23代:アッシュ帝紀後編-レティオラ事件-

 レティオラ事件。

 それは、一人の女性の死と、その死から始まる大騒動の両方を指す。

 そもそもの始まりは、第3皇子だったアッシュが皇帝に即位した際に、第1皇子ジランが引退を表明したことにある。

 ジランがどこまで本気だったのかはわからないが、少なくとも表向きは、すべての公職から退き、帝星ケプリ=ケプラを離れ、旧都フンベントへ移った。

 ジランには一定の支持勢力があり、主に官僚からなっていた。彼らはアッシュの皇位継承も、ジランの引退も認めていなかった。

 彼らから見れば、アッシュは単なるお坊ちゃん育ちの学者に過ぎず、その主張する議会制度を国家運営の要としている一種の立憲君主制は、理想論であり、実務面でジランの足元にも及ばないものであった。

 この巨大な帝国を運営するのには、到底無理がある。

 彼らの目指すべきところは、君主官僚制である。

 優れた君主のもとに、直接官僚機構が内政外交を担う。

 議会制度は、聞こえこそ良いが、責任を分散し、押し付け合うだけで、何も先には進まない。無駄なだけである。

 ただ、ジランが帝国議会構想を部分的に評価してみせたように、彼らテクノクラートにとって、アッシュの考えと一部共通する部分もあった。

 それは貴族体制の否定。

 フン帝国の建国当初から数百年も続いた貴族が内閣を組織し政治・軍事を動かす体制。

 これを無くそうというのである。

 アッシュは庶民に権利を与え政治に参画させることで、貴族体制を有名無実化しようと考えたが、ジラン支持者もまた、広く庶民から人材を供給する官僚制度を権力化することで、無能で進歩のない貴族体制を消滅させようとした。これを能力主義だとする見方もある。

 ジラン支持者は、それを皇帝ジランのもとで成立させようと考えていた。

 そのため、アッシュが即位したからといって、彼らテクノクラートは、新皇帝に彼らの考えを求めようとはしなかった。理屈だけで言えば、アッシュでも君主官僚制度は実現できそうだが、そこは、ジラン個人への崇敬、忠誠心が作用した。主義を全面に出し、階級闘争の側面もあった彼らの政治運動ではあったが、一方ではジランという行動的で実務派の人物があってこそそれは成り立つとも考えていた。ここは個人崇拝でもあった。矛盾しているようにも見えるが、思想はそれを体現できる人がいて初めて実体のあるものへと変わる。単に経典や教義だけでは成り立たないのだ。

 ジラン支持者は官僚機構に属しているものが多いので、アッシュが即位した時、その政府に属していた。彼らはアッシュに対してはなんの感慨もなく、むしろ勝手に不満をためていったが、積極的に抵抗したり、サボタージュするわけでもなかった。

 しかし、いずれはアッシュをその至尊の地位から引きずり下ろし、ジランをつけるべく暗躍しつつあった。

 それに対して、露骨にアッシュの即位に抵抗を示したのが、第2皇子ムードの支持者である。

 その多くは貴族であった。

 帝国の貴族階級は、大きく3種類ある。初代皇帝アレクサンドルより前の時代からある原種貴族層、領土拡張の際にその土地の有力者を取り込むために迎え入れた移入貴族層、そして功績のあった平民への報奨として認めた新興貴族層である。新興貴族はよほどの例外を除き、最初は下級貴族にしかなれなかった。貴族になって以降に生まれた機会を利用して地位を上げたもののほうが多い。それに対して、原種貴族層と移入貴族層には上級貴族が多かった。彼らには様々な特権があり、国家の重要な役職につくことも出来たし、私領からの収入も莫大であった。納税義務も限られており、収入に比べ微々たるものであった。彼らは自分たちの特権の維持のために、社会制度改革には消極的だった。

 しかし、長い歴史を誇るフン帝国では、時代時代で繰り返されてきた内紛や、その後の改革、対外戦争、領土拡張に伴う多様な国民階層の拡大などで、社会体制も変わっていき、階級ごとの人口に対する比率も変わり、経済力を持つ平民層が現れたこともあって、貴族の権力は徐々に弱まっていった。

 新帝アッシュもまた、貴族制度そのものには、社会体制にとって何ら益もないと考えており、政治改革を推し進めようとしていた。しかし、相対的に弱くなったとは言っても、貴族層の持つ特権は大きく、制度改革は簡単ではなかった。なにより、アッシュの即位を後押ししたのは、アッシュと縁戚関係を結んだ大貴族たちである。

 それがわからぬアッシュではない。

 彼はまず手を付けられそうなところから、改革を進めていくことにした。

 貴族の相続制度の変更や、貴族向けの政府人事制度である。

 これらは貴族全体に対して影響をもたらす改革であるが、同時に、法制度的な縛りは弱く、皇帝個人の判断で左右することが可能なシステムであった。

 つまり、アッシュ支持派の貴族に対しては手を緩めることが可能だったのである。これなら支持貴族たちの反発を抑えることもできる。

 一方、ジランやムードを支持した貴族に対しては改革どおりに影響するため、当然、不満が起きる。

 特に相続制度の見直しは貴族体制にとって効果的なものだった。

 具体的には相続財産の分配率の変更、相続税の適用、血縁による役職相続の廃止、分家創設時の貴族編入の条件厳格化などである。

 ジランを支持するのは多くが平民出の官僚であるから、この改革の内容にはほとんど反対意見はなかったが、むしろ、これだけでは手ぬるい、と考える官僚も多かったと言う。特定の貴族だけを優遇するなど、やり方が中途半端に思えた。

 一方、ムード支持者は貴族階層であるから、直接的な影響が大きく、反発も比例して拡大した。

 ジラン派とムード派は水と油のように相容れなかったが、アッシュが横から現れて皇帝位をかっさらっていったことに関して言えば、共通認識であった。

 まずは、共通の敵であるアッシュを倒す。

 ここに、奇妙なことではあるが、思想上相容れることのないはずのジラン派とムード派が手を組んだのである。陰謀という名の同じ舟に乗るという形で。

 陰謀は当初、軍部のクーデターを手段として検討されていた。

 しかし、官僚や貴族層ではともかく、庶民の間では大きな支持がある皇帝に対し、クーデターの成功を疑うものがいた。帝国は大きく版図を広げたこともあり、特に軍部では庶民の割合が非常に高くなり、庶民出身の将官クラスも少なからずいた。そして彼らの多くは皇帝を支持していた。軍部はしばしば政策面において内政官僚との間で軋轢を引き起こしていたし、貴族たちのことを無能で役に立たない連中と見下していた。そんな官僚や貴族から、彼らの権力奪取のために協力せよ、などと言われても従うはずもない。

 そんな状況では軍事クーデターなどうまくいくはずがない。背中から撃たれるのがオチである。

 それにクーデターに失敗したら、それこそ極刑が待ち受けている。

 妄想上はバラ色のクーデター計画でも、現実的には躊躇せざるを得ない。

 民衆を先導することで、革命騒ぎを起こさせ、それによってアッシュを皇帝の座から引きずり下ろす、という案も出されたが、これも早々に却下された。エリート官僚と、貴族層が、手を組んでどのような「革命」を庶民に起こさせようというのか。逆に庶民から反感を買いかねない。そもそも無理な話である。

 そうこうするうちに、だんだん話は不穏な色合いを帯びるようになってきた。

 つまり、皇帝を暗殺したり、無差別テロを起こして社会不安を高めよう、というのである。

 それに対し、反対意見も出たが、陰謀を企む連中は、反対意見こそアッシュ支持であると短絡的に直結させて、意見を封じた。

 そのため、反対者の中から、状況を危惧するものが現れ、その中の一部が、政府へ密告をした。という噂が密かに彼らの間で広まった。

 彼らはより非道な計画を、予定よりも早めることにした。

 当初どのような計画だったかは、その後の混乱の中ではっきりしなくなった。

 が、傍証から見て、おそらくは皇帝暗殺をきっかけに、権限のある有力者らを殺し、次の皇帝が暫定的なクーデター政権を打ち立てて、人事権を駆使して権力を握ると言うものであったろうと思われる。

 ただ、ことを急いだために、どこまで具体的でリアルな計画だったのかはわからない。

 それに、ジランやムードがどこまで関与していたかはわからない。

 ただ、少なくとも黙認はしていたであろう、という説が有力である。

 そして、アッシュの近辺で、この陰謀の動きに密かに気づいたものがいた。

 レティオラ。皇帝の第4夫人である。

 本名を、レティオラ・アレクサンドラ・ファバドーツ・レディ・エミリオン・カラノベルデ・ド・フンダ。

 元々は、レティオラ・エミリオンといった。貴族の端っこにギリギリぶら下がっているエミリオン男爵家の娘で、早くから宮中の召使いとしてあげられていた。お后候補などではなく、まさに使用人として仕えていた。使用人でも、銀河に冠たる大皇帝家の宮中に庶民を入れるわけにはいかないので、下級貴族の出自のものを採用するのである。

 彼女はたまたま、皇子の一人だったアッシュの側に仕えることになった。アッシュが12歳、彼女が8歳の時である。

 仕えはじめた時は、共に子供だったが、年齢差はちょうど適当なところであり、やがて成長するにつれて、お互いを意識するようになった。特にアッシュの方が、彼女に恋心を抱いたのである。

 アッシュが地球に留学していた時も、彼女は身の回りの世話のために付き従った。

 その頃、2人の間の関係は深まったらしい。

 しかし、アッシュは単なる皇子の一人であるにもかかわらず、父帝(正確には父を操っている貴族共)は下級貴族の娘レティオラを妻にするなど許さず、貴族の娘を次々と妃や夫人としてあてがった。それでもアッシュは侍女のレティオラを密かに愛した。レティオラもまた穏やかで優しい皇子を愛したという。

 ところが、前皇帝の急死にともない勃発した宮中と政界を巻き込んだ皇位継承をめぐる対立の果てに、多くの人々の支持を取り付けたアッシュが至尊の地位に就く。王妃は皇后になり、夫人らも相応に地位を得た。当然、彼女らの実家である貴族らも大きな権力を手にした。単なる皇子だった時は、なんで第3皇子の元に娘を、等とこぼしていた連中がである。

 権力を握った貴族らは、アッシュを支持はしたものの、内心でその考えに賛同しているわけでもなかった。アッシュの方としても、多くの市民の支持を取り付けることに成功したとはいえ、現状の宮中と政府内における権力基盤は弱く、彼ら姻戚関係を結んだ大貴族らの支持はなくてはならなかった。

 そのため、アッシュは彼らを重要なポストに付け、その言動も見て見ぬふりをしていた。

 それをいいことに、それら貴族たちは、次第にやりたい放題するようになり、それと前皇帝が任じた(ように見せかけて地位についた)政治家や軍人らが組んで、政治を恣にするようになった。

 アッシュ帝はしばらくおとなしくしていたが、レティオラを夫人にすることだけは譲歩しなかった。即位後すぐに、彼女を側室に入れたいと表明し、貴族らもそれくらいはよかろう、ということになった。アッシュにしてみれば、父帝がいなくなったことで、この件に関しては、ようやく念願が叶ったわけである。彼女の父親のエミリオン男爵も子爵となった。

 彼女は18番目の夫人となったが、皇帝の意向で、第4夫人にまで格上げされた。

 貴族らはそれで皇帝がおとなしくなるのなら構わなかったが、皇后や夫人らは面白くない。特に格で抜かれた側室らの気持ちは収まらなかった。

 皇后や夫人はレティオラも含めて18人いるわけだが、レティオラが最後である。残りの実に17人までが、父帝(を操る皇族・貴族たち)が決めたものであり、貴族らの娘であった。その大半は、側室などと言ってもお手が付いたのは初夜の1回きり、というのがほとんどだった。好きでもない女をとっかえひっかえするほど、アッシュは好色ではなかったし、愛するレティオラが悲しむだろうと思ったからである。何より数が多すぎた。惚れる余裕もないほどに。

 彼女らの大半は、そういった事情もあって皇后に与しており、侍女上がりのレティオラは常に孤立していた。

 そのため、皇后や夫人らから、様々な嫌がらせを受けた。レティオラに仕える侍女達も同様の仕打ちを受けたが、彼女らは、主人のけなげな様子にいつも心を痛めており、味方で在り続けた。

 嫌がらせを受けても耐えるレティオラは、それを皇帝に訴えることもせず、また寵愛を恃んで政治に口出しすることもなかったので、宮中権力に無関係の政治家や軍人らの受けはよかった。だが、それゆえに、陰湿ないじめにもあったわけである。

 彼女への寵愛を嫉妬した皇后や夫人らの実家の当主達は、娘の不満や訴えに当初困惑していた。レティオラは皇帝の寵愛を受けているのだから、下手に手出ししたり、皇帝に讒訴すれば、逆効果になる場合もあったからである。

 それでも、もとよりおとなしい皇帝である。

 徐々に皇后や夫人らの外戚貴族らも態度が大きくなっていった。

 そんな中、彼女はある噂を耳にする。

 正確には、他の夫人らがしていた噂を、そこに使える侍女たちが耳にし、侍女たちの間で広まり、レティオラの耳に達したのだ。

 それは、

「皇帝を暗殺するか、人事不省に陥らせて権力を奪取する」

 噂をしていた夫人らは、その家族から聞いたらしく、事件に巻き込まれぬよう身辺に注意しろ、というものだったようだ。

 夫人らは怖い怖いと噂をし合ったものの、どこまで本気で信じたのか。

 しかしレティオラは信じた。

 彼女は、自分の役割を認識していた。

 愛するアッシュ陛下をお守りすること。

 そのための、どんな些細な情報にも注意を払うこと。

 彼女は独自に調査を進めた。信頼の置ける侍女や、家宰を使って噂の根源を辿らせていったのである。

 ジラン派とムード派による陰謀は、思った以上に大掛かりで、深刻なものだということが、レティオラにもわかった。しかも、時間があまりないようである。これを皇帝にどう伝えればよいかで迷った。

 表立って自分が動けば、陰謀を企むものらが警戒して一旦は手を引くかもしれない。

 しかしそれでは、当面の陰謀は止められても、その後の動きを把握することが難しくなるだろう。

 と言って誰かを介して皇帝に伝えようにも、信じられる人間がいない。

 そこで彼女はある方法を思いついた。

 数日後、皇帝のもとにレティオラから、パーティを主催したい、と言う申し出が皇后を経由して届いた。皇帝だけでなく、皇后や他の婦人たちを招待して。内容は、帝国劇場に人気の俳優らを呼んでその劇を鑑賞した後、同施設内にある会場で社交パーティをするというものだった。

 普段おとなしく、皇后や他の婦人に遠慮している彼女から考えると、これは明らかに奇妙であった。が、交流を深めたいということとも取れる。

 皇帝もさることながら、他の招待された皇后や婦人たちも戸惑った。

 ひとつは、あのレティオラがこんなでしゃばった真似をしてくることに不審と不快さを感じたこと。

 もうひとつは、依然として囁かれている陰謀のことだった。

 夫人らは皇后にお伺いを立てた。

 すると皇后はこの様な席に参加する気がないことを明言した。

 ただ皇帝陛下はその気になるかもしれないので、取りやめるよう説得することも考えている。皇帝が出席しなければパーティは無しになるだろう。

 とそれを聞いた第3夫人が、どうせなら、皇帝も我々も参加するようにレティオラには返事を出しておいて、実際には出席しないというのはどうか、そしたらレティオラめは大恥をかくに違いない、と。

 夫人らは次々と賛意を表明した。皇后はそのあざとさに嫌な顔をしたが、反対はしなかった。

 そして皇后は内宮で皇帝に会うと、レティオラ主催のパーティの件について、出席を取りやめるよう訴えた。

 皇帝は、皇后や夫人らとレティオラの間が良くないことは知っていたので、そういうことも想定しており、驚きはしなかった。

 ただこの時、皇帝は疑問に思った。

 あの聡明なレティオラなら、皇后や夫人らが嫌がらせしてくることも想像できるはず。

 なのになぜ、今回はこういう事を言いだしたのか。

 皇帝はそのことを疑問に持ちつつ、皇后に尋ねた。

「参加を取りやめよ、と言うが、それには理由が必要だ。どういう理由がある?」

 レティオラがきらいだから、とは言うまい。どう答えるかと思っていると、

「昨今、不穏な噂も広まっております。陛下の御身になにかありましたら、と思いまして」

 不穏な噂は皇帝も耳にしていた。だが、不穏な計画が噂で広まるようなら、陰謀とやらもずさんすぎる。単なる噂に過ぎないのではないか、と思っていた。

 だが、皇后の次の言葉にハッとした。

「こんなときにこの様な会を催すとは、レティオラ殿も何をお考えなのか」

 たしかに、そうだ。

 いや、皇后の言うとおりのことではなく、違う意味で、皇帝は疑問に思った。

 あのレティオラが噂を知らないはずはない。なのになぜ。

 ただの噂に過ぎないと思っているのか。

 いや、ちがう。

 レティオラはどんな些細な噂、話であっても、ないがしろにはしない。

 それはこれまで長く付き合ってきた自分にはよく分かる。

 しかも、今回、唐突にパーティの話を持ってきた。

 パーティがしたかったのではなく、その普段とは異なる言動で、注意を喚起したかったのではないか。この違和感を感じられるのは自分だけだ。つまり、レティオラは自分にだけ、なにか伝えたいことがあるのではないか。

 側室の一人なのだから、自分に直接会って言えばいい、とは思わなかった。

 側室というのは、後宮のメンバーの一人ということだ。

 後宮を取り仕切るのは皇后の役目である。

 例えば、夜の関係を持つにしても、皇后を通して皇帝にお願いしなければならないのだ。皇后はそれを握りつぶすことは出来なくはないが、それは後宮管理者たる皇后の権威を貶めることにもなる。逆に言えば、側室の行動はすべて皇后が把握してなければならない。

 皮肉にも、侍女だったときには直ぐ側にいることが出来たのに、側室になると、会いたくても会えなくなってしまったのである。

 なにより、レティオラは、その伝えたいことを、皇后を通してするわけにはいかない、と思ったのではないか?

 皇帝は、目の前でレティオラの悪口を続けている皇后を見て不審を抱いた。

 まさか、不穏な陰謀の噂に、皇后も関わっているというのか?

 彼は皇后を好いたことは一度もないが、皇后が少なからず自分に好意を持っていることには気づいていた。

 レティオラを害することはあっても、自分を害するような陰謀を企てているとは思えない。

 だが、本人は気づいていないで協力させられている可能性はある。たとえば実家の貴族たちなどが。

 仮に陰謀が事実だとすれば、黒幕は主に二人いる。

 アッシュの異母兄、ジランとムードだ。

 だが、彼らが噂として流れるほどずさんな陰謀を企てるだろうか。

 とすると、この不穏な噂の裏には別のなにかがあるということか。レティオラはそれに気づいたということなのか。

 アッシュは、内心の疑問を隠し、皇后には伝えに来てくれたことへの謝意を述べ、出席の是非は検討しておくとだけ伝えた。

 その2日後、アッシュは、陰謀の一端を掴むことが出来た。

 それは皮肉にも、次兄ムードがアッシュ帝のもとにやってきて、奇妙なことをいい出したことである。

 彼は応接室に通されると、時候の挨拶もそこそこに、

「昨今、奇妙な噂が流れているのを知っているだろう。だが、あらかじめ言っておく。自分は何も関係ない。何も知らない」

「兄上、突然何を言うのですか。噂があるのは耳にしておりますが、もとより、わたしは兄上を疑ったりはしておりませんよ」

「そ、そうだな。当然だ。我々は兄弟なのだからな。いま言ったことは忘れてくれ」

 慌てて打ち消すようなことを言った兄に、アッシュ帝は疑惑を強めた。

 これは実際になにかあるのだ。単なる噂だけではない、計画された陰謀が。しかも実行日は近い。

 不審に気づいた皇帝は、密かに調査を開始した。そして時を置かずにレティオラを宮中に呼び出して、同時に皇后や夫人らも集めた上で、次のように述べた。

「レティオラ、そなたの申し出たパーティの件は、ぜひ出席しよう。皇后らも楽しみにしていると言っている。ただ、当日は別の予定が入っているので、少し遅れる。20:00には行く予定なので、先に行って待っててくれ」

 その場にいた皇后らは驚いたが、皇帝がそういうのであれば是非もなかった。

「そなたの心遣いには感謝している」

 アッシュはそれだけ言ってレティオラの目をじっと見た。そして小さくうなずいた。レティオラの表情の変化に気づいたのはアッシュだけだろう。思いは伝わったらしい。 

 パーティの当日。

 レティオラや皇后、夫人たちは予定より早めに、厳重な護衛を付けさせた上で、会場の帝国劇場へと入った。すでに演劇の準備は進んでおり、役者らも到着してリハーサルを繰り返していた。

 日が暮れ、20時近くになった頃。

 皇帝一行の車両十数台が帝国劇場へ続く通りを走ってきた。

 そして劇場手前の最後の直線道路に入ったところで、道端の植え込みに仕掛けられていた威力の大きな爆弾が炸裂し、複数の車両が巻き込まれた。ひっくり返り、炎上する車両に近衛兵や警護官らが右往左往しながら駆け寄る。

 その直後、宮中と首相官邸、内相官邸、通信センター、帝国中央放送局など複数の施設に、数百人の武装した兵士が現れ突入を図ろうとした。

 宮中突入部隊を指揮していたのは子爵の位を持つ若い貴族の帝国軍中佐だった。名をディグベンという。他にゴーヴァ伯爵の次男ロゲリンが首相官邸襲撃部隊を、元近衛士官のギングズリー男爵が帝国中央放送局襲撃部隊を指揮していた。

 だが、彼らは施設内に入ろうとしたところで、内部から一斉に銃撃を受けた。

 驚く彼らの前に、近衛兵や帝国軍宇宙海兵隊の部隊が現れた。それだけではない、後方からも別の部隊が彼らを包囲した。

 為す術もなく、またたくまに制圧された。

 逮捕されたディグベン中佐らは、そのまま宮中内に連行され、そこで驚く光景を見た。

 皇帝がいたのである。

「まさか、たしかに爆弾は車列の通りがかった時に炸裂したはず」

「あれは無人の車列だったのだよ」

 皇帝の横に、そう言って現れたのは、内務大臣ウェイン・ド・ブイーター公爵だった。警察組織を束ねる所管大臣である。

「情報は手に入っていた。しかし単にテロ事件を阻止しただけでは、陰謀を企む連中の動きはつかめないと思ったのだ。そこで無人の車列を通らせてテロを実行に移させたのだ」

 皇帝は沈黙したままだった。

 ディグベン中佐らは顔を青くした。そして力を失いがっくりとうなだれた。すべてを失ったことを知ったのだ。

 ムードを支持していた貴族子弟らの私兵か。

 皇帝は引き立てられていく若い貴族たちを見て思った。

 やはり次兄ムードがほのめかしていたとおり、ということになる。

 だが……。

 彼が本当に恐れているのは、長兄ジランの勢力の方である。

 今回の事件には無関係なのか?

 そして、ティシューラはこのテロ事件を伝えたかったのか?

「内務大臣」

「はい」

「背景を徹底的に調べてほしい。この陰謀にはさらなる裏がないかどうか」

「裏……ですか」

 ド・ブイーター内相は、首を傾げると、

「それはつまり、ムード様の支持者による陰謀だけではない、と」

「みなまで言うな、捜査の方は任せる」

「……かしこまりました」

 ただちに内相は調査を開始した。

 今回の暗殺未遂事件とは別の、未確認の陰謀の存在についてだ。

 陰謀はあるはずである。ジラン派はムード派に劣らずアッシュの即位に反対していたことは明らかだ。そしてムード派の陰謀のずさんさが逆にわざとらしくも見える。実際、今回の事件に関与したものを調べていくと、何者かによる示唆があったことが明らかだった。ただ、そこに至るところで情報が途絶えてしまう。黒幕はいる。だが、黒幕に至るルートがない。

 それは黒幕の組織が政府部内に深く浸透していることを物語っている。

 目立つ反政府テロ組織などは、しょせん、国家の敵ではない。感情的になって騒いでいるだけの集団だからだ。本気を出せばいつでも潰せるが、あえて泳がしている、ということはよくある話だ。恐れる必要のない程度の「敵」は、むしろ存在していたほうが何かと都合が良い。国民の意識をそちらへ向けられるし、いざとなれば、その敵を潰すことでアピールできるからだ。

 だが、政府内部に浸透している組織はわからない。警察や情報機関の中にまで黒幕の組織がいれば、当然、その捜査情報は漏れ、あるいは邪魔をするだろう。フン帝国に限ったことではないが、長い人類の歴史の中で、皇帝や王、独裁者などが凶弾に倒れた時、その多くは身近にいる誰かによって引き起こされている。暗殺者は直ぐ側にいるのだ。

 少しして、ド・ブイーター内相からの報告を見たアッシュは、ため息をついた。

 さすがにムード派のお坊ちゃん連中のずさんな陰謀に比べると、ジラン派の官僚連中は、尻尾を出そうとはしない。

「実際、どれほどの陰謀がたくまれているか、調査ではわかりません。本当にそういう組織があるのかすらも」

 内相は困惑した表情で説明した。

「ジラン兄上の支持者が、余を排除したがっているのは承知している」

 あえて、兄が、とは言わない。

「それに帝国皇帝を排除して、入れ替えるというのは簡単な話ではない。昔ならいざしらず、国家と権威が今の規模に至れば、わたしを殺せば成功するという話ではない。露骨すぎて誰も付いてこない」

「おっしゃるとおりでございます。すでにムード派による暗殺未遂事件とクーデター未遂事件は起きてますが、規模は小さいものでした」

「あのように爆弾テロを企て、その隙に数百人規模の反乱部隊で占拠するなど、計画自体が児戯に等しい。すぐに国軍に制圧されてしまうのは明らかだ。陰謀の賛同者も少なかっただろう」

「ずさんな計画でしたな」

「かといって、わたしを脅して退位させ、別の何者かがあとを取って即位しても、世の中が納得する時代でもない。国民はかつてのように唯々諾々と皇帝に従っていた時代とは違う。知恵を持ち自ら考えるようになった。ムード派と違い、ジラン派はそのくらいのことはわかっているはず」

「なるほど、ジラン派は官僚が中心。当然平民出身者も多いですからな」

 アッシュは国民に支持されているから、そのアッシュが突如退位を表明したら、国民の多くは不審に思うだろう。その次の権力者は厳しい視線にさらされる。

「そう考えると、もう一つの陰謀は、より周到なものだろう。クーデターとは思わせない方法を取るのは間違いない。国家をじわじわと乗っ取り、ある段階まで来たところでわたしの権力を削ぎ、いつのまにか国家を入れ替えてしまう。そういうことではないか」

「そうなりますと、大掛かりで、時間のかかるものになりますな。その陰謀の担い手は、実際に政府を動かしている官僚組織の誰かということになるかと思われますが」

「それも、一見すると、わたしの帝位継承に反対しなかった者たちだろう」

「しかし、それでは通常の捜査の範囲を超えますな。直接的に違法行為をしているわけでもありませんし、権限に及ぶことになりますので」

 アッシュはうなずいた。だから厄介なのだが、そこまで長期に陰謀を進めていくだけの力量と権威が兄上にあるだろうか。

「司法を超える問題は、政治的に対応せざるを得ない。できるだけ穏便に済ませたいが、それはわたしの方で考えている」

「……」

 ド・ブイーター内相は何かを言おうとしたが、言葉を飲み込み、皇帝の表情を伺った。

 もし、兄上が急ぎ事を進めようと考えているとしたら、別の考えも出てくる。

「もう一つの可能性があるとしたら、それはわたしをコントロール下に置くことだろう」

「と申されますと?」

「たとえば、父上のようにだ」

「仮想現実装置……ですか」

 アッシュは苦い顔をした。

「そう。何かしらの方法でわたしに気づかせずにあの装置を取り付け、わたしには都合の良い情報だけを見せておき、世間に対してはまるでわたしが指示したように取り繕って自分たちのやりたいように政治を動かしていく」

 一旦、あの装置を取り付けられたら、本人にはそれが現実なのか、仮想現実なのか、区別がつかなくなる。

 いや実際、今だって、これが現実なのか、と問われれば、絶対の自信はないのだ。

 相対的に見て、周りの動き、人々の反応などから、現実であろうと推測はたてられるが。

 考えれば考えるほど、恐ろしい装置である。

「あれは封印されていると聞いておりますが」

「そんなこと、形式的な話だからな」

「左様ではありますが……」

「内相には、引き続き、陰謀の有無の調査を続けてほしい。背後関係を想像するのは簡単だが、我々の予想していない動きもあるかもしれない。できるだけ広い視野で、可能性を排除せずに」

「……かしこまりました」

 ド・ブイーター内相は一礼した。

 そして間もなく、第二の事件は起こった。



 その日はもともと、皇帝はレティオラの家を訪れる予定だった。

 彼女の父親、エミリオン子爵の誕生日だったからだ。

 エミリオン一族を呼んで内輪でのパーティをしようという話になったのである。さすがに皇后もこの話を潰すことは出来なかった。エミリオン子爵の誕生日を皇帝は知っているからである。

 だが、直前になって、皇帝が来られそうにない、という話になった。臨時の来客などもあったため、職務を終わらせることが難しくなったのだ。皇帝の職務は他に代役が効かないためであるが、それでも予定を知る側近らは、残りの分は明日以降に回して、レティオラ様のもとへお越しください、と気遣った。しかしアッシュ帝は、皇帝とはいっても、その義務をないがしろにはできない、とレティオラ邸に使者を送って、エミリオン子爵へのメッセージと共に、出席を取りやめる旨伝えたのだ。

 レティオラの家族らは残念がったが、レティオラ本人は、なにか嫌な予感にとらわれていたらしく、むしろ皇帝陛下がお越しになれなかったのは、僥倖かもしれない、と側仕えのものに語ったと言う。

 誕生会を延期することも考えたが、内輪でもあることだし、とそのまま食事に入った。

 だが間もなく、

 エミリオン一家の様子に異変が生じた。

 次々と苦しみだして、倒れたのだ。

 レティオラも、急に胸の痛みと嘔吐、そして呼吸困難に気づいた。

 毒をもられた、そう彼女は気づいた。

 嫌な予感はあたっていたのだ。

 レティオラが最期にどのような言葉を発したのかはわからないが、おそらくは愛する皇帝への言葉だったであろう。そして娘の安否を気遣ったに違いない。

 アッシュが最も寵愛した第4夫人レティオラ・エミリオンはこの世を去った。

 

 事態を皇帝に告げたのは、ウェイン・ド・ブイーター内務大臣である。

 事件のおよそ2時間半ほどあとであった。

 彼は急ぎ宮中へ上がると、皇帝にその旨を告げた。

 レティオラ様がお亡くなりになった、と。

「今、なんと言った?」

 アッシュ帝は問い直した。

「陛下、お気をお鎮めて、お聞きください。レティオラ様が、先程亡くなられました」

 アッシュ帝はその時手に持っていた端末を落とした。

「どういう意味だ。なにがあった!」

「毒をもられたとのことです。御邸にてお食事中に」

「毒だと?!」

「はい、ご家族様も巻き添えに」

「なんだと、それで?」

「ティシューラ様はご無事でしたが、その他のご家族様は皆……残念でございます」

「信じられぬ……一体なにが」

「すでに捜査を始めております。得られました情報では、本日陛下がお越しの予定だったことから、恐れ多くも陛下のお命を狙ったものと推察されます」

「……一体誰がそのようなことを」

 まさかジランが企てたとでもいうのか。それにしては露骨すぎる。

「実行犯は宮中侍医のプラウドと、レティオラ様付きの料理人ハベタとのことでございます。背景はまだ調査中ですが」

「……もうそこまで調べがついたというのか」

「はい。先般のテロ事件の捜査にともない、不穏な情報が入りましたゆえ、情報の精査を進めておりましたところ、このようなことに。一足違いで実行に移されてしまいました。このような事態になり痛恨の極みにございます」

「遺体は、どこにある……」

「解毒をいたしました後、宮中の安置室の方へ。案内仕ります」

 アッシュは、安置室で最愛の女性の変わり果てた遺体と対面した。

「ああ、なんということだ。レティオラ……」

 顔に手を当てて、涙を流す。

 少しして、一旦退出していたド・ブイーターが再び戻ってきた。

「陛下、御心中お察しいたします。ただいま情報が入りました。犯行を行ったハベタと、毒を用意したと見られるプラウドですが、どちらも死亡したとのこと」

「死亡? なにがあった?」

「ハベタは自宅で自殺しているところを発見されました。プラウドの方は抵抗したためやむなく射殺したとのことです」

「……」

「背後関係につきましても情報が入ってきました。プラウドが旧メリスボーン系の反帝国派諸国の買収工作で、皇帝が寵愛の厚い彼女の居館を訪ねると勘違いして、その食事に毒を入れることを画策した模様です。いくつかの組織の関与が見られますが、背後関係が外部というのは予想外でした。……毒を用意したのもプラウドのようで、それを同様に買収されていたハベタ料理人が食事に入れたということでしょう。その食事を取られたレティオラ様とそのご家族、侍女らが巻き込まれてしまった、ということのようです。ティシューラ様につきましては、まだ幼きゆえ、乳児用の食事が別に用意されていた為無事だったようです。ねんのため、現在、検査をお受けになられております」

「……」

 この時、アッシュ帝は早くも、この事件の陰謀について疑問を感じていたと言われる。

 それは、あまりにも早く捜査が進んでいることだった。

 レティオラの死を、情報部門のトップとはいえ、なぜド・ブイーターが自分より先に知っていたのか。しかもその犯人を突き止め、犯人はすでに死んだと言うではないか。あからさまに怪しい話であった。

 しかも、この日はアッシュ自身がレティオラ邸に行く予定だったのを、ド・ブイーターらの要請で、仕事が長引いてしまったのだ。

「陛下、一旦、内宮にお戻りになり少しお休みください。レティオラ様のご遺体の検査もございます。また明朝にでも、ご対面いただけるよう取り計らいますゆえ」

 ド・ブイーターは側近に「陛下をお連れせよ」と言い、自身は捜査のためと称して退出した。

 アッシュが内宮に戻ると、皇后と夫人らが入ってきた。

 皇后が、

「先ほど話を聞きました。レティオラが毒殺されたと。おお、なんということでしょうか。陛下、ああ、陛下、さぞかしお辛きことでしょう。そしてかわいそうなレティオラ」

 他の夫人たちも、声を上げて泣き出した。

「一番おつらいのは陛下じゃ。泣いておらずお慰めせよ。それにしても、毒殺とは。なんと非道なことか。……捜査は進んでおるのか」

 皇后は側近のものに声をかける。側近が「内務大臣閣下が陣頭指揮を取られております」と答えると、「そうか、公爵に任せれば間違いなかろう。情報が入り次第、詳細を陛下とわたしにも伝えるのじゃ」

 少しして、アッシュは、口を開いた。

「皇后よ、それにそなたらも、余への気遣いありがたく思う。だが、少し一人にさせてほしい」

「大丈夫ですか、陛下。せめて私がおそばに」

「すまぬ。今は一人でいたいのだ」

「……かしこまりました。でも陛下、私どもは、いつでも陛下のお気持ちにそうつもりおります。お声をおかけくださいまし」

 アッシュはうなずいた。

 妻妾らが出ていくと、アッシュは一人になった。

 その表情には怒りがこもっていた。

 しばらくして側近の一人を呼ぶ。

「皇后らはどうした?」

「一旦皇后宮のほうへ退出されました」

「内務大臣は?」

「外宮の方で捜査の指揮を取られているとのことでございます」

「そうか……」

 アッシュ帝は少し沈黙した後、

「近衛軍第一連隊のトレック中尉を呼んでくれ。誰にも気づかれてはならぬ」

「ははっ」

 側近はそっと出ていった。

 やはり、先の陰謀の影に隠れて、もう一つの陰謀が進行していたのだ。

 だが、この陰謀は、当初予想していたのとだいぶ違うようだ。

 側近が戻ってきて、ついで近衛軍のトレック中尉が入ってきた。

「陛下、心中お察しいたします」

 アッシュはうなずいた。

「レティオラにまで手をかけるとは。この裏側は相当に大きいようだ。内務大臣指揮下で警察が動いている。それと気づかれぬよう調査するのだ。仔細は任せる」

「は……」

 事態はここに来て関係者の誰も予想していない方向へと急展開を始める。

 


 この陰謀は複雑な様相をもっていた。

 陰謀が仕組まれることになった直接的な原因は、レティオラが皇帝との間に娘ティシューラを生んだことにあるだろう。アッシュは非常に喜び、彼女と娘のために、宮中に別邸を用意した。

 その寵愛ぶりに嫉妬した皇后アルタナ・ファラノレと第3夫人クデレネ・リンラが、レティオラの排除を考えるようになった。

 これが陰謀の背景の一つである。

 つぎに彼女らの意を受け、レティオラの権力が高まることを恐れた保守派の内務大臣ウェイン・ド・ブイーター、帝国軍総司令官シッターノ・レス・ゲースイ元帥らが、彼女の権力排除を考えた。

 これが陰謀の背景の二つ目である。

 ド・ブイーターは、単にレティオラの権力だけを恐れたのではない。この陰謀を実行に移すに至った最終的な動機は、皇帝が先の爆弾テロとクーデター未遂事件で、ムード派以外の陰謀の可能性をほのめかしたこともある。つまり、時間をかけて皇帝を支配下に置こうと計画していたド・ブイーター公爵らは、皇帝が自分たちへ疑惑を強めることを恐れたのだ。

 そこで、本来進めていた権力掌握の陰謀ではなく、もう一つの陰謀、すなわち、皇帝をコントロール下に置くための計画を前倒しした。

 皇帝に何かしらの心理的ダメージを与えておき、それに乗じて皇帝の意志を削ぎ、政治から手を引かせる。場合によっては皇帝にバーチャルシステムを取り付けて支配下に置く。

 その手段の一つが、レティオラの排除であり、皇后らの意にも沿うものであった。

 こうして暗殺事件は実行に移された。

 先の爆弾テロに比べれば地味な作戦だが、皇帝の寵姫を殺す、というのは、ある意味テロ事件よりも影響が大きいかもしれない。

 手段は毒殺であった。

 レティオラだけでは怪しまれると思い、彼女付きの侍女らもついでに毒殺し、たまたまその日訪れていた父親のエミリオン子爵、母親の子爵夫人、彼女の姉、弟も一緒に毒殺し、子爵家は全滅してしまった。唯一、娘のティシューラだけが生き残った。毒殺の原因は、食事に毒が盛られていたからとし、「皇帝を毒殺しようとして彼女らが巻き込まれた」事に仕立てようとしたのだ。

 ただ侍女が幼児向けの食事を別に作っていたことで、娘ティシューラだけが口にせず助かった。もっともレティオラが生んだとはいえ、ティシューラは皇帝の子供であるから、最初から暗殺の対象ではなかった可能性も高い。

 皇后やド・ブイーターら謀主は、料理人のハベタと専属医師プラウドに罪を着せて、監禁していた彼らを密かに殺害。彼らの住む家を襲撃して、その場で家族も含めて殺害し、遺体をその中に加えた。これを暗殺事件後のわずか2時間で行い、そのあとでド・ブイーターが宮中に参内して、暗殺事件の発生と、その後始末をまとめて報告したのである。

 アッシュは、そのあまりの手際良さにまず疑いを持った。

 さらに、レティオラの侍女らから皇后らによる嫌がらせを常々耳にしており、実際、彼自身も皇后や他の夫人らから、何かにつけてレティオラの悪口を聞かされていたから、どういう背景を持つ事件か、もっとはっきり言えば、誰の手による暗殺なのか、すぐに察しが付いたのである。

 皇帝はもともと皇后らのそう言った讒言にうんざりしつつも、聞き流していた。女の嫉妬とはそういうものだと思っていたのである。

 だが、事態がレティオラ暗殺となると話は変わる。

 皇后らの嫉妬だけでなく、これは貴族らの専横を背景に持つ重大事件であった。それどころか、そのさらに背後に、誰かしらの存在を感じずにはいられなかった。

 先のテロ事件の前、レティオラは皇后を介さずに危険を訴えようとしていたようだ。つまり得体のしれない黒幕の存在に彼女は気づいていて、その黒幕と皇后とのつながりを疑っていたということになる。あるいは今日のささやかな会食の席で、そのことを皇帝に訴えようとしていたのかもしれない。

 皇后やド・ブイーターという皇帝の身近にいるものを操る存在。

 黒幕はムードではない。ムードはその単純さを利用されただけだ。

 おそらくはジランとその一派、支持者、そして権力掌握の目的で一致した貴族層だ。貴族に冷淡なジランは先にアッシュ排除のため、貴族らをそそのかしたのだろう。

 しかし明確な証拠がない。いくら皇帝でも、総じれば強大な力を持つ貴族層には、安易な手出しは出来ない。ジランも尻尾は出すまい。

 そこでアッシュは近衛士官のトレック中尉に密かに調査を命じた。トレックもレティオラ同様、アッシュが皇子時代に地球留学した際に従った人物で、皇帝とは懇意の間柄でもあった。また平民の出身であり、大貴族らには注目されない卑小な存在でもあった。彼はレティオラを子供の頃から知っていたから、今回の件を聞くや、非常な怒りを覚えていた。ましてや皇帝陛下のお気持ちはいかばかりか。皇帝への忠誠心の高い彼は腕っ節と頭の良さを兼ね備えた人物で、出自から出世は殆ど無く、階級も中尉止まりだったが、皇帝との関係で近衛兵団の中では独自に行動することが出来た。彼に対しては直属の上司である部隊長も、遠慮していたのである。

 だから皇后やド・ブイーターらも皇帝が動き出したことに気づかず、親切ごかしに慰めの言葉をかけて取り入っていた。もちろん皇后らは、陛下の寵愛が高まることを期待してのことであり、そう考えると、皇后らに皇帝に対する愛情があったと言うことだけは確かである。

 これまた表向き平凡な感じのトレック中尉が、案外あっさりと、<逮捕処刑された>ハベタ料理人が密かに書き記していた日記風の記録を発見した。クエラの空間ドライブシステムに保存されており、そのアクセスキーが料理人の自宅に隠されていたのだ。トレック中尉は、それだけでは意味をなさない記号の羅列を見て、すぐにアクセスキーだと気づいたのだから、たしかに平凡ではない。

 記録には、家族の命をネタに脅されて毒を盛ることに従わざるを得なかったこと、その毒を実際に用意したのは、ゲースイ元帥の部下の高級士官チンデン中佐だったことが記されていた。ハベタ料理人がこの陰謀に巻き込まれた時点で将来がないと悟り、家族を守るために記録したものらしいこともわかった。

 一旦わかるとあとは芋づる式だ。

 密かに報告を受けた皇帝から勅命を受けた近衛兵18人は、トレック中尉の指揮の下、夜半にチンデン中佐宅を襲撃して逮捕し、彼は皇帝の前に引きずり出された。中佐は証拠を示されるとすっかり怯えてすべてを白状した。ゲースイ元帥に命ぜられたというのだ。さらに近衛兵らは家宅捜索の上、様々な証拠を手に入れた。全く極秘に行われたこの作戦は成功し、誰もチンデン中佐が皇帝の元へ連れて行かれたことを知らなかった。逆にレティオラ暗殺を企んだ者達は、ろくろく証拠隠滅もせず杜撰だったといえよう。それだけ皇帝を侮っていたのだ。

 翌日。

 なにも知らないド・ブイーターが宮中に呼ばれ参内すると、そこで皇帝からレティオラ暗殺の件に付いて下問された。またか、と内心うんざりしつつ、型どおりの哀悼の意を示しながら、説明をはじめた途端、皇帝はギロッとド・ブイーターをにらみ、指を鳴らした。するとトレック中尉率いる近衛兵が次々と現れた。驚くド・ブイーターに対し、証拠を示して真実を口にした。

 予想していなかったことと、今まで見たことのない皇帝の表情、言動、そしてトレック中尉ら近衛兵の銃に囲まれて、驚愕したド・ブイーターは、思わず「皇帝陛下の御為と思い」などと言い訳めいた言葉を口にしたために、皇帝の逆鱗に触れてしまった。

「余のためとはどういう意味だ。余のためにレティオラを殺したというのか。それのなにが余のためだというのか!」

 皇帝が一変したのはまさにこの瞬間だった。

 蒼白となったド・ブイーターはその場で逮捕され、爪を一枚一枚剥がされるという拷問を伴う厳しい尋問の結果、皇后や第3夫人の関与などすべてを白状した。

 皇帝は激怒したまま、関与した人物すべてを逮捕するよう命じ、自ら裁きを言い渡した。

 捕らえられた皇后は泣き叫んで慈悲を乞うたが、皇帝は彼女を廃立し、息子ともども極寒の辺境惑星へ流刑に処した。より関与の強かった第3夫人はその場で毒殺刑。両一族の主だった成人男性はすべて辺境の鉱山惑星へ流刑となり終身労働刑が言い渡され、残りの一族も全員地位を剥奪されて国外へ追放された。皇后・第3夫人と親しく、露骨に彼女らの側に立ってレティオラへのいじめにも加わっていた10人の夫人、その侍女で態度の横柄だったもの119人も、すべて財産没収の上国外追放。彼女らの全家族も財産没収の上、辺境の惑星へ追放された。彼女らの多くは、つい昨日まで贅沢三昧に暮らしていた者たちである。それが急転直下、ろくに食べるものもない状態に置かれたのだ。働いて生き延びる知恵も働かず、その多くは野垂れ死にしたと言われる。

 内務大臣ド・ブイーターはさんざん拷問を受けた挙句に切れ味の悪い刃物を使った斬首刑に処された。ド・ブイーターの長男で国営金融公社理事ドーリー・ド・ブイーターも陰謀に協力していたとして銃殺刑となり、残りの家族は皇后と同じ極寒の惑星へ流刑。ド・ブイーターの側近政治家でいずれも大貴族出身の6人と、首席秘書官はフンベントにある地下刑務所での終身刑となった。ここは輸送コンテナ搬入口以外に出入り口も窓も一切無い隔離施設で、すべての収容室が前後4m、左右3mほどしか無いむき出しの便器だけがある独房となっており、明かりもドアの上にある小さな窓から入る分だけという、たとえ終身刑とされなくても、ここに入れられたら精神が何ヶ月も持たない、すなわち終身刑、あるいは死刑と同義になるという恐ろしい場所だった。事実、収容された7人は、全て3週間以内に発狂して死亡している。

 その他のド・ブイーター派の貴族政治家はすべて無期限公職追放と地位剥奪となった。

 ゲースイ元帥は軍籍剥奪・不名誉除隊・軍歴抹消の上、銃殺刑に処せられた。また、事件には直接関わっていないものの、ゲースイの右腕として軍内部で権力をふるっていたオデイ参謀長は軍籍剥奪・不名誉除隊・軍歴抹消の上終身刑、さらに将官410人を含む軍の主流派上級将校11万4891人の軍からの追放と市民権剥奪を断行した。軍部は皇帝に対する忠誠心の高い近衛兵団を中心に動き始め、権力を謳歌していた連中は予想外の事態にどう対応して良いかわからず、連絡が入り乱れた。中には状況を素早く飲み込んで、皇帝に取り入ろうとする者も現れ、それらの告発により、他の様々な汚職や事件までが一気に明るみになった。皇帝はこれを躊躇することなく帝国全土へ公表し、軍部は大混乱に陥ってしまった。皇帝はその隙に、取り入ろうとした者も含めて、一気に処断してしまったのである。

 温和だった皇帝は一変した。

 諫めようとしたド・ブイーター派の政治家で伯爵の位を持つアーセナル金融商工大臣を、「そうか貴様も死ぬか」と皇帝自ら有無を言わさずハンドガンで14発も銃弾を撃ち込んで射殺した。

 またコーダ元首相に抜擢され、オゲロー首相とともに先帝を影で操っていた御用学者の男爵デネイトー・バーフンヌ博士は、皇帝を諌めに来て「皇帝の権威がどうのこうの」と説教を垂れようと喋り始めた途端、皇帝の振り下ろした皇帝杖で頭を潰され、眼球は飛び出て、脳みそを撒き散らして床にへたばった。無残な姿になった博士の死体に向かって、「たかが一介の男爵ごときが、誰に向かって皇帝の権威を語るか」と皇帝は吐き捨てた。

 皇帝は自ら近衛軍団の若手将校を率いて、陰謀に関係した貴族や将軍らの邸宅を包囲し、戦車砲や人型ユニット兵器の巨大バズーカなどで容赦なく攻撃し、彼らの家族も巻き添えに殺すなど、それまでの穏やかなイメージとまるで違った「凶行」に走ったため、宮中と政界はパニックになった。

 この出来事は、寵姫を殺された皇帝の感情が爆発して起きた、唐突な事件だと思われた。

 それゆえに権力の力学とはなんの関係もない一人の女性を殺し、皇帝の怒りを買った陰謀主たちの愚かさを指摘するものも多い。

 だが近年、この事件には別の要素があると考えるものが増えている。

 それはいかに皇帝といえども、感情の発露だけで、ここまでできるだろうか、という疑問からだった。皇帝の指揮によって近衛軍は即対応している。陸戦用の人型ユニット兵器などはすぐに準備できるような代物ではないが、2個大隊も動員されていた。

 つまり、皇帝の動きは、感情に押された突発的なものではなく、事前に準備されていたものではないのか、ということだ。

 当時、彼のまわりのほとんどが、父帝の代に配置された貴族政治家と属僚ばかりで、彼らはおとなしい皇帝を良いことに、権力を謳歌し、贅沢を極めていた。皇后や第3夫人ら側室たちも、皇帝の二人の異母兄と、父帝(を操る貴族共)によって選ばれたものであり、贅沢を恣にして、政治にも口を出す有り様だった。皇帝のまわりはそう言うものばかりであった。

 それに心を痛め、帝国の行く末を案じていた一部貴族、平民官僚や若手将校らがいたのは確かである。

 後世の研究者の中には、もともと皇帝はクーデターを画策していて、近衛軍将校や官僚らと密かに計画を練っていた。そこにレティオラ暗殺事件が起こったために、一気に実行に移したのだという説を唱えるものもいる。それ程に急激でかつ完璧なクーデターであった。

 また皇帝は、暗殺事件の調査の過程で、この事件の背後に、一人の黒幕がいることをほぼ突き止めていたらしい。それはかねて予想していた人物。

 長兄のジランである。

 ジランは、弟を心理的に潰し、その政策を阻止しようと考えていたのだ。皇帝の寵姫であるレティオラを巡る後宮の問題は、ジランにとって格好の話であった。彼は、密かに動いて、ド・ブイーター公爵を使嗾したのだ。だがジランは皇帝のクーデター計画をどこで知ったのか、行方をくらましてしまった。

 アッシュは抑え切れないほどの怒りと、異様なほどの冷静さで、一気にクーデターへと進み、それが貴族らに対する凶行へとつながったわけである。今までの鬱屈した感情を爆発させると同時に、あえて凶行をしてみせることで得られる効果とを計算したのだ。

 無関係の貴族らは慌てふためいて宮中に参内し、皇帝の前にひれ伏した。ガタガタと震え、ろれつも回らないなか、必死に皇帝の温情にすがろうとした。なにしろ皇帝から直接射殺された貴族もおり、実際、参内した貴族らは、血溜まりと血しぶきの宮殿内で、わざと放置されたままの何人もの遺体を目撃した。自分の血を見るのも怖がるような連中である。脳や眼球や腸がはみ出した無残な遺体を見て腰を抜かし、失禁するものもいた。

 彼らは単に皇帝の権力を恐れただけでなく、皇帝自身の直接的な暴力をも恐れたのである。

 貴族の中には、この期に及んでも事態に気づかず、皇帝を見下すものがいた。例えば大貴族のニヨー公爵などは、事態の急を告げる家臣をめんどくさげに手を振って追い払い、家宰を代理として宮中に送ったが、宮中から戻ってきたのは、家宰の生首と出頭命令書だった。驚いて宮中に出仕した彼は、血に染まった宮殿内で、皇帝から銃をつきつけられて出頭命令に応じなかった弁明を求められた。震えながら「病気により」などと言い訳をした途端、銃把で殴られ、歯の何本も折られた挙句、皇帝からその場で直々に全所領の没収と、平民への格下げ、辺境惑星への追放を言い渡された。そのまま拘禁されると、輸送船に乗せられ、彼は二度と家族に会うこともなく、数週間後、鉱山惑星のあてがわれた労働宿舎の狭い部屋で首をつって死んでいるのが発見された。

 一連の行動は、腐敗に怒っていた下僚や臣民には大いに受け入れられ、メディアは皇帝自らの行動をこぞって賞賛した。権力に近いメディアほど手のひらを返すのも早かったといえる。

 本来ならば、暴君と言ってもおかしくないほどの皇帝の所業だったが、世間には世直しを実行したかのように受け止められた。そこまで計算していたかは定かではない。

 この大粛正事件は、きっかけとなった第4夫人の名を取ってレティオラ事件と呼ばれた。

 一連の処分が終わると、新たな輔弼内閣が成立し、首相となったナッツ・ドルン博士が政策を引き継いだ。

 アッシュ帝は、事件の直後に自らメディアに登場し、帝国全土に対し、2度の暗殺未遂事件とクーデター未遂事件があったことを公表した。「2度の事件」というのは、2回めのティシューラ暗殺事件も「皇帝暗殺の陰謀に巻き込まれた」として発表したことによる。最愛の女性を殺した陰謀主らが表向き彼に対して語った内容をそのまま使ったことになる。内心どういう気持だったか。一方でこの陰謀を企んだのは守旧派の貴族たちであるとした。

 事件の公表に続き、治安は回復したこと、この様な陰謀に屈することなく銀河帝国へ向けて改革を進めていくことを宣言した。

 事件を改革のさらなる動機として利用したのである。改革をすすめることが、殺されたティシューラに対する報いとなるはず。そう考えたのだろう。

 皇帝は、事件の収束後は元のようにおとなしい性格に戻った。今までの溜まりに溜まっていた黒い瘴気を一気に吐き出したかのようでもあった。しかし、最愛の夫人を失ったことで一時的な激情に駆られたとはいえ、その時の恐ろしさは皇族・貴族の脳に深く染み付いた。それまで少なからず皇帝をなめきった態度でいた多くの貴族たちは、縮こまっておとなしくなった。

 そして、事件によって伝統ある名門、大貴族の全てが没落し、貴族界は大幅に縮小することになった。これまでにも何度か粛清は行われてきたが、むしろ名門は多く残ったままであった。しかし今回は、有無をいわさず、大貴族にも<直接>大鉈が振るわれてしまったのである。これを奇貨としてこの後、貴族の権利を奪う法整備が進められ、荘園は開放され、貴族年金は廃止されて、貴族は単なる伝統的存在へと落ちた。逆に平民は前にもまして、権力を得るようになった。ナッツ・ドルン首相も平民出身であり、閣僚のほとんども平民であった。軍部の将官にも平民出が多くを占めるようになるのである。閣僚首座が平民だったことは、帝国初期など、一部の時代を除いてほとんど例がない。

 このため、帝国がより多くの支配地域と同列になったという意見もある。すなわち、帝国本土だけが貴族に支配される特殊な地域で、それ以外の植民地、属国などは格下、という関係が終わり、帝国は本土もそれ以外の地域も、遍く「帝国」である、すなわち真の銀河帝国へ進む地盤が整った、というわけだ。

 最大の「成果」はそこにあったのかもしれない。あるいはそこまで計算していたものか。

 アッシュ帝は、帝国議会創設と、国政選挙制度の確立を、改めて国民に宣言し、ドルン内閣に命じて進めさせたが、この事件のような直接的な行動は二度と起こさなかった。

 

 

 アッシュ帝はその多くの時間を広い皇宮の中で過ごした。忙しく働くことで、悲しさと喪失感を補おうとした。

 日々業務に当たり、輔弼内閣の立案に目を通し、専門家に意見を聞いた。もともと学者を目指していただけに、その点においては歴代のどの皇帝よりも向いていたかもしれない。その頭の良さは、むしろ臣下にとっては心地よかった。皇帝に進言すれば、皇帝はそれを理解した上で諮問するのである。その知的刺激はむしろ望ましいものであろう。

 彼は即位前、臣民に示したように、銀河帝国を目指すのであれば、フン帝国、フンダ王朝という自意識を捨てなければならない、としたが、大改革を推し進めるのは、フンダ王朝の皇帝である自らであり、その責務を疎かにするようなことはしなかった。

 銀河帝国の道筋は、法制度の整備から行われたと言ってもよい。単に武力で星々を従えればできるというものではなかった。

 制度の根幹は大きく2つ。

 国政選挙制度と、帝国議会制度である。

 そのうち、まず先に成立したのが、帝国議会法であった。まず「枠」を作ったのである。

 同時に、帝国永久平和令と、改正貴族令が発布された。

 これは、貴族・諸領主の私兵保有を禁じ、私的な紛争を禁じ、さらに領地の規模を一定の爵位基準にはめて減らした後、それをもとに以後、増減を認めず固定する代わりに、帝国議会の貴族院に席を置くことを認めるものであった。

 帝国議会は、貴族院の他に、国政選挙によって選ばれた代議員による諸賢院が置かれることになった。二院制である。建前では貴族院が上院、諸賢院が下院となったが、アッシュの構想からすれば、実質の政治的討議の場は諸賢院が担い、内閣の構成員も諸賢院の議員によって構成される事になっていた。

 貴族院は諸賢院の決定した政策に対し、反対決議をすることが出来たが、反対されても、諸賢院に差し戻されるだけであり、最終的に皇帝が政策を承認するのは諸賢院の再決議の結果であることから、貴族院は貴族を認定するための形式上のものであり、政治的には形骸的なものとも言えた。

 議会制度が整うと同時に、国政選挙法もまとめられた。諸賢院は選挙で選ばれ、立候補する権利は身分性別を問わず、18歳以上のすべての臣民に与えられたため、もし貴族が立候補して当選した場合、貴族院ではなく、諸賢院に属することになる。貴族院に籍のある貴族だった場合は、掛け持ちは禁止されるため、立候補の時点で貴族院の籍を失うことになっていた(貴族の爵位を失うわけではない)。

 また、この制度を統治に活かすため、ここまで自治権を持たなかった植民地行政区や、直轄領の多くを、自治国に格上げした。そして選挙区を起き、代表者を選べるようにした。市民は国政への間接的参加権を得られ、帝国政府はそれら自治国を帝国構成法人として一元管理できるようになったのである。

 こうして、最初の帝国議会総選挙が1443の惑星、1920の選挙区(一人区)で実施され、新たに貴族や平民らによって作られた銀河帝国建設党が1098の議席で第一党となった。ほかに議席をとった政党が14に上ったが、多くは地域政党であった。

 ただ、最初の帝国議会は、まだ制度を確立するための試験段階とも言えたため、勅命首相であるナッツ・ドルン博士が引き続き、首相の座に残った。そのため第1回帝国議会のみ、勅任の輔弼内閣と、議会が併存する格好となった。

 その2年後、第2回帝国議会が開催されて議員内閣法が成立。ここで正式に、ドルン首相は退任し、あらたに与党銀河帝国建設党の党首であるベンベルゲン子爵が首相の座に付いた。議院内閣制として最初の内閣である。

 議会は帝国内での様々な諸問題を案件として討議し、法律を制定し、それらを首相が皇帝に報告して勅許を得られると、今度は行政府として内閣が実行に移すのである。

 つまり、これまで長いこと、勅任の輔弼内閣が行っていた業務のうち、法律と制度の討議については、議会がすることになったのである。超巨大星間帝国としては、これによって千を超える領内諸惑星の問題を、官僚を通さず吸い上げることができるようになった。

 このことから、フン帝国が銀河帝国となったのは、アッシュ帝の時代からという認識が一般的である。

 そして、そのきっかけとなったのが、レティオラ事件であり、レティオラ事件は、同帝国の時代の区分として歴史上扱われることが多い。

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銀河人類史 フン帝国編(皇帝紀) 青浦 英 @aoura

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