今動けば計画が台無しになってしまいます

「オラ起きろッ!」


 水をかけられて意識を取り戻した。

 モザイクタイルを這いつくばり、小便器を掴んでよじ登るようにして立ち上がる。

 大神は無造作にバケツを放り投げ、ひと仕事終えたような顔でタバコに火をつけ、


「オメーは便所に来て、そのバケツに足を引っかけてハデに転んだ……そうだな?」


 ここは、アルヴヘイムの一階トイレ。

 どれくらい意識を失っていたのだろう。体中が痛い。耳鳴りがまだしている。

 何もかも、思い出した。


 ――俺は昔、イジメられていた。


 こんな風に寄ってたかられ、一方的な苛立ちの捌け口にされていた。痛めつける理由なんてなにもない。ただ自分から見て弱そうなやつをターゲットにして、日頃の鬱憤を晴らしたいだけ。弱い者イジメの動機なんて、そんなものだ。


 夢で見たあの人物。昔、俺をイジメていた張本人。同級生であったことは覚えているが、名前だけがどうしても思い出せない。


 アイツは一体、誰だったのだろう。


 大神は俺に向かって、吸い飽きたタバコを弾き、


「俺には、オメーにいらねー知恵を働かせねえために、恐怖を植え付ける義務がある。だからオメーには違う生き方をするよう強いる。それが、俺という恐怖だ」


 大神はそう言って、悪魔のような甲高い笑い声を上げながら仲間と共にトイレをあとにした。

 チクれば、タダじゃおかない、と、そう言いたいのだろう。

 手も足も出せるわけがないのに、抵抗できなかった自分に途端に腹が立ち、タイルの上に転がっているバケツに、おもいっきり悔しさをぶつける。


「くそおおおおおおおおおおおおッ!」


 そのあと、体中を駆け巡る痛みと途切れぬ耳鳴りに苛まれながらトイレを出た。

 命辛々生き残った漂流者のように、しわくちゃにされた魂とボロボロの体を引きずりながら、スタッフオンリーと表記された受付扉の前に辿りつく。


 扉の向こうから漏れ聴こえる楽しげな喧騒。自分だけが隔離された世界にいるような感覚に包まれる。


 自分の身なりをあらためてみる。

 濡れそぼったカッターシャツにズボン。ベストは所々ほつれており、ボタンがひとつ外れかかっていた。


 大神には、トイレで転んだことにしておけと言われたが、こんな姿を見たら一発で何をされたのかを見破られてしまう。どうすればいいのだろう。いや、ここまでされたのだ、黙っている必要なんてどこにもない。そうだ、みんなに言って懲らしめてもらおう。なんたって彼女たちはバイト仲間だ。仕事上で困ったことは、助け合って解決するのだ。


 ――けど、それってなんか、情けないよな。


 助けを頼むといっても相手は全員女。男の俺がそんなことを言えば逆に引かれるのではないだろうか。そうだ、いいことを思いついた。大げさに痛がるフリをしよう、そうすれば周りは嫌でもほっとけない状況になる。最初は口ごもるようにして仕方なく理由を説明する。後々大神にばれても言い訳が立つように。痛いのは本当のことだ。多少それに色をつけても、神様だって大目にみてくれるはずだ。


 後ろめたい気持ちを抑えつつ、ゆっくりと扉を開けた。


「お、遅くなりました……」


 みんなが俺に注目して目を見開き、息を呑んで黙り込んだ。予測通りの反応だが、彼女たちの見る目は、俺の見立てより相当惨い姿だということを物語っていた。

 美夜が真っ先に駆け寄り、


「みかど! こ、この身なり、一体何があった……ッ」


 美夜の必死さに心を痛めつつも、わざと意識が途切れるフリをしてみた。案の定、美夜は俺を抱きとめてくれた。他のみんなも血相を変えて俺の回りを取り囲んだ。


「と、トイレに行ったら、大神たちがいて……袋叩きにされたんだ」


 痛いのは本当だと自分に言い聞かせ、必要以上に痛がるフリをした。

 美雨が突然泣きはじめる。


「おにいちゃああああああああん」


 少しやりすぎたかもしれない、と後悔する。心の中に生まれたこの余裕は、大神たちに袋にされたとはいえ、痛みを耐えきれるほどの体力がまだ残っているということと、彼女たちなら必ず助けてくれるという気持ちがあるからだ。


 そういえば、あの夢の中でも、俺はこんなだった。今思えば、これはイジメを体感してこそ生まれるクセのようなもので、必然的にそうなってしまったのだろう。この気持ちは誰にも理解できない。そう、俺は悪くないのだ。


 七花が、無言のまま棚から大型の機関銃を取り出し、弾倉に玉を込めはじめる。

 予想通りの展開だった。

 ところが五軒邸はその姿を見て、


「七夏ちゃん、なにをしようとしているの?」


 機関銃二挺を肩に担ぎ、ショットガンのフォアエンドを小気味よく前後にスライドさせ、


「I’m not turning back」


 と言って、そのまま受付を出ようとするが、慌てて五軒邸が止めに入り、


「お待ちなさい!」


 尋常とはいえない五軒邸の叫び声に七花は思わず立ち止まる。彼女は五軒邸の声に振り向きもせず、


「今回ばかりは姉さまの言うことは聞けません! ミーの、ミーの海兵がやられたのだ。それは姉さまにとっても同じ、」

 

「今動けば計画が台無しになってしまいます!」


 その一喝が、ここにいる全ての人間の言葉を奪った。


 五軒邸はうつむいていた。どんな顔をしているのか想像すらできない。

 五軒邸なりに意図しての発言だとは思う。しかし、俺がこんな目に遭わされるなんて彼女の神算鬼謀の中にはなかったはず。

 聞いてみることにした。


「どういうことスか?」


 信じられなかった。他のみんなも俺とそう変わらないような顔をしていた。美雨はピタリと泣き止み、俺を抱いている美夜の手に力がこもる。


 美夜の腕を乱暴に解き、改めて五軒邸に向き直り、


「俺、あいつらにボコボコにされたんスけど」


 体裁など最早どうでもよかった。

 五軒邸は俺を見ず、


「あなたの気持ちはわかります。けど、どうか、ここは我慢してください」


 彼女の言葉に希望の扉が閉ざしはじめる。


「つ、つまり……俺を、捨て置けと」


「そ、そうではありません、ただ今は、」


「もういいッス! 姉貴、あんたはどうなんだよ、俺がこんな目に遭っても我慢しろって言うのか?」


 美夜を見たが、うつむくだけで何の反応も示そうとしなかった。五軒邸の意図に理解を示したといわんばかりの態度に、怒りがさらにこみ上げてくる。


「美雨、お前は兄ちゃんの仇を取ってくれんだろ?」


 兄貴としてのプライドなんて、この際クソ食らえだと思った。

 だが美雨は「おにいちゃん」と繰り返しながら、ふたたび大声で泣きはじめるだけだった。

 白黒つけない態度に苛立ちが爆発しそうだった。夢の中で見た出来事を思い出す。俺は一度、こいつらを裏切っている。

 ――その腹いせか。


「わかったもういい。先輩、ふたりで行きましょう」


 七花は一瞬戸惑った顔をするが、そこでカウンターフォンが鳴ったので、受話器を取ることを優先させた。彼女は客の要望をメモにしたため、受話器を置いて乱暴に涙を拭い、


「姫騎士、オーダーだ」


 希望の扉が閉ざされた瞬間だった。

 怒りが頂点に達した。


「は? 注文て……こんな目に遭わされたってのに、そんなのどうだっていいだっていいじゃねえか。て、店長だって言ってたんだぞ、あんな輩は客じゃない、然るべき対処をとれって……てかアンタたった今行動に出ようとしてたじゃねえか! あれは見せ掛けだけのハッタリだったのかッ?」


「違うッ!」


 七花は思いを断ち切るかのように顔を歪める。他のみんなは黙り込んだままだった。

 ひょっとして、まだ平気だと思われているのか。この場にぶっ倒れるくらいの演技をしないと誰も行動に移してくれないのか。

 いや、違う。

 俺はこうなることを分かっていた。

 口先だけで心配して、けして実行には移さない。誰もが自分に被害がこうむることを恐れている。これは人間が生まれ持った本能。外敵から身を守ろうとする、人間だけに備わった防衛本能。自分の身を守ることができれば、所詮他人なんてどうでもいいのだ。彼女たちの行動がそれを証明している。結局、こうなるのだ。


 ――そんなやつがおったらワシが守たるさかいの。


 ほんの少しでも期待した俺が馬鹿だった。

 やはり友情なんてものは、アニメや映画の中だけのものだったのだ。

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