人的な光で世界を照らしている。

 視界が一瞬真っ黒になって、頭の中は真っ白になる。足元のふらついた僕の背中を、後ろからドロシーが支えてくれた。


「大丈夫なの」


 心配する言葉とは裏腹に、笑みの含まれた声。彼女は白いワンピースを着て、ビーズのあしらわれたミュールを履いている。おかげでずっと、階段を昇る度に後ろからかつかつと金属の響く音がしていた。

 不協和音は夏の暑さを増大させる。さっきからずっと苛々してしょうがない。


「心配ない」


 だから僕はつい、そっけなくそう言ってしまう。


「そう、なら別にいいんだけど」


 けれど彼女はそんな僕の態度を気にするでもなく、すっと手を離した。身体が少し重くなった気がして、僕はそれが彼女の体温を感じられなくなった所為だと気付いた。

 足を止めて後ろを振り向く。不思議そうに僕を見上げる彼女の視線を素通りして、彼女の真っ白な手を見つめる。

 白魚のような手。そんな陳腐な表現が口を付いて出そうなほど、彼女の手は美しかった。

 思わず息もせずに見つめていると、彼女は僕がどこを見ているか気付いてしまう。さっと手を隠された。

 不満そうな僕を、彼女が睨みつけてくる。


「早く行こう」


 彼女はシンプルにそれだけを口にする。

 けれど僕はしっかりと見てしまった。後ろに隠された彼女の手首に、うっすらと浮き上がるいくつもの細い線を。

 あれは手首を切った跡だ。それも、一度ではなく何度も。

 一本だけやけに盛り上がった傷があったところを見ると、何度もそこに刃を走らせたのだろうか。そう思うと、僕は妙に安心してしまった。僕の心は醜い。

 久しぶりに、それこそ十年ぶりに再会したドロシーが、想像していた未来よりもずっと綺麗になって目の前に現れたものだから。恥ずかしながら僕はずっと、それが本当は彼女の名前を騙った別人ではないかと疑っていたのだ。

 けれど、彼女はドロシーだ。いくつもの手首の傷を隠さずに日の下にさらしていることが何よりの証拠だ。

 彼女は弱かった。けれど強いのだ。

 昔からそうだった。


 彼女は――――両親から憎まれていた。



* * *



 もしかしたらそれは愛と呼べるものなのかもしれない。

 否、愛であるはずがない。

 愛というのはもっと淡白なものだ。

 幼い僕が彼女と知り合ったとき、彼女は傷だらけだった。

 その傷を隠しもせず、むしろ見せ付けるようにして、マンションの廊下を歩いていた。

 僕は質問したことがある。何故、そんなにも傷を負っているのかと。

 彼女はこう答えた。


「パパとママがわたしを愛してくれるから」


 僕にはその意味が分からなかった。なにせ、その頃の僕ときたら、両親にも兄弟にも恵まれて、何不自由のない生活を送っていたのだ。まるでぬるま湯に浸かっているような暮らしに、暴力や恐怖という刺激はまったくなかった。兄も姉も歳が離れていて、僕を可愛がりこそすれ、自由に使うということはまったくなかったのだから。

 ドロシーにしてみれば、僕は嫌な奴だったろうと思う。

 そう思ったから、今、聞いてみた。


「ううん、何とも思ってなかったよ」


 白いシルエットのドロシーはそう答える。


「…………」


 その言葉の意味を理解して、僕は少しばかり寂しく思ってしまった。


「それは……僕のことを、認識すらしてなかったってことだよな」

「勿論。それ以外に何があるっていうの」


 口の端を少し上げて、ドロシーが笑う。彼女のこういうところが好きだ。彼女は嘘を言わない。

 彼女のそういうところは昔からまったく変わっておらず、幼い僕は更に馬鹿な質問をした。


「君んちのパパとママは、どんなことをして遊んでくれるの」


 今思えば、そんな質問をしなければ良かったのだ。

 ドロシーは僕の質問に答える。そこに嘘は微塵もない。

 ドロシーは両親から虐待されていた。当時の彼女を見れば、誰でもすぐにそれくらい分かる。いつ見ても傷だらけで、いつ見てもその部位が違っていた。

 確かそのときは目の上を腫らしていて、切れた唇からは血が滲んでいた。何か喋るたびに、眉が微かに動いていたのは、痛みを感じるからだと思う。

 朝起きて、夜眠るまで。繰り返される暴力は彼女の身体を切り開いていく。心も身体も隅々まで好き勝手に蹂躙されて、けれど彼女はそれが両親の愛だという。

 彼女を救おうとして、大人が来たこともある。けれどドロシーはいつも、彼らに見つからないように逃げてしまっていた。

 僕には想像も出来ないような日々の中、何故かそれでもドロシーはそこから逃げようとしなかった。ひとたびその手を取ってしまえば、すべての苦痛から開放されるというのにだ。

 彼女の行動のすべてが、僕には理解できなかった。

 しかし、彼女の方からしてみれば、そんな僕のことこそ理解できなかったのだろう。


 その日、僕と彼女は友達になった。

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