ドルチェ

天海りく

ドルチェ

 戦場はまさに地獄と呼ぶべき惨状だった。

 短い緑の草が覆う草原は深紅の炎の絨毯が敷かれ、その上を兵士達が逃げ惑う。背後に控える数十人魔術師達が炎を消し止めようとするが炎は彼らさえ追い込んでいく。

「数だけの三流魔術師でどうにかなるわけないじゃない」

 風に赤毛の髪や軍服の上に羽織っている黒いローブの裾を揺らめかせて、炎の絨毯を織る魔女が冷めた声でつぶやく。

 そして彼女は薄茶の瞳で闇雲に撃たれた銃弾が側を掠めて行くのを一瞥して、手に握っている青錆びた銅剣を振り下ろす。

 巻き起こった風で炎は勢いを増して敵兵は撤退していく。

「クレイブン曹長、その辺でいいぞ。こっちも片付いた」

 背後の木立から銃剣を持った軍服姿の黒髪と紺色の瞳の青年が、大仰に手を振って出てくる。

「ボルツ少尉、全部焼いていいって言いませんでした?」

「そうだっけか? まあ撤退したんだからいいじゃねえか。力が有り余ってるなら、後で発散させてやるからよ、オリヴィア」

 アルフレート・ボルツがオリヴィアの頬についている煤を乱暴にぬぐい笑みを浮かべた。

「命令?」

 彼の手を振り払ったオリヴィアは無表情で問う。

「そうだな。特命だ」

「分かった。いつもの時間に行くわ」

 素っ気なく答えて銅剣を薙いで炎を鎮める。一瞬で消える炎にアルフレートが目を細めた。

「毎度の事ながらすげえな。魔法って俺も使ってみたいぜ。剣とかなんかかっこいいしよ」

 二十四だというのに子供の様なことを言うアルフレートを、十八のオリヴィアが鼻で笑う。

「その単純思考じゃ魔力があってもたいしたこと出来ないわよ。呪具だってまともに造れそうにないし」

「その剣はお手製じゃないだろ」

「既存のもので自分にあった呪具なんて滅多にないわよ。これだって呪印を彫り込んで自分の血を吸わせてあるんだから」

 魔術を使うための媒体となる呪具を魔術師は自分で作る。

 一から自分の使いやすいように魔力の込めながら杖を彫り、さらに自分の髪や宝石などを埋め込んで強化するのが一般的だ。

 オリヴィアは指先にしっくりなじんだ、家で見つけたいつの時代かも分からない錆びた銅剣を魔術で加工しして使っている。

「血か。だからお前の出す炎ってあんなに真っ赤なんだな……」

 言いながらアルフレートが木立の向こうから聞こえる声に顔を向ける。

 他の兵達が呼んでいるらしいのでオリヴィアはさっさと行けと彼を追い立てる。

「手伝うぞ」

「ひとりでやるから誰も来ないようにしておいて」

「じゃあ、前金だけもらっとく」

 アルフレートが慣れた手つきでオリヴィアの顎を掴んで口づける。何かの儀式を受けるように彼女は目を開いたままそれを粛々と受け入れた。

 軽く啄むだけの口づけが終わると、アルフレートは言葉もかけずに元来た道を引き返す。

 オリヴィアもその背中を見送ることなく焼け野原へと歩き出す。

 向かう先は敵の魔術師の亡骸。骨しか残っていないが、魔力の痕跡は強く感じる。

 オリヴィアは特に強く魔力を感じる右手の人差し指の骨を拾い上げ、ローブの内袋にしまった。

 そしてオリヴィアは魔術師の指の骨を拾い集め続け、最後には指の骨をくすねたことを隠すために残った骨を灰に変える。

 全てが終わってオリヴィアは青空を仰ぐ。

 目を閉じて眼裏に浮かぶのは、蝙蝠に似た巨大な翼で風を捕らえ蒼穹を切り裂いていく竜の滑空。

 子供の頃から抱き続ける幻想。

 それをこの手で現実に変えるにはまだ時間がかかりそうなものの、アルフレートのおかげで人目を警戒することがなくなって準備ははかどっている。

 生死関係なく人体を使った魔術は禁術だ。軍の上層部に知られれば間違いなく異端術者として拘束される。

 偶然この行為をアルフレートに見つけられた時はどうしようかと思ったが、安い代償ですんだことは幸いだ。

 そう、安い代償だ。

 自分の純潔なんてものは。

 

***


 ロンナ共和国、シルファ司令部。

 隣国のガシュム王国の国境線に配備されている司令部だ。二年前に始まった国境をまたぐマシュルケ銀鉱脈の争奪戦の前線部隊に、オリヴィアが魔術師兵として志願し入隊して一年になる頃だった。

 隠れて敵の魔術師の指の骨を回収していた時、アルフレートが厳しい声で何をやっていると背後から声をかけてきた。

 取り繕う暇なく骨を収めた小袋をとられて、彼は中身を確認するとなんとも言いがたい顔をして『頭は大丈夫か』と問うてきた。

 いっそ殺してでも奪い返そうかと考えたときだった。

 黙っててやるかわりに夜の相手をしろという条件を持ち出してきたアルフレートに、オリヴィアはそっくりそのまま同じ事を聞き返した。

 こんな薄気味の悪い魔女を抱こうだなんて考えるなんてどうかしている。

「あんたやっぱり頭おかしいわよ」

 そしてあれから半年。いつものように夜更けにアルフレートの私室を訪ねたオリヴィアは、今度は確信を持ってそう言った。

「そうだなあ、半年じゃちょっと早いか。でも戦争も終わりそうだし先のことも考えねえと。よかった、ぴったりだな」

 そう言いながらもアルフレートはオリヴィアの左手の薬指に指輪を嵌めていた。

 銀の環の中央に赤い宝石が大きなものがひとつと、小粒のものがその両脇にひとつずつのあわせてみっつ埋まっている。

 なんでも珍しい赤いダイヤらしく魔力の媒体としても優秀そうだ。

「あたしは結婚するつもりなんてないわよ。他の誰かにして」

 指輪を引き抜いてオリヴィアはアルフレートに突き返す。

「俺の何が気にくわないんだ? 自分で言うのもなんだけどよ、顔もいいし、将来有望な軍人で家柄もいい。ほら、好条件だ」

「条件がよかろうが悪かろうが結婚するつもりはないわ。それだけ条件が整ってるんならいくらでも代わりはいるわよ」

 アルフレートの将来はそれは有望に違いないだろう。

 今、貴族院議長をも務めるボルツ侯爵の三男で士官学校を主席で卒業した後に前線でも活躍し、戦争が終われば中央司令部での重役が待っている。

 おまけに容姿も少女が胸をときめかさずにはいられないほど整っていて、口調などは粗暴なようで所作と姿勢に上品さがにじみ出ている独特の雰囲気もひとつの魅力だった。

 わざわざこんな自分を選ぶ意味が分からない。

「そうか。自分に自信がないって事だな。大丈夫だ。俺が選んだんだから間違いない」

 話にならない。

 オリヴィアは強引に話を打ち切ろうとしたが、自分に逃げ場がないことを思い出して眉根を寄せる。

 部屋を出て行くわけにはいかない。

 この半年の間にアルフレートはそれほど強引には誘ってこず、一応はこちらの都合をきいてくれたりはしてくれた。

 とはいえここまで反発して機嫌を損ねさせたら計画が無駄になる。

「いいわ。気が変わったら返すからいつでも言って」

 オリヴィアは仕方なしに指輪を軍服の胸ポケットにしまい込む。

「いいけど、戦争終わって制服と一緒にしまい込むようなことはするなよ」

「そこまで抜けてないわよ。……後どれくらいで決着がつきそうなの?」

「ん、早けりゃ三ヶ月ってとこだろ。このままぐだぐだやり合っててもしょうがねえし。もうちょっとこっちが上手く叩けば向こうも和解に譲歩するだろ」

 三ヶ月。

 そこまで目処が立っているなら、これ以上むこうも魔術師を大量に送り込んでくることはないかもしれない。

 魔術大国であるガシュムにとって、魔力を蓄積させやすい銀は金以上に価値を持つことがあるとはいえ、三流だろうが魔術師を出し渋るだろう。

 現に力の強い魔術師はここ半年ほど前線に姿は見えず、後方支援に回って真っ先に逃げ出している。

 そんなことをつらつらと深刻な顔で考えながらうつむいていると、髪を撫でられてオリヴィアは視線だけ持ち上げる。

「なんだ、故郷が負けるのはやっぱり胸が痛むか? でもこっちの少ない魔術師兵でも唯一むこうの魔術師兵団に太刀打ち出来るお前がここで躊躇われてもこっちも困るからな」

「……別に。故郷だなんて思ってもないしどうなろうと知ったことじゃないわ」

 オリヴィアに限らず魔術師のほとんどはガシュム出身であるか、両親のいずれかの実家がそちらにあるかだ。大陸屈指の魔術師の出生率の高さが、ガシュムの魔術大国たるゆえんである。

 魔術の研究も支援も国の予算で賄われる整った環境にいながら、隣国にいる魔術師は後ろ暗いことがあって逃げ出したのか密偵かのどちらかだ。

 だからこそアルフレートはひとりでこそこそしているオリヴィアを、密偵かと疑って後をつけてそしてこの現状だ。 

「なら、いいけどな。俺のいる所がお前の帰るところってことだけは覚えておけよ」

 耳元で囁かれる声にオリヴィアは痛みをこらえるように目を細める。

 寝室に客間に、書斎に、棗の木が生えた庭。ガシュムのあの四人暮らしには少し広かった家は今、どうなっているのだろう。

 父はいなくて、出て行った母も一緒についていった妹のフローラも帰っては来ないがらんどうな家に未練はないが、時折ふっと思い出すことがある。

 ベッドの上に組み伏せられたオリヴィアはアルフレートの肩越しに天井を見る。

 オイルランプの灯火が闇をくゆらせるそこには何もない。

 子供の頃は父の書斎のソファーに横になって天井を見上げるのが好きだった。そこには大空を羽ばたく竜の絵が貼られていたから。

 あの頃からずっと同じ夢を見ている。父と同じ夢を。

「オリヴィア、こっち見ろ」

 名前を呼ばれてオリヴィアは顎を下げる。

 アルフレートが自分を抱くとき視線や思考まで欲しがるのはなぜだろう。

「愛してる」

 疑問に答えを返すように瞼に、口づけが落ちてくる。

 だがオリヴィアにとってそれはただのベッドの上でのひとつの儀礼的な言葉に過ぎず、答えとして受け取ることはなかった。

  

***


 それから一週間、出動命令は下らなかった。

 待機中の退屈な時間を潰すのに術式の構造を見直し、改良点を見つけて編み直しをしているとアルフレートが部屋にやってきた。

 出動命令かと思ってベッドに放り出しているローブを手に取る。

 しかし辻馬車でつれてこられたのはシルファの中心街だった。

 そう大きな街ではないもののガス灯が街路に等間隔に設置され、電話線もちゃんとひかれている田舎町としては十分に先進的だ。

 戦地の間近とあって人通りはまばらだが、終戦が近いこの頃は人通りも次第に増えて来ている。

「お前、ドレスとか持ってないだろ。その格好で挨拶はさすがに俺がドレスのひとつも用意してやらんのかって父上に怒られるからな」

 そう言いながらアルフレートがオリヴィアの腕を掴んですぐ側の仕立屋へと足を向ける。

「言っとくけどあたしそんなお金持ってないわよ」

「俺が支払うに決まってるだろ」

 お前は馬鹿と言いたげな顔を向けてくるアルフレートは理解不能だった。金持ちの道楽に自分は後どれくらい付き合わねばならないのだろう。

 オリヴィアはうんざりしながら仕立屋に入る。

 店員達は魔女と軍人という取り合わせに興味深そうな顔をしながらも、アルフレートから両親に紹介するときに着せるドレスだと聞かされて顔を綻ばせた。

 祝い事が嬉しいというより、戦争がもうすぐ終わりそうだという実感を得られての表情に見えた。

「綺麗な赤毛ね。お嬢さんは十八? まあ孫と同い年だわ」

 仕立屋の主人の妻が店の奥でオリヴィアの寸法を測りながら、手と口をせわしなく動かす。

 オリヴィアはぼんやりと一体何着のドレスが家にあっただろうか思い出す。母あまり着飾らない人だったが、自分や妹にはいろいろ着せていた。

 思い出の詰まったドレスは国を出るときに父が全部売り払ってしまった。

 妹とお揃いで仕立ててもらった気に入りのドレスは隠し持っていたが、空腹にはたえられずにこちらに来てから売ってしまった。

 採寸が終わってオリヴィアが表に戻ると、布地やデザインも全部アルフレートが決めて小切手を切っているところだった。

「心配そうな顔するなよ。お前に一番似合うのを作ってもらうからな」

「別に何でもいいわよ」

 好きにさせておけば満足なのだろうとオリヴィアは投げやりだった。

「そうだな、お前なら何でも似合うだろうしな」

 アルフレートがそう言って笑うのにまあ、まあと老婦人が微笑ましそうにしていた。

 店を出るときの店主の態度は入ったときの倍以上は丁寧だった。おそらくそうとう支払ったに違いない。

「用はこれで終わり?」

 はやくあの術式の修正をしたいのだが、とオリヴィアはアルフレートを見上げる。

「もうちょっとぶらぶらしていこうぜ。せっかくだからな。そうだ、さっきの主人おまえのことどこの貴族のご令嬢ですかって聞いてきたぞ。誰が見ても分かるもんだな」

「何がよ。たんにあんたの名前聞いてそう勘違いしただけでしょ」

 アルフレートの求めるままに手を繋いで歩きながらオリヴィアはそう言う。

 貴族は貴族同士で結婚するのが道理なのだ。

「実際、育ちはいいだろ。食事の仕方が他の奴らと全然違うからな。ああいうのってなかなか変わらないもんだぞ。それで俺はおまえのことガシュムのそこそこいいところのお嬢さんでなんかの事情で密偵させられてるんじゃないかって疑ってたわけだ」

「……そこまでいい家じゃないわよ。母が裕福な商家の娘だったからよ」

「父親は?」

 オリヴィアは少し口ごもって魔術師、と答える。

「まだ密偵かって疑ってるの?」

 やたら身辺を探ってくるアルフレートに問い返す。

「そうじゃねえよ。結婚するんだからお前のこともっとちゃんと知っときたいだけだよ。こっち来たのって子供の時っていうのは確かか?」

「尋問になってるわよ。……父は学院の准教授だったけどちょっと頭がおかしくなって首になったわ。二年後の、あたしが九才のときに国を出たの。三年前に病死したわ」

 九割方の真実にアルフレートは少し驚いたように眉を上げる。

「学院の准教授って、すげえ魔術師だろ。なるほど、お前の才能は父親譲りなんだな」

 ガシュムの学院といえば魔術の研究、教育において大陸で最も古い歴史と最大の魔術師を抱える機関だ。准教授ともなれば中流貴族と同じ扱いである。

「そうね。だから母が出て行ったときも妹は連れて行かせても、あたしだけは手放さなかったわ」

 自分も母が一緒に隣町の祖父母の所へ行こうと言うのを拒んだ。

 ふたつ年下の妹は普段祖父母の元へ行くときと同じで、お気に入りのぬいぐるみを抱いて行ってきますと手を振っていた。

 自分もいってらっしゃいと言ったけれど、おかえりと返すことは二度とないかもしれないと思っていた。

 そしてその通りになった。

「母親と妹に会いたいとか思わないのか?」

「……思わないわ。だから裏切りもしないから。これで満足?」

 小馬鹿にするように肩をすくめてみせるとアルフレートは淡く笑った。

「駄目だな。お前のことまださっぱり掴めない」

 次に顔を覗き込まれて、オリヴィアは彼の夜明けの様な紺色の瞳を挑発するように見返す。

「あたしのことばっかり聞いてるけどあんたはどうなの? こんな素性も怪しい女と結婚したいなんて本気で思ってるわけじゃないでしょ」

「本気だぞ。最初に会ったときからずっと死ぬこと決めた人間の顔してるのが気になっててお前のこと眺めてた。それも疑った理由のひとつだな」

 隠しているものをいきなりつかみ取られてオリヴィアは表情を強張らせた。

 アルフレートはどこか勝ち誇った顔をして、後はは何も言わずにパン屋に歩き出す。中に入るとすぐに揚げて蜂蜜をかけたパンをふたつ買う。

 当然のようにひとつを渡されたオリヴィアは、甘ったるい匂いに露骨に嫌そうな顔をする。

「何なの?」

「俺の生きる楽しみそのいち。甘い物はいいぞ。食ってるだけで幸せになれる」

 ほら、とうながされてオリヴィアはひとくち囓る。甘い。ただそれだけの食べ物だ。

 子供の頃は蜂蜜をたっぷりとかけたパンケーキが好きだったいう事実が、自分でも信じられない。

「人助けで結婚するつもりならやめておいた方がいいわよ」

 ふたくちめは食べずに、いつのまにか三分の二ほど食べ終わっているアルフレートにパンを返す。

「俺がそんな聖人君子に見えるか?」

 自分の分を全部食べ終わってからアルフレートがオリヴィアの分も囓って答える。

「……そうね。聖人君子は部下を脅して抱くなんて真似しないわね」

「あれはお前も悪いんだぞ。冗談半分だったのに本当に来るし、動じてもいないからてっきり慣れてんのかと思ったらまさか初めてだったなんてよ」

 アルフレートがあっというまに全部食べて、手を汚さないための紙を道の脇のゴミ箱に捨てる。

 あのとき動じていなかったわけではなかった。態度には出さなかっただけで、どんな手荒なことをされるかさすがに恐かった。

 だが恐れていた乱暴なことはされなかったし、以降は最初よりことさら優しく本物の恋人にするように扱われている。

「冗談だったなら普通なら部屋来た時点で追い出しなさいよ。……責任とれとか言うつもりもないから」

 違反行為の黙認という十分な対価をもらっている。

 それ以外に欲しいものなんてない。

「指輪も、ドレスも菓子も喜ばないんだな。結局お前が欲しいのは魔術師の指の骨だけか」

 オリヴィアの胸の内を見透かしたように、アルフレートがつぶやいて苦笑する。

 なにも答えずに押し黙っていると、彼に繋いだ手を引かれた。

「戦争終わったらどうするんだ? もう魔術師の死体なんて転がってないぞ。まさか自分まで死体になるつもりじゃないよな」

 核心に迫られてオリヴィアはその手を振り解く。

 嫌になるほど勘のいい男だ。

「それが聞きたくてこんなとこまで連れ出したの? こんな無駄なことしないでいつもみたいに部屋で聞けばいいじゃない」

 向き合って言い返せば冷めた視線が降りてくる。

「オリヴィア、お前にとって必要なのはこういう無駄なことだ。お前は死にたいんじゃないんだ、ひとりが寂しいだけだろ」

「……分かったようなこと言わないで。言っておくけど、今ならあたし、あんたを焼き殺して逃げるぐらいのことは出来るわよ」

 挑発する言葉にもアルフレートは怯まずに踏み込んできてまたオリヴィアの手を握る。

「分かってないのはお前だよ」

 そう言って耳元に口を近づけてアルフレートが知ってるか、とささやく。

「時々、俺の手、握ったまま離さないで寝てるぞ。離そうとしたときに行くなって自分が言ったこと覚えてないだろ。おかげで水も飲めやしなかった」

 まったく覚えがなかった。だが嘘だと否定出来ないぐらいの心当たりはあった。

 夢の中で追い駆けていたのは父の背。

 パパ、行かないで。

 呼びかけてもいつも父は待ってはくれなくて、必死に追いかけてしがみついて。それでも手の届かないところに行ってしまった。

 目覚めたときにアルフレートがよく自分の手を握っていることがよくあったのは、そういうことだったのか。

「俺は、置いて行かないぞ。というより俺の方が置いてかれそうだから離さねえけどな」

 オリヴィアは唇を引き結んで顔を背ける。さっきよりずっとしっかりと握られた手は簡単にふりほどけそうもなかった。

 帰りの辻馬車の中でもアルフレートは隣に座って手を繋いだままだった。

「ドレス、出来るの楽しみだな」

 そう笑いかけるアルフレートの目は未来を向いていたが、オリヴィアはまだ過去の中で足踏みしていた。


***


 その翌日は久しぶりの出動になった。

 だが前線に魔術師はおらず、後方に控えているだけのようでオリヴィアは適当に魔術で炎を起こして敵部隊が潜む林を焼いてアルフレート達が待ち伏せする方へと陽動する。

 銃声が一斉に響く。

 その中に銃声と似た音を発しながら向かってくるものがあってオリヴィアは舌打ちする。

 向こうの後方にも力の強い魔術師がいる。

 銃声に紛れさせて魔力を込めた銀弾を撃っているらしかった。

 オリヴィアは炎を収めて魔力の流れを追い駆ける。そう遠くはないはずだ。アルフレート達のいる場所に近いことを突き止めると、オリヴィアは銅剣を地面に差した。

 呼吸を整えて意識を魔力だけに集中させる。

 そうすると五感が一帯に張られている糸に似た敵の魔力の痕跡を丁寧に捕らえていく。

「解けよ」

 低い声で命じると魔力の糸がたわんでもつれる。

 オリヴィアは自分の魔力を紛れさせ糸を張り直す。完全に捕らえられたことに気付いた敵の魔術師が魔力の痕跡を消そうとする。

 だがもはやその痕跡にはオリヴィアの魔力が浸食し、思う通りにはならない。

「行け」

 見えない油をしみこませた糸に火がつくようにして、細い炎が林の中を一気に駆けていく。

 これで敵の魔術師は逃げることも出きず、魔力の糸に捕らわれた五指を焼かれるだろう。

「思ったよりは出来るのね……」

 ぎりぎりで糸を何本か切り離された感覚に、敵の元へ向かっていたオリヴィアは眉根を寄せる。

 だが今ので相当食らわせられたはずだ。後は追い込めば強い魔力を持った骨が手に入れられる。

 焼け落ちた林の中を歩いていたオリヴィアはまた激しい銃声が聞こえてきて足を止める。

 向こうも待ち伏せしていたらしい。

「オリヴィアー!!」

 大声で名前を呼ばれて何事かと思うと、同じローブを羽織ったブルネットの髪の女が杖を振っていた。

 同じ魔術師兵のマチルダだ。一応は部下にあたるが、向こうは十も年上なのと大雑把な性格もあって敬語を使われた覚えがない。

「状況は」

「挟み撃ち状態! でもボルツ少尉が奮闘中で持ち直してる」

「応援は必要?」

 出来れば魔術師の方を追いたいのだが、アルフレートのことも気になった。

「少尉はなんとかいけそうって言ってた。けど最初の魔術攻撃で負傷者多くてちょっと厳しいようにも見える」

「見えるって、あんた本当に適当ね」

 呆れながらオリヴィアはどうするべきか迷う。

「だいたいあの馬鹿も適当よ。指揮官のくせにいけそうとか曖昧なこと言って」

 さすがに指揮官に倒れられた困るとオリヴィアはぶつくさ言いながら、アルフレート達の元へ向かうことにした。

 途中負傷した兵が木の陰に隠れているのを何人も見かける内に、オリヴィアの歩みは早くなっていく。

 胸がざわついて不安で鼓動が激しくなっていく。

 ざっと見たところおそらく隊の四分の一は動けない状況だ。

 残りの兵も無傷というわけにはいかないだろう。

「これでいけそうって無茶よ」

 言いながらひらけた場所に出ると血生臭が強くなっていく。

 オリヴィアは銃弾が飛んでくる方へ向けて剣を薙ぐ。

 そうすれば紅蓮の炎が地を割って敵小隊に向けて走っていく。

「さっすが曹長」

「マチルダ、向こう! 弾道逸らすぐらいは出来るでしょ!」

 後ろで暢気にしているマチルダを怒鳴りつけて、オリヴィアは体勢を立て直している自軍の中にアルフレートを見つける。

 彼がしっかり自分の足で立って部下達を鼓舞している姿に、胸のざわつきは消え失せ安堵を覚えた。

 オリヴィアが自軍を挟んでいる右手側の小隊を引き受け、アルフレート達は危なげなマチルダの助けを借りながらもう片方の小隊に踏み込んでいく。

 一度ひっくり返っていた形勢はすぐに元に戻り、敵が退却するのにそう時間はかからなかった。

「よくやってくれた。おかげで勝てた」

 戦闘が終わってすぐにアルフレートが駆け寄ってくる。無傷とは行かないらしく、切り傷や銃弾が掠めた後があちこちにみられる。

「おかげで勝てた、じゃないわよ。無理なら無理って言って。それと指揮官があんな適当なのに伝令任せないでよ。ああ、もう、また勝手に休んでる」

 唯一の部下であるマチルダが、早々に木にもたれてシガレットをふかし一服しているのを見てオリヴィアは額を抑える。

 三十近くであの緊張感のなさは信じられない。

「そうかっかするなよ。いつも真面目にくっついてられたらお前も例のあれ、集められないだろ。そういや向こうの魔術師は?」

「逃したけどしばらくまともに魔術は使えないはずよ」

「それなら助かった。銀の玉が四方八方から飛んできて爆発するからまいったぞ。あれまたやられるときついからな」

 術の威力と範囲の広さからいってそこそこ上級の使い手だろう。

 だが魔力の高さの割には術の構成が甘い。向こうは躍進するアルフレートの隊を撃滅して巻き返しを図ろうとしたものの、万一の損失を畏れて出し惜しみしたのだろう。

 しかしあの程度の実力とはいえ、これ以上魔力を保持した骨を集められないかもしれないと思うと惜しいことをした。

 そう思う一方でアルフレートがいつもとかわらず、目の前で笑っていることのほうが重要に思えた。

「どうした? さすがにこんな大勢の前じゃキスは出来ないぞ。……でも婚約したし別にいいか」

 なぜだろうとアルフレートの顔を見ていたオリヴィアは、顎を持ち上げられて彼の手を振り払う。

「ふざけてないで負傷者の確認とか他にすることあるでしょ。あんたも怪我してるんだから治療してもらいなさい。化膿したら大変でしょう」

 知らず内に自分の口からアルフレートを心配する言葉が出て、オリヴィアは不機嫌な顔になる。

 別に、どうだっていいはずだ、こんな男。

 ここで死んでくれたら自分の秘密を知る人間はいなくなるし、これ以上自分の心の奥に踏み込まれなくてすむ。

 そういう風に考えると、やけに指輪をしまっている軍服の胸ポケットの奥が軋んだ。

「心配するなよ。置いていかないって言っただろ。これぐらいで死ぬほどヤワじゃないしな。でも、まあ、お前がそこまで言うんならちゃんと治してくる」

 アルフレートは声を弾ませながら救護兵の元へと向かって行った。

 そのとき軽く頬を撫でられてオリヴィアは下唇を噛む。

 何かを期待してしまいそうになる自分が嫌だった。

 自分にあるのは父と共に抱いていた夢だけだ。他のものなんて必要はないし望まない。

 だから、こんなものもいらないから早く返してしまいたいとオリヴィアは胸ポケットにある指輪の存在をひどく重たく感じた。

 

***


 さらにそれから十日。

 国境付近にいたガシュムの兵は次第に退いていき、和平交渉が本格的に始まっていた。

 こうなればこちらの勝利で終戦は決まったも同然の状態で、兵達は緊張感なく兵舎でのんびりと過ごしている。

 オリヴィアは自室で袋に収めている魔術師の骨を睨んでいた。

 このままでは足らない。先日の戦闘で敵の魔術師を仕留められなかった穴は大きい。自分の心臓と魂を捧げても成功は難しいだろう。

 戦争は後半年続きもう少し多くの魔術師を出してくるだろうという見通しだったが、新兵器の投入もあってこちら側が有利になってしまった。

 アルフレートを始めに指揮官も有能だった。魔術師の数と力では圧倒的に劣っているはずのロンナがここまでやれるとは思わなかった。

 オリヴィアは別の袋を取り出す。そこに収めているのも魔術師の骨だ。他とまるで同じようなものだが父の遺骨だった。

「パパ……」

 骨に呼びかけていると不意にドアがノックされて、オリヴィアは袋を軍服のポケットに隠す。

 返事をすると特に何かの命令というわけでもなく、マチルダが訪ねてきただけだった。 軍務中以外はほとんど話したこともない彼女が訪ねてくるとはどういうことだろう。

 オリヴィアが不審がっている間に、マチルダは扉を開けるなりずかずかと部屋に入ってきた。

「ひとり部屋っていいわねえ。狭いけど自由! ってかんじ」

 そして彼女は勝手にベッドに座る。無遠慮な様子にオリヴィアは不愉快だと顔をしかめて何の用かと聞いた。

「いろいろ。あんたさ、ボルツ少尉と結婚するってほんと?」

 一瞬、アルフレートの愛人のひとりかと思ったが、マチルダの純粋に好奇心だけを宿した瞳を見る限りはそうではなさそうだ。

「誰から聞いたの?」

「本人。もう戦争終わるし出来るだけいい男捕まえとこっかなあと思って前にも何回か声かけたことある少尉に最後に一回ぐらいどうって声かけたら、婚約済みだって言われちゃってさあ。三十近くなって二十四の男捕まえるのは難しいわねえ」

 あっけらかんと笑うマチルダは軍服のポケットからシガレットを取り出して、吸っていいかと仕草で示す。オリヴィアがいいと答えると指先で火をつけた。

「……ただの断る口実だったんじゃない?」

 いまだにオリヴィアはアルフレートの求婚に懐疑的だった。

 確かにこの半年ずっと優しくしはしてくれたし、大事にもしてくれているかに思えるのだが、心からのものだと受け取っていいのか分からない。 

「けどさ、あんた少尉と寝てるんでしょ。実際のとこどうなのよ。戦争終わったらあたしらまた行き場なくなるんだよ。でもあたしみたいな大して戦力にならない魔術師はともかくあんたなら正式に雇ってもらえるか」

 志願兵は戦争が終われば軍から解雇される。いわば傭兵のようなものだ。魔術師は貴重とはいえ、たいした力もなく数も少ないので扱いづらいので、よっぽど力の強い者でなければ置いてもらえない。

「あたしも軍に残るようには言われてないわ」

「そうなんだ。でもしかたないわよねえ。魔術師なんて時代遅れなものは廃れていくのが運命ってもんよね。……ねえ、ね、え前から気になってたけどあんたクレイブン先生の娘だよね」

「……知ってるの?」

 オリヴィアは唐突に出された父の話題に表情を強張らせる。

「うん。講義受けてたわよ。先生追い駆けて国で出た……っていうのは嘘だけどあたしがここにいるのは先生が国出たって聞いたのがきっかけかな。なんとなく魔術って無意味かもしれないって思ってた頃にさ、あの大人しい先生が出来たんだからあたしにも出来るかなと思ってね。先生元気にしてる?」

「三年前に死んだわ」

「そっか。せっかくだから、会いに行けばよかったなあ」

 マチルダは本当に悲しげな顔をして肩を落とした。

 父の死を悼む人間を見たのは初めてだった。こちらに来てからも薄汚いアパートメントの部屋に籠もりっきりで、誰とも関わり合いがなかった。娘である自分とすらあんまり話さなくなっていた。

「……最後まで魔術の研究をしてたわ」

 自分が古書店の倉庫整理の仕事から帰ると、魔術書に顔を突っ伏せて父は死んでいた。

 少し前から体調が悪そうで食事もろくにとらなかったが、医者に診せる金もなければ外に出ることも嫌がっていた。

 無理をさせてでも診せればよかった。

 そんな後悔は胸をよぎる。

「あたしとは真逆だったんだ。魔術のために国を出たんだね、先生は」

 しみじみとつぶやいてマチルダは煙をふかす。

「だったらなんで魔術師として仕事してるの?」

「てっとりばやく稼げるからよ。それで結婚の話はどうなの?」

 話が最初に戻ってオリヴィアはため息混じりに求婚はされたと答える。

「いいじゃない。軍に残れないならさっさと結婚しちゃいなさいよ。迷う必要なんてないわよ。この国じゃ魔術師なんてろくに役に立たないんだから。ていうか大陸中で魔術が重用されるのはガシュムぐらいだしね。こっち来てからつくづく魔術に国がお金注ぐのは無駄って思ったわよ。鉄道がないとか本当にありえないわよ。あんただってそう思ったでしょ?」

 マチルダが言うように、この国にとって魔術というものの意義は思った以上に希薄だった。

 そもそもこの国出身の魔術師は少なく教育機関もないのだ。物珍しがられることも多く、また呪文ひとつで何でも出来る万能のものと思っている人間も少なくない。

「魔術が世界の理である以上は無下に出来ないわ」

「学院で習うわよね、それ。そういう精神論? ていうか思想? は抜きにして国益ってこと考えたら魔術師育てるより科学者育てた方がよっぽどいいに決まってるじゃない。魔術は魔力を持った限られた人間にしか使えないけど、科学者の作る物って誰だって使えるのよ。あたしさ、こっち来て初めて電話使ったとき実感したわ。シガレットに火をつけるのだってマッチでつける手間と魔術でつける手間って一緒ぐらいだし」

 それは自分もうっすらと感じている。事実魔術師が秘密裏に出国してもそれほど深く追わないのは、魔術に汎用性があまりないからだ。

 こちらへ来て初めて見た夜の街を照らすガス灯や、煙を吐き出しながら走る蒸気機関車、遠くの人間と話せる電話機。

 全部魔術で動いている物だと思った。しかし魔力など全く持たない人間が作り出したものだと知って唖然とした。

 そしてそれらは自分が産まれる前からあるものだと言うことを知って、ガシュムで培われた魔術絶対主義の思想は一瞬で打ち砕かれた。

 だが魔力を持って産まれた以上はその力を探求し、世界の理を解そうとすることは無意味な物には思えない。

 それにしたってマチルダはこんな話をするためにここに来たのか。

「で、本題は?」

 そんなはずはないとオリヴィアは少し語調をきつくして問う。

「ああ、そういう言い方先生そっくり。そんなに怒らないでよ。ちょっとさ、あんたに会いたいって人が来てるのよ。明日の朝、一番通りにあるカサブランカっていうコーヒーハウスに来て」

「……誰?」

 マチルダは困ったように首を傾げる。

「今、言っちゃっていいかな。あたし密偵ってわけじゃないけど、うっかり魔術探索で補足されちゃったのよね。それがね、ジョンストン教授だったわけ。さすがに教授相手じゃ逃げられないと思ったらあんたを探してるって言うの。どうしても会いたいんだって」

 ジョンストン教授は父の親友だった人だ。よく夫婦で家に遊びに来ていたことを覚えている。

 なぜ今頃になって教授がこんなところに来るのか。

「ま、会うだけ会ってあげてよ。人生の心残りだって言ってたから。じゃあね」

 マチルダはシガレットの火を消して立ち去る。おそらくその足で出奔する気だろう。オリヴィアはあえて止めはしなかった。

 もう戦争は終わる。彼女もたいした位置にいたわけでもないので、軍も消えたところで形だけの捜索を行うかどうかも怪しいところだ。

 それよりジョンストン教授だ。ガシュムが送り込んできたのなら会うのは躊躇われる。

 悩んだ末にその日の夜にオリヴィアはアルフレートの元に相談しに行った。

「教授っていうとまた厄介なの送り込んできたな」

 ひととおり事情を聞いたアルフレートが考え込む。

「でも変よ。ジョンストン教授をこんな終局で出して死なせでもしたら、学院にとって大損失になるわ」

 策としては破れかぶれにもほどがある。いくら教授クラスとはいえ魔術師ひとりでこの状況がひっくり返るとは到底思えない。

「教授、本当にただお前に会いたいだけじゃねえのか? すんごいお人好しな人とかでさ」

「……ないとは言えないけど」

 良くも悪くも純粋な魔術師だった記憶は残っている。

 最後までずっと自分たち家族を案じてくれていた人だった。

「会うだけ会ってみて、その後捕虜にでもするか。マチルダの奴はもう逃げたよな。っていうか逃がしたのか。以外と仲よかったんだな」

「別によくないわよ。捕まえる価値もないと思っただけ。それよりあんたの方が仲いいんじゃないの?」

 少しむくれた声でオリヴィアが言うと、アルフレートはきょとんとして後ろから抱きしめてきた。

「なんだ、妬いてるのか。んー、ああいう年上の女も悪くないけどお前が一番だぞ」

 アルフレートは心底楽しそうだった。

「……ならあたしのどこがどう一番か言ってみなさいよ」

「その減らず口。一生付き合っても飽きなそうだからなっと」

 オリヴィアは不意に体を離され正面を向けさせられて、アルフレートと向き合う形になる。彼は赤毛を愛おしげに指先で梳いて最後に髪に口づける。

「こんなに惚れ込むんだったら。もっとちゃんと手順踏んで口説くべきだったな」

 うつむいているアルフレートの口元には苦い笑みが浮かんでいた。そして彼は顔を上げてじっと見つめてくる。

「……別にどんな手段だって結果は変わらないわよ」

 向けられた真摯な瞳に気圧されながらオリヴィアは弱々しく言う。

「どっちにしたって、俺に落ちてたって事か?」

「自分の都合のいい方に解釈しないで」

 どんなにはねつけてもアルフレートはお構いなしに自分の全部を持って行こうとする。

 呆れるくらい強引で、自分勝手だ。

「そうか。でも、お前、前よりずっと人間らしい表情してるぞ」

 その代わりに頬を撫でる手つきは優しい。まるで硝子細工でも扱っているかのようだ。

 不快感を覚えないのはそのせいかもしれない。

「そもそも人間らしい表情って何?」

「そうだな。俺に文句言ってるところを鏡で見てみればいい。少なくとも明日にでも死にそうな顔はしてない」

 アルフレートはいつになく優しい笑顔を見せてから額に口づけを落としてくる。

「上に報告してくる。すぐ戻ってくるからここで待ってろ」

 アルフレートが部屋を出てから、オリヴィアは窓辺に立って硝子に映る自分の姿を見る。

 父が死んだ頃には鏡を見る余裕すらなかったので、違いは自分でもよく分からなかった。

 ただ少し、子供の頃の自分を思い出せる顔つきのような気がした。

   

***


 約束のコーヒーハウスは小さく閑散としていた。事前にアルフレートが話をつけていて店には彼と店主、オリヴィアしかいない。

 入れられたコーヒーには手をつけずに、オリヴィアは店員のふりをしてカウンターにいるアルフレートに目をやる。

 こんなうらぶれた店の店員にしては綺麗すぎる立ち姿に、育ちの良さがにじみ出ていて違和感を覚える。

 ひとのことを言えたものじゃないとオリヴィアは頬杖をついてため息をつく。

 少しして店に壮年の男が入ってくる。記憶にあるより少し髪が薄くなり、白いものが目立つようになっているがこちらに向けられた柔和な笑顔は昔のままだった。

「オリー! やっぱり君だったのか。久しぶりだね。こんなに綺麗になって……元気そうでよかったよ」

 喜色満面でジョンストン教授がオリヴィアの向かいに座る。同時に優雅な所作でアルフレートが暖かいコーヒーを出した。

「お久しぶりです。こんなところまで何のご用でしょうか」

「どうしても君たちのことが気になってね。アンナも最後まで君は大丈夫かと心配していたよ」

「……奥様はお亡くなりになったのですか?」

 ジョンストン教授はコーヒーを一口飲んで淡く微笑む。

「去年、風邪をこじらせてね。もとから体が弱かったから先に逝かれることはある程度は覚悟はしていたがおもったよりずっと早かったね」

「そうですか……」

 オリヴィアは小柄だったジョンストン教授の妻の姿を思い起こして声を沈ませる。

 彼女は母と昔から仲がよく、夫であるであるジョンストン教授の親友だった父と母を引き合わせたのは彼女だったそうだ。

 よく家にも遊びに来ていて母と姉妹のように仲良くおしゃべりをしていた。

 あの光景はもう見ることはないのだろうと思うと、胸が詰まった。

「君に会うのにマチルダ君には迷惑をかけてしまったが大丈夫かね」

「特に重大な問題としては扱われないでしょう」

 ジョンストン教授はほっとした顔で胸をなで下ろした。

「よかった。彼女は君の部下だときいて驚いたよ。マチルダ君は面白い子だろう。私の担当ではなかったが学生の頃はなにかと目立つ子だったよ。今はずいぶん落ち着いているね」

「……あれで落ち着いているんですか?」

 十年前に出会わなくてよかったとつくづく思いながら、オリヴィアが返答するとジョンストン教授は相好を崩した。

「君はマリーによく似ているけれど表情や仕草はジェフリーとよく似ているね。彼はどうしてる?」

「三年前に、病死しました」

 ジョンストン教授は目を見開いた後に傷ましげな顔をした。

「そうか。君も苦労したんだろうね。今でも後悔してるよ。どうして君を無理矢理にでもジェフリーから引き離してマリーのところに連れて行かなかったのか」

 父が学院を首になってからもジョンストン教授はよく家に訪ねてきていた。母が出て行った後も何度も来ては父を諫め、まともに食事をとれずに痩せこけた自分を一度家から連れ出そうとした。

 それでも父の元に残った。使用人のいなくなった広い家を綺麗にして、近くの店の倉庫整理で小銭を稼いで自分に出来ることはなんでもやった。

「……後悔はしていません。ガシュムから派遣されて来たのではないのですか?」

「違うよ。こっそり来たんだ。こちらの軍にひとり手練れの赤毛の魔女がいて、名前はオリヴィアだと聞いて君に違いないと思ってね。私から口利きしてあげるから国に戻る気はないかい? 君ならおそらくジェフリーよりも上にいけるはずだ」

 予想外の提案にオリヴィアは笑い声をもらす。

「無茶なことを言いますね。私が一体何人のガシュム人を殺したと思っているんですか。教授の生徒だって何人も亡くなっているでしょう」

 向こうから見れば自分は同胞を殺した敵だ。そんな人間がのうのうと学院で学び教鞭を執れる地位につけるはずがない。

 なにより学院で学びたいという気持ちはどこにもなかった。

 ジョンストン教授は少し黙り込んだ後にゆっくりと口を開く。

「そうだね。本当に戦争とは嫌なものだよ。魔術はこんな事のために使われるべきじゃない。……だからこそ君を本来の魔術師としての勤めを果たせるようにしてあげたいんだ。世界の理を探求し、そしてあらためて生命が世界と繋がっているものであると人が認識するのに魔術は必要だよ。方法は間違っていたが。ジェフリーのやろうとしたことはそういうことだった」

 オリヴィアはコーヒーに口をつける。やたら酸っぱくて苦い安物の味は冷めてことさら不味く感じた。

「召喚術はまだ可能です」

 そう零すとジョンストン教授が唖然とした顔をしていたあとに苦しげに顔を歪めた。

「それは夢想に過ぎないんだよ。異界の扉を開いて竜を召喚するなんて、現代の魔術師には不可能だ。だから学院は召喚術に打ち込むジェフリーを首にしたんだ。もう分かるだろう。ああ、やはりあの時、君がいればジェフリーは思い直してくれるかもしれないなどと考えるんじゃなかった」

 頭を抱え苦悩するジョンストン教授の姿は昔と同じだった。

 お母さんの所に行こう、魔術を学びたいのならおじさんの家から学院に通えばいいと父が書斎に籠もっている間に何度も手を差し伸べてきた。

 そんなことを繰り返して言われるたびに、パパを学校に戻してくれたらママもフローラも帰ってくるし、このうちから学校にパパと一緒に通えると駄々をこねた。

 そうすると出来ないんだよ、それは出来ないんだよと、ジョンストン教授は今のように頭を抱えていた。

 そして彼は父に幼い娘がこんなに君をことを思ってくれているのに、どうしてそうなんだ、と叱っていた。

「あなたの責任でもなければ父の責任でもありません」

 パパは悪くないと自分は何度彼に訴えただろうか。

「いや、私の責任であり彼の責任でもあるんだよ。オリー、戻っておいで。マリーも君のことを案じているよ。フローラだって君に会いたがっている」

「……ふたりとも、幸せそうですか?」

 出て行く少し前の母はよくあなたはあの子達の父親なのよ、と責め立てては父と揉めて泣いていた。

 しばらくは母の実家からの助けで生活をしていたが、いつまで経っても変わらない現状に愛想を尽かして出て行ってしまった。

 妹は使用人がいなくなり両親が揉めている現状は理解し切れていなかったが、ずっと不安そうに自分にくっついていた。

 母は出て行った後も手紙をくれていたのに、自分は返事を書くことをしなかった。

 返事を書くことに後ろめたいものを感じていた。

 父に対しても、母に対しても。

「ああ。マリーは貴族のとても優しいひとの後妻になったよ。君には義理の兄がいることになるな。フローラもその家で知り合ったひとと去年の春に結婚してもうすぐ子供も産まれるんだよ」

 あのぬいぐるみを抱えていた小さな妹が母親になるというのは、なんだか不思議な気がした。

 ふたりとも幸せにやっているのならそれでいいのだけれど、自分の夢見ていた物とは違った。

 自分の中で何かが脆く崩れるのを感じながら、オリヴィアはローブの下に隠している銅剣の柄を握る。

「教授、残念ながらあたしはそちらに戻る気はありません」

「オリー」

 哀願するようにジョンストン教授が愛称を呼ぶ。

「教授、捕虜になっていただきます。抵抗するならば容赦はしません」

 オリヴィアは立ち上がって、銅剣をつきつける。

「……君は、火の魔術が得意なんだね」

 切っ先を見つめながらジョンストン教授は穏やかに目を和ませた。

「ええ」

「やはりそうか。ジェフリーは……すまない。本当にすまない」

 ジョンストン教授は片手で顔を覆い、ついには嗚咽をもらし始めてオリヴィアは剣を下ろした。

 アルフレートが静かに近付いてきて、剣を持つ彼女の手を握った後に教授の肩を叩いた。

「大人しくしていれば手荒な真似はしませんので。それと、どうあっても彼女はそちらにお返し出来ません。俺がここで幸せにしますので」

 ジョンストン教授が糸に引かれるように顔を上げてアルフレートを見る。

「……それはよかった。どうか頼んだよ。私が言えた義理ではないがね」

 涙をぬぐって緩慢な仕草で立ち上がったジョンストン教授の背に、アルフレートが手を添える。

 迷惑そうに店主がもう営業していいですかね、と聞いてくるのにオリヴィアは返答しながら教授の背中を見る。

 彼の双肩は重荷がとれたように軽そうだった。

 ふとアルフレートが振り返って目が合う。

 オリヴィアは声には出さずに唇だけで彼にありがとう、と伝えた。


***


 ジョンストン教授を捕縛したという情報はガシュムへとその日の内には伝えられた。

 さすがに彼の魔力の高さと実績はさすがに知らぬふりを出来るものではなく、終戦へと向けての交渉は予定よりも早くに片がついた。

 その間わずか三日だった。

 マチルダについてはやはり出奔したようだが、追跡はしない方針に決まったそうだ。

 彼女にに関しては教授に大丈夫だと言ってしまったのでよかったとオリヴィアは思う。

 自分としてもあまり使えない部下ではあったものの、嫌いではなかったので穏便にすんでほっとした。

「お手柄だったな。前祝いだ」

 いつもと変わらずアルフレートに部屋に呼ばれ、オリヴィアはワインが入れられた安っぽい陶器のコップを渡される。

「……教授、どうしてる?」

 椅子はないのでベッドに腰掛けてアルフレートを見る。

「安ホテルよりよっぽど食事が美味くて待遇がいいって言ってたぞ。後は蒸気機関車とガス灯に興味津々だった。電話見せたら驚きそうだな」

 のんきな捕虜だとオリヴィアはかすかに口元を緩めて、コップに口をつけてすぐに顔をしかめた。

「何これ? 甘すぎるわよ」

 ただの葡萄の果汁を絞っただけのものと思うような甘さだが、呑んだ後に喉にちゃんと熱さが残る。

「俺のお気に入り。前話した貿易商やってる二番目の兄上が昨日送って来てくれた。珍しいんだぞ」

 アルフレートが机に置いてあるボトルを見せる。ラベルにはドルチェ、と書かれていた。

「珍しいのはこれが好みの人間がほとんどいないからあんまり作ってないんじゃないの?」

「当たり。兄上が面白いから仕入れてみたけど、全然売れなかったのをもらってそれからずっと俺がお得意様だ。お前やっぱり頭いいな。教授から聞いたとおりだ」

「ちょっと、余計なことまで訊いたじゃないわよね」

 聞かれて困ることはないのに、なんとなく子供の頃のことを知られるのは恥ずかしかった。

「俺から教えてくれって言ったんじゃないぞ。あの人が勝手に喋り始めたんだ。子供がいないから余計に気にかけてたんだな」

「いい人だったわ。すごく」

 ジョンストン教授は本当に自分と妹を可愛がってくれていた。誕生日や聖誕祭には贈り物を用意して、魔術の話もよくしてくれた。

 子供の頃は父や教授のように立派な魔術師になりたいと思っていた。もしあのまま父が狂うことがなければ今、自分がいるのは学院だっただろう。

 オリヴィアは遠い日々に思いを馳せながらワインをもう一口飲む。

 美味しいとは感じないのになぜか欲しくなる味だった。

「気に入ったか?」

 ついつい呑んでしまっているオリヴィアに、アルフレートが嬉しそうにしていた。

「甘ったるくて不味いわよ」

「でも呑んじまうだろ。そこが気に入ってるところだ。結構きついから飲み過ぎには気をつけないといけないけどな」

 確かにまだ半分ぐらいしか呑んでいないのに、酔いが回り始めている。アルフレートはすでに一杯飲み干して次を注いでいるのに平気そうだ。

「あんたに付き合って呑んでたらすぐに潰れそうだわ」

 オリヴィアはワインを口に運ぶのを止めてコップを膝の上に下ろす。

「そういえば一緒に呑んだのこれが初めてか。お前弱いのか?」

「普通じゃない? そんなに呑まないし人と呑んだことないからよく分からないわ」

 酒といえばそれほどきつくないワインを、ごくたまに食事のときに口にするぐらいであまり進んで呑むことはない。

 両親も食事の時に一杯のワインを呑むぐらいだった気がする。

「たぶん弱いぞ。もう顔が赤くなってる。でもまあ普段よりかわいげはあるからこれでもうちょっと愛想がよくなればいいんだけどな。教授は子供の頃のお前は礼儀正しくていつもにこにこしてて可愛かったっていってたけど……」

 じいっと顔を見つめてくるアルフレートの目は疑わしげだった。

「悪かったわね。可愛げなくて」

「見事にひねくれちまってるな。俺はそういうのも好きだけどな。それだけ苦労したんだろうって教授泣いてたぜ」

「……父のこと、何か話してた?」

 オリヴィアはコップの中を覗き込みながらぽつりと零す。

「いや、それは店で話してたことぐらいしかきいてない。お前は、竜を呼ぼうとしてたのか? 俺にはよくわかんねえ話だったけど」

 アルフレートが二杯目を飲み終えて首を傾げる。

「そうよ。あたしは父がなしえなかったことをしたかった」

 父の研究はいかに最小の魔力で召喚術を行うかにあった。最低限必要なものは生きた魔術師の心臓。血。

 ただそれらだけでは確実とはいかない。そのために十年以上の月日を費やして、より魔力の純度を高める術式を編んでいたものの志半ばで終わってしまった。翌年、ガシュムと戦争が始まった。

 父の研究を引き継いでいた自分はそこで足りない魔力を補うために志願した。

 これ以上ない機会だと思った。

 だが術式はほぼ完成したものの戦争が終わってしまって計画は頓挫している。

 しかし心のどこかで半ば諦めている自分がいた。母と妹が幸せだときいたあの瞬間、急にふっと意欲が薄れてしまっていた。

「首にした奴らを見返すためか?」

 問いかけておきながらアルフレートは違うな、と自分自身で否定してオリヴィアの隣に座った。

「そういうのじゃなさそうだな、お前は。必死にここまでついてきた父親がいなくなって何を追い駆けていいか分からなくなったんだ」

 違う。

 ずっと夢だったのだ。竜を呼ぶことは、自分と父の。

 声に出そうとしたそんな言葉は喉につかえて出て来なかった。

 オリヴィアはワインを一気に飲み干してサイドテーブルにコップを置く。

 一気に酔いが回って腰を軽く浮かした時、体がふらついてアルフレートに肩を引き寄せれられる。そしてそのまま膝の上に乗せられた。

「だから気をつけろって。お前危ないから絶対俺以外と呑むなよ」

「そんなの、あたしの勝手だわ」

 子供が駄々をこねるように言って、オリヴィアは立ち上がろうとするがアルフレートに抱き込まれて動けなかった。

「オリヴィア、もういいだろ。俺はどこにも行かない、ずっと側にいる。それで、よくないか?」

 酒混じりのせいかいつもより熱が籠もるアルフレートの言葉にいいのかもしれない、とオリヴィアは思う。

 だがまだ父の背中は眼裏にある。

 私と一緒に来なさい。

 国を出るときにそう言った父は自分を見ているようで、別の物を見ていた。母や妹と遠く離れて思い出の詰まった家を捨てることになることには躊躇ったが、ついていかなければ父はもう二度と帰ってきてくれない気がして恐かった。

 今思えばたぶん、あの時点で自分に選択肢はなかったはずだ。嫌だと言っても父は何が何でも自分を連れてくつもりだったはずだ。

 しかし父についていくのを決めたのは紛れもなく自分だった。

 これ以上誰かを愛するのは恐い。

 どれだけ必死に愛して、尽くしても振り向いてはくれなかったときの絶望を二度と味わいたくはない。

 ぐるぐると考えるが酔いが回ってまともに思考は働かない。

「……もう、あたしの欲しい物なんてないし、好きにして」

 オリヴィアは投げやりにつぶやいて、胸ポケットに入れていた指輪を取り出してアルフレートに渡す。

 研究を諦めてしまったら、この先何のために生きていいかわからない。

 アルフレートが欲しいというのなら、もう自分の残りの人生を彼に全部あげてしまってもいい。

 流されるように全部受け入れれば楽だろうから。

 例え苦しみだろうと。

 彼は左手を取って薬指に嵌めてそこに口づける。

「それなら遠慮なく、好きにさせてもらうからな」

 そのまま唇を重ねられる。

 酒が残っているせいか、いつもより甘ったるい味が口の中に広がる。

 アルフレートがもどかしいぐらいにゆっくりと服のボタンを外しながら露わになった箇所に唇を押し当てていく。

 オリヴィアはその間、天井を見上げなかった。

 愛していると何度も囁きかけてくる声に耳を傾けて、泣きたくなった。

 期待はしたくない。

 それなのに、その言葉を信じたくて仕方ない。

「……なあ、住むならどういうところがいい?」

 オイルランプの火も消え微睡んでいると、髪を撫でていたアルフレートが問いかけてくる。

「静かなところがいいわ。騒がしいのはあんたひとりで十分だもの。……出来るだけ小さな家がいい。誰もいない場所が多いのはいや」

 そんなことを言いながらオリヴィアはゆっくりと眠りに落ちていった。

 

***


 ワインの入ったコップを片手に、アルフレートは傍らで眠っているオリヴィアの横顔を見つめながらシーツの上に投げ出されている手を握る。

 彼女は応えるように握り返してくる。

「寝てるときだけは素直だよな」

 普段は憎まれ口ばかり叩いている唇からは、穏やかな寝息だけがこぼれ落ちていた。月明かりしかない中でも伏せた睫の長さも、すっと通ったの鼻梁も詳細に思い出せる。

 アルフレートはコップをサイドテーブルにオリヴィアが使っていた物と並べて置き、赤毛を指に絡める。

 この瞬間をそれなりに幸福に感じるが、まだオリヴィアがこうして必死に手を握ってくるのはまだ信用してもらっていない証でもある。

 まだ彼女の抱えてきた不安は払拭されていない。

 最初に行かないで、と言われたときにはよくあるベッドの上での睦言かと思った。

 だがオリヴィアがそんなことを言い出すのは不自然で、顔を覗き見ると眠っていた。驚いて、無意識のうちに自分を求めてきているのかと考え思わず嬉しくなった。

 だが彼女はその後にパパ、と呼んでいた。

 がっかりしながらも。あまりにも無垢なその様子がどうしようもなく愛おしく思えた。

 元からオリヴィアのことは様々な意味で気になっていたし、始まりはあんなではあったもののほとんど付き合っているのと同じ感覚でいた。

 あの瞬間から、淡い愛情は確かに深まっていった。

 アルフレートは酒が入っているせいか深く眠り込んでいるオリヴィアの頬を撫でる。

 この頃は入隊してきた時にはなかった、感情を読み取れる表情もするようになってきた。

 笑顔も次第に増えて来ているのに、オリヴィア自身は気付いてはいないだろう。

 ひとつひとつの変化はささやかだが確かな幸せを感じる。

「ずっとここにいるからな。大丈夫だ」

 こめかみにくちづけて指を解こうとしたが、やはりオリヴィアはしっかりと握り返してきた。

 アルフレートはオリヴィアの指にある指輪に目を留めて、時間の猶予はたっぷりとあると焦る気持ちを宥める。

 今こうしてちゃんと捕まえていればいつか手を離しても安心してくれるはずだ。

 そう信じてアルフレートはオリヴィアの寝顔を見ながら、甘く熱いワインをもう一口だけ呑んだ。

 

***


 この頃オリヴィアは父の残した研究資料を読むことはなく、ほとんど毎日のようにアルフレートの部屋に入り浸っていた。

 アルフレートはよく喋った。実家のこと、結婚式のこと、新しい家のこと。

 オリヴィアは聞くばかりで自分のことは話さなかった。

 彼も昔のことはあまり深く訊いてこなかった。むしろすっぱりと過去を切り離して自分に前だけを見させようとしていた。

「髪伸びたな。前髪だけでも後で整えるか? 後ろはもうちょっと長くてもいいかもな」

 アルフレートがオリヴィアの目にかかりそうなぐらい伸びた前髪をいじる。

 その動作は母がしてくれていたものに似ていた。

 幸せな未来は思い描けない代わりに昔の幸せだった頃の事はよく思い出す。

 それは心の奥底で幸せなんて長続きはしないと、自分自身が警告しているかのようだった。

「前は自分で切るから、後ろ切って」

「俺、不器用だぞ。魔法でそういうのぱぱっと出来ないのか?」

「出来ないことはないけど、自分で切った方が簡単よ。後ろはちょっと適当にやってもそう変なことにはならないでしょ」

 机に鏡を置いて鋏をふたつ用意し、アルフレートに手伝ってもらって髪を切る。

 オリヴィアは前髪をさくさくと切り終わって、鏡越しにアルフレートが緊張した面持ちで髪を切っているのを見て口元を綻ばす。

「本当に不器用ね」

「言っただろ。動くなよ。……これぐらいでいいか?」

 アルフレートが示す長さは指定したとおり、背の半ばより上でちょうどいいぐらいだった。切った髪は呪物になるのでまとめて袋に入れておく。

 だがこれから魔術師として生きていくかどうかもよく分からない自分にとっては、無意味な行動に思えた。

「まだ、骨は持ってるのか? 埋葬するなら故郷に返してやったほうがいいだろうから教授に頼んでおくぞ」

 髪の毛を入れた袋をしまうオリヴィアを見ながらアルフレートが聞く。

「……自分で頼むわ」

 鏡越しに見えるアルフレートの顔はまだ物言いたげだった。しかし彼は何も言わずに、オリヴィアの首に腕を回してそのままの姿勢で抱きしめる。

「明日、街に行くか。何か欲しい物とか見たい物とかあるか?」

「ないわ。用があるならひとりで行ってきて」

 オリヴィアが素っ気なく答えると、アルフレートは彼女の頭の上に顎を置いてため息をつく。

「それじゃ駄目だ。ひとりじゃつまんないだろ。お前の好きなもの、探そうか。欲しいものがあったら買ってやるから」

 アルフレートの言葉に心惹かれるものはなく、あまり買い物には行く気になれなかった。

 特別欲しい物なんてやっぱりないと考えている内に、アルフレートが身を離してすぐ側にあったぬくもりが遠ざかる。

 それを追い駆けるように顔を上げてしまいオリヴィア唇を引き結んだ。

「オリヴィア?」

 完全に沈黙してしまったオリヴィアの様子にアルフレートが小首をかしげる。

「……本当に、絶対に、あたしの側にいてくれるの?」

 口をついて出てきた言葉にオリヴィアは自分自身で驚いた。

 こんな事を訊くつもりはまるでなかった。

「大丈夫だ。なにがあっても俺は絶対にお前の側にいる。だからあれは手放しちまえ。お前はもうなにも追い駆けなくていいんだ」

 言い含められてオリヴィアはあいまいにうなずく。

 だがなかなか踏ん切りがつかないうちに、ジョンストン教授の身柄の引き渡しの日取りも決まった。

 アルフレートと相談して出発の日に最後の挨拶の時に一緒に渡しに行くことになった。

「悪い、オリヴィア、ちょっと実家に呼ばれたから帰ってくる。教授の出発までには帰って来れないかもしれないけど、ひとりで大丈夫か?」

 だが予定の日の二日前になって、アルフレートは見送りには一緒にいける見込みが薄くなった。

「子供じゃないんだから出来るわよ」

「そうだな。ついでに新居もいくつか目処つけとくから楽しみにしとけよ。じゃあ、行ってくる」

 そして荷造りもせず着の身着のままでアルフレートは慌ただしく帰って行った。

 いってらしゃいという言葉は呑み込んだ。

 言ってしまうと永遠の別れになってしまうような気がした。

 しかし、同じ事だった。翌日にはアルフレートが中央で一気に少佐まで昇進し、貴族院でも有力な位置にいるネルソン伯爵令嬢との結婚が決まったことが司令部内で話題になっていた。

「君の今回の戦争における功績はすばらしいものだった。よって准士官に任命されることが決まったよ。もし退官するつもりなら報奨金を出す。どちらか選びなさい」

 かと思えば上層部に呼び出されて、急な昇格と報償としては多すぎる破格の金額を告げられた。

(手切れ金か)

 オリヴィアは退官することを選んだ。

 自分とアルフレートの関係は特に隠し立てているものでもなかったので、それとなく上にも知られていたらしい。

 対応としてはずいぶん早急だったが悪い物ではない。魔術師なので下手にあしらったら呪われると思ったのかもしれない。

 出された報奨金は十年は働かずにすむほどの大金だ。両家とも資産は腐るほどあるからこれぐらいは安い物かもしれないが。

 明日にでも出て行くために荷物をまとめる。私物は元から少なく一時間とかからなかった。

 外した指輪はどうしようかと考える。こちらには戻ってこないだろうから置いていくわけにもいかず、かといって託せる相手もいないので結局ローブの内ポケットにしまった。

 こんなことが起こるということぐらい予想していたのになぜだろう。

 痛くて、苦しい。

 オリヴィアは必死に嗚咽をかみ殺し、涙をぬぐって骨の入ったふたつの袋をとりだし、父の遺骨に指先で触れる。

 まだそこには魔力が凝っているのが分かる。

 召喚術を行うにはまだ魔力が足らない。しかし、とオリヴィアは父の遺骨を握りしめる。

 その後荷物を解いて父の残した研究資料を取り出す。父の書いたものの他に、自分で書き加えた構文や修正案などがびっしり書き込まれている。

 ひとつひとつをじっくりと時間をかけて見直していく。

 父の術式はほぼ完璧だ。書き加えた自分のものも、足らないところを埋め、無駄な魔力の供給をしないように出来ている。

(足りない魔力はジョンストン教授を使えばいい)

 これならばやれるはずだ。

 オリヴィアは荷物の中に資料を戻してすぐに兵舎を出たのだった。 


***


「あれ、オリヴィア! やっほー」

 ガシュムとの国境近くの街道の入り口にある、安ホテルのこじんまりしているロビーであまりにも明るすぎる声にオリヴィアは眉をひそめた。

「脱走兵が何してるの?」

 シガレットをふかしながら薄汚れたソファーに座っているマチルダは、肩や胸元を露出したドレスを着て娼婦と見間違える格好だった。

 だが年の割には若く見える彼女にはよく似合っていて不思議と下品さは感じない。

「コーヒーハウスで地下鉄の建築について熱く語り合った人と意気投合してこれから鉄道で国を回ってくる予定。せっかくだから端っこの駅から出発しようってことになったのよ」

「……そういうことを聞いてるんじゃないんだけど」

「あ、軍規違反についてはどうせあたしなんて追っかけてないでしょ。そうだ、教授どうなった?」

 捕虜になって後明日にはガシュムへと帰されることを話すと、マチルダは大口を開けて笑った。

「さすがジョンストン教授。人がよすぎるわ。教授の講義は一回ぐらい受けてみたかったわね。帰ったら学院長に怒られるんだろうなあ」

「怒られる程度じゃすまないわよ。しばらくは謹慎命令と減給でしょ」

「やっぱりそれぐらいはくらっちゃうか。けどさ、人望あるから生徒から減刑の嘆願書ぐらい出るわよね」

 マチルダが学生時代のことを語るのを聞きながら、オリヴィアの胸が罪悪感に痛んだ。

「そういえばあんたこそ何やってるのよこんな所で」

 マチルダがオリヴィアの荷物を見ながら不思議そうな顔をした。

「退官したのよ」

「結局結婚するんだ。よかったじゃん。おめでとう」

 まるで自分のことのように喜ぶマチルダの隣に座ったオリヴィアは重々しく口を開く。

「伯爵令嬢と結婚するのよ。もう中央に戻ったわ。報奨金もたくさんもらったし、ちょうどいいからあんたにあげるわ。教授を捕まえられたのはあんたのおかげだし」

 報償のほとんどはは小切手だが、それでもずっしりと重い財布を無造作にマチルダに渡す。彼女は受け取って中身を確認した後にオリヴィアに戻した。

 彼女の顔は見た事もないほど険しくなっていた。

「あのねえ、一度男に振られたぐらいで投げやりになるもんじゃないわよ。あんたまだ若いし美人なんだからいくらでも先があるわよ。見てみなさい、あたしを。こんなに図太く逞しく生きてるわよ」

 果たしてそれは胸を張って言えることだろうか。

 オリヴィアはこれ以上何も言う気力もなく、ため息だけ落とす。

「……本気だったのはあんたの方だったんだね」

 背中を撫でられながらオリヴィアは分からないと答える。ただどうしようもなく悲しく苦しいのは事実だった。

「一発ぐらい殴ってやった?」

 乱暴なことを言いながらもマチルダの口調は柔らかかった。

「先に中央に帰って、後から上に言われたから会ってないわ。でもそれでよかったわ」

 たぶん本人に言われていたなら惨めに泣いて怒鳴りつけてしまいそうで嫌だ。

「なにそれ。けじめぐらい自分でつけれないなんて本当にろくでもないじゃない。さっさとそんなの忘れちゃいなさいよ。それで向こうが後悔するぐらいいい女になってやりなさい……じゃあ、あたしもう行くわね。縁があったらまた会おう!」

 マチルダはロビーに現れた、丸眼鏡の神経質そうな青年の元へと駆け寄っていく。不思議な取り合わせだが彼女は実に楽しげだった。

 ぼんやりとそれを見送りながら、オリヴィアは自分がとっている部屋へと向かう。

 自分には到底マチルダのような生き方は出来ないだろう。

 オリヴィアは父の遺骨と銅剣を抱いて寝台に潜り込む。

(明日、あたしはおじさまを殺すんだわ)

 戻らない過去の中と変わらずジョンストン教授を思い出すと、戦場では覚えなかった躊躇いと怖れに体が震えた。

 だが、せめて父の夢だけでも叶えたい。

 ずっとそうしたかったはずだ。そのためにここまでやってきたのだ。

(なんのために?)

 自身に問いかけて、オリヴィアは首を横に振る。

(これはパパだけの夢じゃない。あたしの、あたし自身の望みなのよ)

 自分に言い聞かせて幸せだった頃の思い出も、アルフレートのことも胸の底へ押し込めて蓋をする。

 眠れないまま夜が明けて、オリヴィアはすぐにホテルを出てひとり街道を歩く。

 一歩ずつ進むほどに空の端に残る夜は遠ざかり明るい朝が近付いてくる。

(あたしはこれから夢を叶えるの)

 だがオリヴィアはもっと暗い闇の底へと歩き出していた。


***

 

 ガシュムとの国境近くの街道は森を切り開いて作られた道なので、身を隠すのは容易い。あとはじっとジョンストン教授を乗せた馬車が来るのを待つだけだ。

 オリヴィアは気に持たれている間も父の遺骨が入った袋を持ち、頭の中で何度も召喚術の詠唱をそらんじる。

 生きた魔術師、それも教授クラスの心臓となれば今持っている骨の全てあわせたものの倍の魔力を得られる。

 オリヴィアは激しく鼓動する自分の心臓の上に手を置く。

 そして自分の心臓と魂。

 全てを犠牲にすればこの空に竜を呼ぶことが出来る。

 薄い雲のかかる水色の空を見上げているうちに、馬車が来る音がする。オリヴィアは銅剣を持って街道の中央へと向かった。

 そして地面に剣を突き立ててじっと待つ。

 躊躇うな。もうこの方法しかない。いまこそ自分と父の夢を叶えるのだ。

 何度目かの自身への叱咤を繰り返す内に、遠くに見える馬車が姿を大きくしていく。やがてそれは目の前で止まった。

「オリー、見送りに来てくれたのかい?」

 馬車から降りてきたジョンストン教授が嬉しそうに顔を綻ばせる。

 この人は変わらない。自分が幸せだった頃からずっとこうやって、いつも優しく声をかけてくれる。

「最後に君の顔を見ておきたかったからよかったよ。でもどうしてこんなところで」

 何も疑っていない様子にオリヴィアは銅剣の柄を握りしめる力を緩めて、ぎこちない笑顔を作る。

「これを渡すのを迷って……」

 そして戦死した魔術師の骨が入った袋を差し出す。なんだろうと袋の中を確認したジョンストン教授の顔が強張った。

「君が戦場にいたのはこのためだったのか」

「……はい。そうです。こちらで埋葬しようと思ったのですが故郷のほうがいいでしょう」

 これ以上教授の顔を見ていることが出来なくなってオリヴィアはうつむく。

「思いとどまってくれてよかったよ」

 そう言ってジョンストン教授は優しく抱きしめてくれた。それは幼い頃にしてくれたものと同じだった。

 子供の頃は父もこうして抱きしめて、愛していると言ってくれたことを思いだしてふと涙が一筋零れた。

「もうジェフリーのことは忘れて幸せになりなさい。……これ言うべきかどうか迷ったのだがね、彼が君を手放さなかったのは」

 オリヴィアはジョンストン教授の言葉を遮るようにその胸を押す。

「知っています。あたしが火に属する強い魔力を持っていたからです。父の理論の実証に不可欠なものだったから」

 そうして、父を狂わせたのもそのせいだ。

 竜は火の属性を持つ。召喚を行うには同じ属性を持つ強い魔力が必要になるが、父は土の属性だった。

 実験に必要な強い火の属性を持つ魔術師を用意するのが難しい以上、父の研究はそこで終わりだっただろう。

 しかし家の奥から自分はこの銅剣を引っ張り出してきてしまった。

 火は鍛冶と繋がり、古代に魔力がまだ世界に濃く満ちていた頃に作られた剣は強い火の魔力の媒体となる。

 銅剣を指先にしっくりとくると思えるほどの魔力を持っていることを、自分は父に知らしめてしまった。

 それから父は竜の召喚の研究に没頭していった。

 学院を首になり貯蓄が底をつき、母が出て行ってもずっと書斎にこもって出て来なくなった。そしてジョンストン教授が確信を持つ前に、大事な魔力源である自分を連れて国を出たのだ。

 もうそのとき父にとって自分は娘ではなくただの実験の道具にすぎなかった。

「オリー、君は他でもなく自分自身に責任を感じていたのか? だからジェフリーから離れなかったのか」

「母と妹にあたしは幸せだと伝えて下さい。そしてここからふたりの幸せを祈っていると。そうだ、昨日マチルダに会いました。すごく元気そうだったから安心して下さい。おじさま、さようなら。ありがとうございました。それから、ごめんなさい」

 オリヴィアはジョンストン教授がなにか言う前にその場から立ち去り、森の奥へと分け入っていく。

 覆い茂った葉に遮られて陽の差さない森の中を当てもなく歩いていくと急に視界が眩しくなる。

 森が途切れた場所には草原が広がっていた。

 オリヴィアはそこで足を止めて銅剣を投げ捨ててそこに寝転がる。視界いっぱいに空が広がっている。

 近いようでとても遠い空。

 風が吹いてざあっと草が鳴る。流れる雲は竜の翼に見えた。

 父の遺骨が入った袋を胸に当ててオリヴィアは瞳を閉じる。

「パパ、あたし出来なかった。ごめん」

 ぼろぼろと涙が溢れてとまらなくなる。

 戦場でならまだ出来たかもしれない。だが、あんなにも穏やかな顔を見せられては無理だった。

 そうまでして竜を呼ぶ意味も見いだせくなった。

 父は死んでしまったし、母と妹は自分と父がいなくたって幸せにやっている。

 そうだ。アルフレートが言った通り本当は竜を呼びたいんじゃない。自分が壊してしまった平穏な日常を自分自身で取り戻したかったのだ。

 側にいればいつか父は思い出してくれると思っていた。届かない夢を追いながらも幸せだったあの日々を。

 そして気付いて欲しかった。

 父にとって本当に必要なのは娘としての自分や母や、妹だということを。

「パパ……あたしひとりぼっちよ。もう追い駆けるのはいやなのにどうしたらいい?」

 ローブの内ポケットにはまだアルフレートからもらった指輪がある。

 オリヴィアは指輪にそっと触れて自分で指に嵌める。

 アルフレートに会いたい。

 くだらないことを言い合って、時々体を重ねて、朝、暖かいぬくもりが掌を包んでいることに幸せを感じていた。

 だがそれを認めたくはなかった。いつか終わってしまう関係だと、自分に言い聞かせて夢など見ないようにしていた。

 けれど言い聞かせるたびに想いは強くなっていく一方だった。

 もうこの想いの行き場はどこにもない。自分はいつも手の届かないものばかり追い駆けている。

 オリヴィアはふらりと立ち上がり、足下に転がる銅剣を拾い上げる。

「パパの所にもう行っていいわよね。そうよね、そもそもそのつもりだったんだもの」

 これ以上は前には進めない。残ったわずかな父の断片と一緒に灰になって空へと飛び立ってしまおう。

 銅剣の柄を握って目を閉じるとアルフレートが名前を呼ぶ声が聞こえた。

 幻聴かと思ったが次第に声は大きくなり、オリヴィアは目を開いて呼ばれる方へと顔を向ける。

「アルフレート……」

 呆然と名前を呼ぶと森から出てきたアルフレートが駆け寄ってきた。

「お前、またひっどい顔してるな。俺がいなくてそんなに寂しかったか?」

 涙で濡れた頬をぬぐって彼は苦笑する。

「どうしてここにいるの?」

「そりゃ、大事な物を取りに来たんだよ。ドレスはもう出来てるらしいから一緒に行くか。その前に顔洗わないとな」

 アルフレートがオリヴィアの手を取って歩き出す。

「質問の答になってないわよ。ネルソン伯爵の娘と結婚するんじゃないの?」

「それはなし。勝手に向こうが決めて勝手に根回ししてお前に手切れ金渡したんだよ。うちの父親もすっかりそこの娘と俺がいい仲だって騙されてて面倒なことになったぞ。まあ、父上はそういうだまし討ちみたいなこと嫌いだから、誤解が解けた後は凄い怒ってたぜ。あれはもうネルソン家も終わりだな」

 恐い、恐い、とアルフレートが茶化すようにつぶやいた後に立ち止まる。

「で、お前こそこんなとこで何やってんだ?」

 オリヴィアは真っ直ぐに見つめられて視線をそらした。

「答えたくないならいいけどな。見つけられてよかった」

 力強く抱きしめられて、オリヴィアはおそるおそるその背に手を伸ばしてしがみつく。

 アルフレートの心臓の鼓動が大きく聞こえてきて泣きたいほど幸せを感じた。

「……どうしてここが分かったの?」

「愛の直感。だったら格好がつくんだけどなあ。駅のホームで最低野郎って叫ばれたんだよ。誰かと思ったらマチルダで、魔法でお前のこと探してもらった……不安にさせて悪かった」

 アルフレートの最後の言葉が胸に刺さる。

 絶対に側にいてくれると彼は約束してくれていた。そして今こうしてちゃんと自分を抱きしめてくれている。

「信じ切れなかったあたしが駄目だったのよ。ごめん。好きだから、信じてまた置いて行かれるのが嫌だったの」

 ゆっくりと体が引きはがされて潤んだ目でオリヴィアはアルフレートを見上げる。

 彼は今までで一番嬉しそうな顔をしていた。

「やっと、俺のこと好きだって言ってくれたな」

 額を合わせてきたアルフレートのきらきらとした瞳が目の前にあってうん、とオリヴィアは子供のようにうなずく。

「好きよ、アルフレート。愛してる」

 顔を上げるとアルフレートの紺色の瞳は優しく細められていて、オリヴィアは背伸びをする。

 軽く重ねただけの口づけは今までで一番甘く感じた。

  

***


 オリヴィアはクローゼットの整理をしながら翡翠色のドレスに目を細める。

 あれから半年。

 首都の郊外にある家で始めた新婚生活は、時々喧嘩もするもののおおむね順調だ。

 さすがにこんな身分も何もない自分を、喜んで迎えてくれないと思ったアルフレートの家族もあっさりと受け入れてくれた。

 アルフレートのあの騒々しく適当なところはどうやら血らしいと、婚約祝いの席で実感させられた。

 幸せな思い出のひとつに浸っていると、香ばしすぎる匂いが漂ってきてオリヴィアは慌てて台所に向かいオーブンを開ける。

 初めて焼いたアップルパイは少々焦げているが問題ないだろう。

 料理は魔術と似ていてのめり込むと楽しいものだ。

 ひときれ食べてみる、味もそう悪くはないけれどシナモンをきかせすぎたかもしれない。などと思っていると玄関のベルを鳴らす音が聞こえた。

 表には宅配屋がいて花束と荷物を抱えて立っていた。受け取って添えられていたカードに思わずオリヴィアは思わず吹き出した。

 

『おめでとう。お幸せに。 愛の配達人マチルダより』


 そしてもうひとつ封筒が添えられていた。中を開けるとそこには記憶よりも年をとった母と、彼女によく似た少女が赤子を抱えている写真だった。

 手紙のたぐいはなかったが、写真の明るい表情だけで十分だった。

 もうひとつの荷物はアルフレートの二番目の兄からで、例のワインだった。

 オリヴィアは花を花瓶にさして夕食の支度をしながらアルフレートの帰りを待つ。ときどきふっとひとりでいることに怖さを感じることもあるが、この頃はそういうのも薄らいできた。

「ただいま」

 必ず彼は帰ってきてそう言ってくれるから。

「おかえり」

 オリヴィアはようやく言い慣れた言葉を口にしてアルフレートを笑顔で迎えた。

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ドルチェ 天海りく @kari

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