17代:イノドロー帝紀
イノドローは歴代の皇帝に比べれば、没個性の皇帝という評価しかない。
一般民衆の歴史マニアにとって、彼はなんの魅力もない皇帝だ。
歴史に燦然たる偉業を残した偉大すぎる母親とは比較するまでもないが、その母親によって帝位の道を閉ざされ、学者としての生涯を終えたギョルメと比べても、皇帝イノドローは地味すぎる存在である。
イノドローに、母親ほどの手腕はなかった。性格は閉鎖的で、能力にも際立った特徴ははなかった。
事跡から見えてくる性格と才能程度であれば、皇帝でなく一般市民であっても、地味な人生を送り、誰からの目にも止まらなかったであろう。二流そこそこの大学を出て、小さな企業に務め、平凡な家庭を持って、特段の業績も挙げぬまま、引退して年金暮らしで終わったはずである。
皮肉なことに、彼は偉大な皇帝の息子として生まれ、血筋によって跡を継いだことによって、地味という要素が目立つ存在となった稀有の人物とも言える。
しかしそれは、母親の輝く事跡によって地味さが必要以上に強調されている面も否めない。
事跡という意味で彼は、評価の難しい皇帝であった。
皇帝個人の内面、という意味では、また見方も変わってくる。
実は、皇帝自身のことを詳しく記録に残した人物がいる。ある意味、彼を最もよく知る人物だったと言えるかもしれない。
それは先先帝の子である、ギョルメであった。
イノドローと年齢が近いギョルメは、権力を握ったヴィデット帝によって、反乱の火種とならぬよう身近に置かれ、後には有能な環境学者として活躍した。
ゆえにイノドロー帝にとって、ギョルメは幼なじみと言ってもよい人物である。
イノドローが帝位に就いたのとほぼ同じ頃、ヴィデットによってギョルメは帝星に招聘された。帝星の環境改造のためである。皇帝も、ギョルメも中年に差し掛かっていた。
招聘を受けてから少しして、ギョルメは皇帝の呼び出しを受けた。皇帝に会うのは、帝星へ戻ってきた際に挨拶をして以来である。
彼が参内して数時間後、自宅に帰ってきた。
ギョルメは浮かぬ顔をしていた。
それからしばらくは何事もなかったが、また数カ月後、ギョルメは皇帝に呼び出された。
そして、戻ってくると、やはり浮かぬ顔をしている。
ギョルメの妻が不安になって尋ねた。一体、皇帝陛下はどういうご用件であなたを呼ばれたのでしょうか。妻は平民の出であるため、得体のしれない怖さを感じたのである。
ギョルメはその時は何も答えなかった。
だが、宮中への呼び出しが、3度、4度と続くうちに、妻は心労がたたって、病気になってしまった。病床で妻から呼び出しのことを重ねて問われると、ギョルメは重い口を開いた。
「陛下はな、私に愚痴をこぼしておられる」
「愚痴を……ですか」
「そうだ」
ギョルメは最初に宮中に赴いた際のことを思い返す。
皇帝は無表情のまま、茶席に招いた。
ぎこちない会話の後、皇帝は唐突に言った。
「余は、お前が羨ましい」
「私が、ですか」
「お前は、好きな人生を歩んでいるからな」
「好きな……それは、確かに望んだ道に進めたとは思いますが」
「余とは違う」
「……と申されますと?」
「余は好きで皇帝になったのではない」
「陛下」
「お前とは幼なじみだ。物心ついた時には、お前は宮中にいた」
「はい。私は母とともに、先帝陛下にこの星へ連れて来られましたので」
「そのようだな。小さい頃は、お前ともよく一緒に遊んだものだ。覚えているか」
「もちろんでございます」
「だがな、余はお前が嫌いだった。最初はそうでもなかったが、成長するに連れてな」
「陛下……」
「心配するな。お前をどうこうする気はない。母上を悲しませる」
そう言って、皇帝は顔を歪めた。
「小さい頃から、お前は母上に大事にされてきたな」
「そのようなことは」
「お前は、母上にとって、いわば反乱の火種のようなものだからな。大事にもする」
「……」
ギョルメが困惑していると、
皇帝は身を乗り出し、ギョルメの目を覗き込んだ。
「だから、なおさらお前のことが嫌いになっていった」
「……」
ギョルメはここに呼ばれた真意がわからず不安になった。
皇帝は背もたれに体を預け、
「余は母上にはあまり可愛がられなかった」
「そのようなことはございません」
「お前にはわかるまい」
「先帝陛下は、陛下のことを大事にされておりました。私が言うのも変ですが、私の一族をクーデターでお倒しになられたのも、当時はまだ幼子であられました陛下のことを考えてのこと」
「皆、同じことをいう」
「でも、まことのことでございます」
皇帝もそのことはわかっているのか、ふん、と再び鼻を鳴らすとそっぽを向いた。
「もうよい。今日はもう下がれ」
「……はい。失礼させていただきます」
また、別の時にはこうも言った。皇宮の庭園を歩きながら、
「子供の頃、よくここで遊んだな」
「はい」
「あの頃は、何も考えずに毎日が過ごせた」
「はい……」
皇帝は振り返ってギョルメを見ると、
「お前を見ると心底腹が立つ時がある」
「陛下、それはなぜでしょうか……」
「お前に一つ聞くが、お前は自分が努力して今の地位を得たと思っているのか」
「……はい。すべてがそうだとは申しませんが、相応の努力もしたと思っております」
ギョルメは、皇帝が何を言いたいのか察しが付いたが、あえてそう答えた。
「それは違う」
「と、申されますと……」
「お前がそうやって地位を得られたのは、お前が元皇位継承者だったからだ。だから母上はお前の望みを叶えてやった。お前が反旗を翻さないようにな」
「……」
「お前が皇族でなければ、自分の人生を好きには選べなかっただろう。徴兵されて、前線で無残な戦死を遂げていたかもしれぬ」
「……陛下の仰るとおりかもしれません」
「そうだ。そういうお前が、皇族だったばかりに人生をそうやって全うしている。人生は自分では選べぬ。余もそうだ。運命の理不尽さというものだ。余に限ったことではない。母上が止めるまで、帝国は長きに渡って戦争を続けた。その間、多くの臣民が望まずして死に追いやられたのだ。敵もそうであろう。一部の権力者の身勝手な欲に呑まれてな」
「仰るとおりでございます」
「酷いとは思わんか。何の力もなく、一方的な命令で戦場に連れて行かれ、誰ともしれぬ相手に殺されるのだ。庶民にだって夢や希望はあっただろうにな」
「はい。それゆえ、先帝陛下は、庶民の気持ちに立たれて戦争をお止めになったのではないでしょうか」
「ふん。母上が戦争を止めたのは、このままでは臣民共が反乱を起こし、自分たちが皆殺しにされると恐れたからだ」
その通りではあろう。だが、その殺されるかもしれなかった中に、陛下ご自身が含まれているのだ。先帝陛下が恐れたのは、自分が殺されることではなく、愛する自分の夫や息子が殺されることだった。
歴史上にはいくらでも話がある。元権力者の子というだけで、幼い子供が磔にされたり、首をはねられたり、日も差さぬ真っ暗な牢獄で餓死させられたりしているのだ。どうして、子供にまでそういうことが出来るのだろう。
それにしても……、
陛下は、先帝陛下を、実の母親をどう思われているのだろうか。
疑問を感じずにはいられない。
だが、ギョルメは皇帝に対して反感を抱くことが出来なかった。
皇帝の言葉は間違っていないからだ。
自分が皇位継承者として生まれなかったら、一庶民として生まれていたら、どんな人生を歩んでいただろうか。戦争は先帝のおかげで無くなったとはいえ、決して今のような豊かな人生を歩めたわけではないだろう。
自分は先帝によって希望する道に進めた。もちろん、今の地位に至るまでの間、努力はした。学問を収めたし、様々な困難にも対応してきた。自分に対する評価は、その知識と結果に対してであり、出自とは無関係にあると思っている。
だが、心の奥底の何処かで、なんとなく忸怩たる思いがあるのも事実だった。真に自分の力を尽くしたわけではないと。スタートラインが恵まれていたと。比較的若くで帝国大学教授の地位に就けたのだって、皇族の身分と無関係とはいえまい。
ふと気づいて顔を上げると、皇帝が自分の方を見ていた。
「お前は賢い男だな」
「え?」
「自分のことを冷徹な目で観察することが出来る」
皇帝は口の端を歪めると、
「まさに学者向きというわけだ」
こういう時、なんと答えれば陛下は満足されるのだろう。
「余がお前を嫌っているのは、そういうところも含めてだ」
当初は、皇帝の愚痴に対して、意に沿うように黙って聞いていたギョルメだったが、ある時、抑えきれなくなって逆に尋ねたことがあった。
「陛下は、皇帝の地位に就かれるのを望んでいなかったのでしょうか」
質問されたことに、皇帝は一瞬顔をしかめたが、
「望んだことなど一度もない」
「ですが、この巨大な帝国の最高権力者の地位ではありませんか」
「それがなんだというのだ。権力と言っても、形式的なものに過ぎぬ。実際に政治を動かしているのは輔弼内閣の連中ではないか」
「では陛下は、ご自身で政治を動かしたいと思っておられるわけですか」
すると皇帝は露骨に顔を歪めた。
「ふん、そんなこと、余には無理なことくらい、お前にもわかるだろう」
「そのようなことはございません」
「気を使っているつもりか? 統治能力については首相らの方が優れている。余の出る幕ではない」
「では……」
何が不満だというのだろうか。
いや、不満はわかっている。自分が望んだ人生を選べなかったからだ。
だが、それは無理というもの。
ギョルメは、皇帝の立場を思うと、自分にもその可能性があっただけに、身につまされる気持ちになった。
「陛下。こういう質問をさせていただくことをお許し頂きたいのですが」
「なんだ」
「もし、あくまで仮の話ですが、陛下が、皇帝になっておられなかったとしたら、どのような道にお進みあそばされてたでしょうか」
「なんだと?」
「もちろん、あくまで夢としてのお話です。陛下がなりたかった人生とは、どのようなものだったのでしょう」
「なりたかったもの、か……」
皇帝は黙った。しばらく黙っていたが、
急に顔を背けた。
「余は一体…、何になりたかったのであろうか……」
それは小さなつぶやきだったが、ギョルメにとって、それは皇帝の複雑な心情の一端を理解するに十分な言葉だっただろう。
そうか。
皇帝陛下は、ご自身が何者であるのかを知りたがっておられるのか。
皇帝は時折、ギョルメを呼びつけては、ギョルメのことを悪く言ったが、ギョルメを憎んでいるわけではなく、自分の人生というものを嘆く思いの裏返しであった。ギョルメを鏡のようにして、実は自分を映し出しているのである。
そういうことがわかってからは、ギョルメはただ話を聞くだけでなく、意見をぶつけてみたり、質問するように心がけた。
ギョルメは日々を帝星の環境改造の研究のために費やしていた。先帝ヴィデットの夫で植物学者のトアレ公爵とともに、弟子たちを引き連れて惑星中を飛び回り、生態系の細かい変化も記録した。
そんな彼の多忙な日常を、皇帝が知らないわけではなかったが、皇帝は彼のスケジュールなど無視して、一方的に呼びつけることもあった。
そういう時、ギョルメはたとえ惑星の裏側にいようと、出来るだけ急いで皇宮へ参内した。
皇帝にしても、普段、決して暇なわけではない。
巨大化した帝国を動かす政策は、輔弼内閣が定め、皇帝が裁可するシステムとなっている。フン帝国には各委員会や限定的な議会はあるが、政治的な権限を持つ国政議会がないため、権力の集中度合いも高い。そのため、政策決定は絶対であり、議会に責任を押し付けることが出来ない。
イノドロー帝は、政策のうち細かい案件については、首相らに一任しておいた。首相もまた、要度の低いものは更に下の部門に権限を与えて遂行させ、結果だけを報告するようにしていた。
皇帝が判断するのは、国家の基本方針、外交、軍事政策、予算、行政機構の再編、反乱、帝国や皇帝の権威に関わる問題に対してであり、これとは別に、皇族や貴族の事務や婚姻に関する問題を国政とは別件で裁可することがあった。
また、国家行事、宮中行事、賞勲式典への出席、さらに科学的発見や国際的スポーツ大会での成果といった、帝国の権威を高める喜ばしい報告を受けるときにも、皇帝は玉座にいなければならない。
イノドローは、その点で自分の義務をおろそかにすることはなかったが、義務というのは何人であれ、自分で課すものではなく、誰かによって課せられるものだ。
ある時、ギョルメが呼びだされて参内すると、皇帝は内宮にいた。皇族の居住区であり、政務を行う外宮よりも奥まったところにある。
内宮の庭園に面した建物に案内されると、
皇帝は最初から不機嫌だった。
「遅かったな、2日も待たされた」
皇帝は振り返りもせずに言った。庭園を見ている。
「申し訳ありません。バンデン海の捕食生態系の調査を行っておりましたので、戻るのに時間がかかりました」
皇帝は振り返ると、
「ほう、おまえは、植物だけでなく動物の世話もするのか」
「私一人でしているのではありませんので。専門の研究者もおります」
「ふん、忙しそうだな」
「はい。惑星全土の生態系ともなりますと、休む暇もありません」
そう言ってから、そんな中を呼び出した皇帝を批判しているととられるのではと気づき、
「陛下も公務でお忙しいでしょう。私などがお相手してもよろしいのですか」
「かまわん。たまには息抜きせんと、死んでしまうわ!」
そう吐き捨てるように言って、
「毎日毎日、政策だのなんだのと、きりがない」
「ご心労、お察しいたします」
執事長がお茶のセットを置いて行くと、
「飲め!」
そう言って、皇帝は自分でもカップを手に取った。
「忙しいと言っても、することは、首相らの政策案を確認してサインをするだけだ。毎日毎日、植民地の治安がどうした、工業生産指数がどうした、通貨供給量がどうした、宇宙艦隊大演習の日程がどうした」
薄手の白磁で出来たカップを乱暴に置き、
「うんざりする!」
「……帝国は巨大化しましたゆえ、それだけ公務も多くなったのでしょう。すべてを陛下が裁可する必要はないのでは」
「わかっている。どうでもいいような案件は首相らに一任した。それでもこの忙しさだ!」
不機嫌に言ってから、
「余がするのは、すべてサインを書くことだけだ。自分で考えたわけでも、自分で選んだわけでもないことに、諾か、否かを決めるだけだ。昂揚感のかけらもない」
「それでも陛下は、ご理解の上でされているのでしょう?」
「当然だ。わけのわからん案件も多いがな。説明は聞いている」
「ご立派なことでございます」
「それになんの意味がある……」
「と、おっしゃられますのは?」
「皇帝の存在意義だ」
皇帝は思わぬことを言い出した。ギョルメが戸惑い、返事をする前に、
「皇帝とは何だ! 何の意味がある? 政治は首相らがしている。世の中に役立つ専門家はいくらでもいる。お前だってそうだ。専門家が国を動かし、社会を動かしているのだから、それでなんの問題もない。だが余はなんだ」
「陛下……」
「はっきり言うが、皇帝なんぞ、必要ない」
「陛下!」
「余がいなくても、皇帝などいなくても、国家は残る。何も困ることはない。下々の連中は別の君主を推戴するであろう。人というものはそうであろうが」
確かにそれはある。ギョルメは思う。皇族でありながら、庶民とともに生き、庶民出の女を妻に迎えた彼にとって、庶民というのは一見弱そうに見えて、案外したたかであることを知っていた。むしろ皇族や貴族のほうが、強そうに見えて、実は孤独で、味方の少ない立場にある。
一見、凡庸に見えて、この人は実は物がよく見えているのではないか。この奥まった宮中の中で、見えるものをちゃんと見ているのではないか。
少なくとも、多くの皇族や、貴族連中よりは、世の中の仕組みをわかっているのではないか。
ギョルメはこの時そう思った。
「余に政治思想などわからぬ。だが、銀河には民主制を敷いている国家もある。民が国家元首を選ぶ仕組みがあるのであればそうすればいい。形だけの君主などよりよっぽどまともではないか」
皇帝は、民主主義の優位を訴えているのではないことは、ギョルメにもわかった。皇帝が苛立っているのは、皇帝自身の存在意義なのだ。正しいと思う政策は、政治家の責任で遂行すれば良いことで、わざわざ皇帝が裁可することではない。それをわざわざするシステムが、皇帝にとって見れば、「皇帝の御為にしてやっている」という風に感じるのではないか。
国家に飼われているような、そんな違和感を感じているのではないか。
確かにこの数百年、変わることのない絶対君主制を敷いている我が帝国では、皇帝も、貴族も、必須のものではなく、伝統のようなものであった。この国で革命が起こらないのは、一つにはどんな危機的状況でも、民の暮らしがギリギリの線で保たれたということ、また銀河に人類が広がり、その多様性が民主主義を一概に絶対視しなくなったこともあるが、皇帝が伝統的な存在になっているという点も大きい。
例えば、非宗教国家であっても、国内にある古い寺院を見て、「こんな古臭い寺など必要性がない」と言って壊すということは普通しない。伝統には必ずしも価値があるわけではないが、人に歴史を感じさせる良さがある。我が帝国の皇帝もまた、絶対の必要性や、究極の権威があって存在するのではなく、そこにいるのが当然のような存在になっていた。
今後、政治システムの細かい変化はあるだろうが、おそらく国家滅亡の危機が起こらないかぎり続く伝統だろう。
宮中で育った皇位継承者の一人でありながら庶民に近い人生を送ったギョルメには、「皇帝」というものを、その存在の危うさと同時に、下々からではなく、同列の位置から身に迫る実感として理解できた。こんな立場の人間は、銀河広しといえども、そうそうはいないだろう。
だから、あえて言わなければ、と思った。
「おそれながら陛下。陛下には陛下にしかないお役割というのがございます」
「それはなんだ」
「帝国を体現するものとしての存在です」
「……」
皇帝の方が黙る番だった。
「陛下こそが、帝国なのです。これは他の誰にもできません。努力してなるものでもありません。能力によってなれるわけでもございません。陛下だけに、その資格がお有りなのですよ」
ギョルメは自身でも信じていないことを自覚しつつ、それでもこの幼なじみの孤独な男の心を慰めなければならぬ、と思った。
その思いは、皇帝にも理解できたのだろう。少し眉をひそめて、
「……妙なことを言うわ」
「事実でございます。現に陛下の地位を奪おうというものはおりません。たとえ帝国と敵対する国家であっても、それは敵であって、陛下に取って代わろうというわけではないのです」
「だが、我が一族には余の地位を奪おうとするものもいるであろう。母上がそなたの一族を排除したようにな」
「それは、我が帝国の皇帝の地位に就けるものが、フンダ一族のみだからです。他のものがその地位についても、それはフン帝国の皇帝ではございません。別の君主でございます」
「要するに皇帝の地位は、ただ血で受け継いでいるというだけのことではないか」
「血であっても、そこに意味があるのです。それは陛下が選んだことではありません。陛下はご自身の選べぬ人生をおっしゃっておられましたが、逆に言えば、それこそが陛下の資格でもございます。それは他の誰でもありません。陛下だけが、選ばれた存在。それが陛下にだけ定められた運命であり、陛下こそが、我が帝国なのです」
皇帝は黙って、幼なじみの顔を見た。
「……だからこそ、我が帝国の民は陛下を推しいただくのです」
皇帝はさらに沈黙していたが、少し表情に変化が現れた。
そして、おもむろに口を開くとつぶやいた。
「科学者がいうセリフではないな」
「え?」
「自らの運命を自分の手で切り開いてこそ、人類というものであろう。科学はそのためにある。定められた運命などという言葉は、科学者の口にすることではない」
「陛下……」
皇帝は珍しく皮肉っぽい笑みを浮かべると、
「……おまえは余のことなどに気を使わず、自分の道を行けば良いのだ」
一方的な言い方であったが、ギョルメにはその思いやりが伝わった。
その後、皇帝は、ギョルメを呼ぶことはあまりしなくなった。
呼んでも、消息を尋ねるようなことくらいしか、会話がなかった。
それはギョルメにとって、いささか寂しさを伴うものであった。
だが同時に、皇帝はひとつ先へと進んだような思いもした。その後押しをしたのが私だとしたら、皇帝は私に心情を吐露することはもうないだろう。
「いや、このような考え、我ながら、不遜の極みだな。自分にそんな力があるわけではないのに」
自邸から皇宮の建物を見やって、ギョルメはそう独語し、苦笑した。
その年の終わりに、偉大なる皇帝であった先帝ヴィデットが亡くなった。
その死の2週間ほど前、彼女は枕元にギョルメを呼んだ。
そしてギョルメの手を握ってこう言った。
「わたしは、あなたの……その人生を狂わせてしまったのではないかと、……ずっと気に病んでおりました……、もしそうだったのであれば、私はあなたに謝罪をしなければなりません」
「陛下。ヴィデットさま。何をおっしゃられるのです。わたしにとってこの人生は、陛下より頂きました最高の贈り物です。感謝こそすれ、お恨み申し上げるようなことはどこにもございません」
「そうですか、それなら良いのですが……」
「わたしは、この帝国で、最も幸福な人生を歩めることが出来た人間だと、自負しております」
「ありがとう。あなたは……、昔から優しい子でしたね……。そんなあなたに、一つお願いごとをしてもよいかしら」
「なんなりと、おっしゃってください」
「我が息子を、イノドローをよろしくお願いします」
「陛下」
「私はあの子に、何もしてあげることが出来なかった。ただこの帝国の後継者にしただけ……。皇帝とは孤独です。権力者とは常にそういうものでしょうが、それ以上に、皇帝には心をわかちあうものがおりません。もしあの子が、なにか救いを求めるような時が来たら、その時は……、」
「ご心配には及びません。皇帝陛下は真にお強い方です。驚くほどに立派になられました。帝国を正しく導いていかれることでしょう」
ヴィデットはうなずき、
「ありがとう。それでもあえて、お願いします。あなたにまた迷惑をかける事になるでしょうが」
「いえ、承知いたしました。皇帝陛下がお困りの時は、不肖の身ではありますが、私が傍らに馳せ参じましょう」
ギョルメはそう言って頭を下げた。
「ありがとう、これで何も思い残すことはありません」
こうしてヴィデットが亡くなり、形だけでなく真の意味でも、イノドロー帝が帝国の頂点に立った。
すでに政策面では、代替わりは進んでおり、イノドロー帝体制下での輔弼内閣は国家を動かしていた。
その政府機構は、母親の代に築かれた貴族と平民によって成り立っており、イノドローの代でも有効に機能していた。むしろ皇帝が自らの手腕を発揮しなかったからこそ、政府は従来通り機能し続けたとも言える。なまじっか皇帝に才能があって、その手腕を自意識に基づいて発揮した結果、社会を混乱に陥れた例は、歴史を紐解けばいくらでも出てくる。トップに立つものは、必ずしも有能である必要はない。むしろ程々でも、下のものの意見を理解し、責任をもってその政策を推し進められる方が良いのだ。
つまり、見方を変えれば、イノドローは名君とまでは言わずとも、君主としての合格ラインにあったといえる。決して暗君ではなかった。
母親ヴィデットの目から見て、息子イノドローのそういう資質までを理解した上で譲位だったのかはわからない。
ただ、急激に拡大した帝国を維持するにはイノドローは十分責務を果たしたといえよう。
その治世の初頭は、輔弼内閣首相となったギーノルー侯爵の政権が引き続き運営を行い、その後はそれぞれはやや短期だったものの6つの内閣が帝国を動かした。いずれも前代の政策を踏襲し、安定化させることに務めた。特に近年になって加わった多くの新領土をいかに安定して支配するか、そのことに閣僚らは苦心した。専門家は様々な政策を考え、皇帝に上奏した。皇帝は彼らに一任した。自らの頭脳を駆使しない代わりに、有能な人物に任せる。その意味では、イノドローはむしろ器としては大きい人物だったのかもしれない、そういう後世の学者の意見もある。
この時代、植民地でのいくつかの小反乱を鎮めた以外は、地味だが、堅実な理解のもとにイノドロー帝は支配政策を進めていった。
イノドローには統治についての思想があった。それは豊かさである。
豊かであることが人々のもっとも欲するものである。日常のささやかで穏やかで豊かな生活こそ、何にもまして重要な事。それに比べれば、民族主義などは二の次であった。不平や不満が争いを招く。市民に不満を感じさせないよう社会を豊かにすることが、ひいては国家の威信を高め、支配者の権威にもつながっていく。
「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」という言葉があるが、古来より誰もがわかっていながら、誰もがそれを完全には出来なかったことだ。
イノドローと、輔弼内閣の閣僚らはそれを本気で行おうとした。その点、皇帝と臣下の意見は一致していた。そして完璧とはいえずとも、歴史的には評価される治世を成し遂げたのである。
ギョルメが残した記録にあるように、イノドローは皇帝という自分の地位にすら、なんらの評価も与えなかった。
それ故に、形式とか、伝統とか、理屈っぽい思想とかを飛び越えて、政治の本質を見抜いていたのかもしれない。国家を構成するのは民であって、民なくして国家はありえない。しょせん統治者というのは、その国家の装置の一部でしか無いということを。
彼が唯一母親と異なる政策を行ったことといえば、新たな属国を作らなかったことだ。戦争はもちろん、外交としても領土や帝国圏の拡張政策は行わなかった。
出来上がった帝国圏を守ることにエネルギーを注ぎ込んだ。それが出来たのは、母親の代に外交手腕の限りを尽くして敵対的な、あるいは、脅威となるような近隣大国のことごとくを服属させた結果でもある。星々の位置関係という地政学的な条件もあって、イノドローの代には、帝国圏にそれを脅かすような存在はなくなっていた。
同時に、地味だが堅実、という目に見えぬ成果を上げた皇帝の存在が、国家を安定させ、戦争を産まなかったとも言える。
どんなに有能で果敢でカリスマ性のある皇帝であっても、戦争を行えば、死ぬのは臣民であった。
戦に勝利すれば、多くの人は快哉を上げるだろうが、その影で戦死者の遺族は涙を流す。
そういう隠れた悲劇のない歴史が、イノドローの時代であった。
「余は、母帝ほどの才能もなく、おそらくは歴代のどの皇帝よりも劣っているであろう。そのような余が、分不相応のことに取り組んでも、臣民を不幸にするだけだ。余には、余に出来る範囲で為すことを為せばよい。首相らは、余の手が届く範囲を教えてくれるであろう」
彼は自身の地味な業績によって歴史的には大して評価されない代わりに、同時代の人にとってはとても貴重な存在だったとも言える。
帝国は、外征の時代を終え、内政への時代に転換した。
莫大な軍事費は大きく減り、財政は健全化していった。母親の時代から改善はされてきていたが、税制度も緩和され、特に法人税の軽減は経済を発展させた。帝国本国と、属国と、植民地とを結ぶ流通ネットワークが整備され、また戦災復興のための特需が景気を押し上げた。
この時代のもう一つの特徴は、平民の比率が大きく拡大したことだろう。植民地が増加することで新しい臣民の割合が増える一方、戦争が無くなったことで、功績によって貴族になる人がほとんど出なくなった。経済の発展は、貴族の懐も潤したが、直接的な恩恵は民衆の方に大きかった。莫大な資産を保有する平民も増加し、貴族以上の贅沢な暮らしを営むものも現れた。その立志伝は人々を魅了した。広がった領土の一部は貴族のものとなったが、多くはそのままであった。併呑した諸国には共和制の国も多かったため、相対的に平民の数は増え、多くの土地は平民のものであった。貴族の力は相対的に弱まり、平民の存在がより大きくなった。
イノドローの治世29年は、帝国本土も、植民地も、属国も、奇妙なくらいに落ち着いていた。だからといって高揚感のかけらもないような社会ではなかった。人々のエネルギーは経済や文化や学問に向き、むしろにぎやかな時代だった。
そういう意味で、イノドローは、後世の評価はともかく、当時の人にとっては、不可欠な帝国の顔であったのかもしれない。目立った存在ではないが、確かにそこに存在する、当たり前のようなもの。
その存在が、帝国に一時的な安寧をもたらし、ひとつの「時代」を作ったと言えるだろう。
イノドローは死の床に付いた時、ギョルメを宮中に呼ぶよう命じた。
参内したギョルメは、首相や軍部の大物たちが控えているのを見た。その雰囲気で、もう時間の問題だとわかった。
侍従長に案内されて病室を訪れると、家族がベッドの周りを囲んでいた。
躊躇するギョルメに、皇后がうなずく。
「陛下がお待ちでした。どうぞ、おそばでお声を掛け下さい」
ギョルメがうなずき、ベッドに歩み寄った。
「陛下……」
そっと声をかけると、皇帝は目を開けて幼なじみの方を見た。
そして、わずかに口元に笑みを浮かべて言った。
「ギョルメ……、夢を、見たぞ」
「どのような夢でございますか」
「ずっと昔……、お前と一緒に、よく遊んだ、……あの幼き頃の……夢だ」
「陛下……お懐かしいことでございます」
「ああ、なつかしい……思えば、余の人生で……、あの頃が一番、楽しかった……」
「陛下……」
「それを、お前に……言っておきたかったのだ……」
皇帝は、満足そうな表情を浮かべると、目をつむった。
ギョルメも、目に涙を浮かべながら、
「陛下、私もまた、あの頃が一番、楽しゅうございました」
静かに深く頭を下げた。
まもなく、イノドロー帝は静かに息を引き取った。
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