老眼鏡を使っても確実に見えない距離に、彼女がいる
「コホンッ、ええっと店長さん。あー実はさっき貴方が来る前の事なんですけど、この女! 蝿のようなマスクをかぶったヘンな男と一緒になってこの店でサバゲーやってました!」
彼女に人差し指を突き刺すように向け勝ち誇る。
フ、ついに言ってやった。実に気分がいい。まさかとは思うが店長のやつ「ぜひ明日から来てほしい」なんて言ってくるんじゃないだろうな。ま、それ相当の活躍を面接の段階でしてみせたのだ。それくらいの計らいは当然かもしれない。なんなら時給を上げてくれてもいい……ん? おっとこんな所にお茶が。そっか、こいつが淹れてくれたんだっけ。フン、こいつのことだ、すました顔して俺の分だけ雑巾の絞り汁とか入れてそうだがまあいい。スッキリしたことだしコレ飲んで枯れた喉でも潤すとするか。
喉の渇きを潤していると店長と目が合った。彼はなぜかサッと目を逸らし、何かを言い淀むように口をもごもごとさせ、
「あの、その蝿のようなマスクをかぶったヘンな男とやらは……僕のことだね」
「ブウウウウウウウウウウウウウッ!」
店長に向かって茶を盛大に吐いた。上半身濡れねずみの店長があっという間に出来上がる。
「オー、マイ、ガーッ!! てんちょー、 Are you okay?」
彼女が取り乱しながら、おしぼりで店長の顔を拭き取る。
「そんな、あの蝿男が、店長だったなんて……」
とはいうものの、心のどこかでそんな気はしていた。が、まさか店の主がバイトと一緒になってサバゲーやるとか一体誰が想像できるというのだ。あまりのショックの大きさに詫びる気すら起きない。
店長は、最後の仕上げに自分で顔を拭き、眼鏡をかけ直しながらこう言ってきた。
「七夏くんの趣味、というかそんな感じなんだけど、やり始めたら意外とハマッてねえ。お客さんがいない時を見計らってたまにするんだよ。まさに鬼のいぬ間に洗濯だね、姫騎士くんも今度やってみると……あれ聞いてる? 姫騎士くん? 姫騎士みかど君――……」
まるでバラードソングの終わりのように、彼らとの距離が少しずつフェードアウトしていく。
店長みずからそんな事をするなんて誰が想像できよう。店名に赤い糸のような運命を感じてはいたが、どうやらそれは気のせいであったようだ。
人生バラ色化計画が音もなく崩れ落ちていく。
決めた。帰ろう。
だってしょうがない、悪いのは全部こいつらなのだ。
姦しく傲岸不遜で暴言を吐きまくる生意気チビに、従業員の悪行をただ見守るだけの鈍感でニヤケ面の店長。こんなやつらがのさばっている所で、俺の探し求めているものなんて絶対に見つかりっこない。ここにいる一秒でさえ無駄だ。
すぐさま立ち去ろうと威勢よく立ち上がり、右向け右をした。ところが、テーブルの角に足をぶつけてしまい、衝撃で傾いた湯飲みが床に落下した。すかさず手を伸ばしたが遅かった。床に茶と陶器の破片がばらまかれる音が聞こえた。
しまった。最後の最後にやらかしてしまった。
俺はまず彼女の罵倒を覚悟した。が、なぜか一向に飛び出さなかった。それどころか辺りはまるで停止ボタンでも押したかのような静寂に包まれている。それに加えてひとつだけ不思議なことがあった。
ごく至近距離に、老眼鏡を使っても確実に見えない距離に、彼女がいる。
な、なんだチビ、お前も取ろうとしてたのか。メイドとしての自覚がようやく芽生えてきたようだな。中々殊勝だと褒めてやりたいが、ま、そんなのはいちバイトとして当然の話だ。というか気になって仕方ないのだが、俺たち近過ぎる気がしないか? 目と鼻の先、いや、鼻なんてもう当たってるし、すでに近い次元を超えてしまっているではないか。
彼女が震えだした。
キモいからさっさと離れろ、ってか。生意気な。お前が先に離れろっつーの! さっきの勝負はお前に分があったが、あれはたまたまだ。最後には俺が勝つ。先に離れるまで梃子でも離れんからな!
彼女の瞳に涙が溜りだす。
な、泣きおとしが俺に通用するとでも思ってんのか? 馬鹿じゃねぇの。ん? それはそうと、この甘くて心がとろけてしまいそうなグッドスメルはなんだ。ずっとクンカクンカしていたい気分だ。んん? そういえば先ほどから口に何か当たっているようだが、なんというか……果実をふんだんに使用したフルーティ且つジューシーな味わいとでも言うべきか。そうか、まださっきの口の中に残っていたのか。いたしかたあるまい、残り汁でも堪能するか。せーの、チュウチュウチュウチュルルルル。
彼女が目をぐりんぐりん回しながら今にも倒れそうになっている。
そこで鳥肌が立ったと同時に、脳内で、こうなる直前の動画がスローモーションで再生される。
遅ればせながら、ようやく状況が理解できた。
どうやら俺はいま、人生初めての、キスをしているらしい。
誰と?
コイツと。
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