忌まわしき過去の記憶

「もーいーかい」


 子供の声が聞こえる。

 意識が突然ここに繋がったように、その声と、なぜか神社の拝殿にいる俺がいた。


『あれ、俺さっきまでバイト先のトイレで……』


「まーだだよ」


 思考を遮るかのように今度は別の子供の声が聞こえてきた。


『妹? けど声質がちょっと幼かったような』


「まーだだよ」


『俺の記憶違いでなければこの声は間違いなく姉貴だ。それにしても、なんか様子がへんだ。一体何がどうなって……』


「もーいーかい」


 最初に聞いた声の主だ。柱に顔をふせ、隠れ子たちの応答を待っている。


 幼き日の俺だった。


『そうか、これは俺の小さい頃の夢か。なるほど、俗に言う明晰夢ってやつか』


「もーいーよ」


 ふたりの返事が返ってきた。

 ガキの俺が、俺を素通りして兄弟たちを探しに出掛けた。どうやらこの夢の中では俺は見えないことになっているらしい。なので、ここはおとなしく彼の隣で見物させてもらうことする。


 ガキの俺が最初に探しはじめたのは拝殿の床下であった。舞台の正面階段を下りて左回りにぐるりと一周して再び狛犬の元へとたどり着く。台座に映る影が揺れ動いたのが見え、


美雨びうみっけ」


 妹は上目遣いにはにかみながらおずおずと姿を現し、


「いぎぎ、見つかっちゃった」


 ガキの俺は妹の手を握ると、次なるターゲット姉の美夜びやを探すべく、小走りに駆け出していった。


 思いつく限りあらゆる場所を探して回ったが収穫はゼロ。そんな埒の明かない捜索を後ろでぼんやり眺めていると、突然、ガランガランと坪鈴ががなり立ったので何事かと振り返ると、見たこともない子供の集団が拝殿の奥から姿を現してきた。

 その内の一人が偉そうな態度で腕を組み、


「おい姫騎士ひめぎし。また女と一緒に遊んでンのかヨ?」


 鶏冠のように立ち上げた茶髪と、額に刻まれた十字の傷跡。

 家庭環境の悪さが思わず目に浮かんでくるような、ふてぶてしい子供だった。

 見た目からして悪そうなそいつを取り囲んだ連中も、みな同じような雰囲気を醸しだしており、一様にして横に引きずった笑みを浮かべている。


『誰だっけこいつ……』


 茶髪の子供は、ガキの俺を見下すような目で見て笑い、 


「ツラも名前も女みてーだもンなァ。もうオカマになったほうがいンじゃねえのか? アン、姫騎士みか子ちゃんヨ」


 中傷的なその煽りに取り巻きたちが一斉に笑いだした。

 すると美雨は何を思ったのか、ガキの俺の背中からヒョッコっと顔を出して、彼らに向かってこんなことを言った。


「鼻たれ不細工のホーケー野郎どもには言われたくないね、いぎ」


 リーダー格の茶髪がそれに反応して怒りだし、


「兄弟愛なんて甘ッタリィ茶番を俺に見せつけやがって……クソッ。吐き気がすンゼッ!」


 尋常とは思えない怒り方だった。


「そんなクソみてーな絆はこの俺が引き裂いてやる。おいオメーラ、まずはあの女を捕えろ」


 その号令で散った取り巻きたちは、参道の石畳の上でおたおたとしていたガキの俺の背後に回り込み、四人がかりで妹を捕えた。


「はなせえ!」


 美雨が小さな体をよじって必死になって抵抗している。だが、年の離れた男四人が相手では身動きすらままならない。


「なにボーっと突っ立ってンだヨ。妹を助けなくてもいいのか?」


 ガキの俺は、茶髪が至近距離にいたことに驚き情けない顔でその場にへたりこんだ。

 茶髪は胸倉を両手で掴んで引き起こし、


「兄貴は……妹を見捨てても平気らしい。ま、兄弟の絆ってモンは所詮そんなモンヨ!」


「ううッ」


 ガキの俺が土手っ腹を貫かれ、短い悲鳴を上げて参道に倒れこむ。


 しかし、こいつは一体誰なんだろう。

 俺の名前を知っているということは過去に面識があるということになるが、まったくもって覚えがない。なぜ知りもしないやつらが夢に出て、

 ――ッ!

 そこで突然、何かで叩きつけられたような重い痛みが頭に圧し掛かってきた。


『痛え……なんだってんだ急に』


 そこで目をつぶると、頭の奥底に激痛の根源たる光のようなものが見えた。しかし、それが単なる光ではないことがすぐに分かった。なぜなら、その奥底の一点から場面ごとに切り取った写真のようなものが溢れ出したからだ。


 次々と流れ出る画像は、俺の過去に関するものだった。


 それは、忌々しい記憶だった。

 いじめられていた、過去の記憶だった。


『そんな消したはずなのに……、やめてくれ、これ以上は何も思い出したくねえ!』


 いじめられる理由に身に覚えなどなかった。彼らにちょっかいかけたことなんてないし、気がつくといつの間にかいじめの対象にされていたのだ。顔を合わすたびに寄ってたかって殴られ、彼が転校するまでの間、毎日のようにいじめられた。


 消したはずの、辛い思い出。

 画像が消え去ったあとには、すべてを思い出していた。


 ――俺は昔、いじめられていた。


「お兄ちゃんをいじめるとボクが許さないんだぞお!」


 頭の中に割り込んできた妹の絶叫に、現実へと引き戻される。


 美雨を見ると、ぽろぽろと涙を流しながら淡いブルーのワンピースがはだけるのもお構いなしに、前のめりになってガキの俺を助けようとしていた。


「きゃあああああッ」


 今までと違う美雨の叫び声に、ガキの俺は弾かれたように面を上げた。

 美雨を羽交い絞めにしていた一人が、ワンピースの裾をたくし上げようとしている。


「や…………」


 この時、ガキの俺が何を言おうとしたのかを俺は覚えている。

 尻すぼんでしまったのは、抵抗することで加えられる暴力を想像したからだ。


 そこで、


「やめろおおおおッ!」


 背後から聞こえた雷鳴のような怒号に、この場にいたすべての者が弾かれたように振り返った。

 薄紫色のワンピースを着た美少女がいた。


 幼き日の姉だった。


 鳥居の中央に姿を現した美夜は、静まり返った参道をひたと歩き、ガキの俺に背を向けてとまり、


「大丈夫か? みかど」


 そこへいきなり茶髪が美夜の前に立ちはだかり、ワンピースの胸倉を乱暴に掴み、


「オイ、女のクセになに出しゃばって――」


「雑魚がほざくなああああ!」


 美夜の有無を言わさぬ一撃を食らった茶髪が、硬い石畳に叩きつけられる。

 呆気にとられた手下たち。美雨がその隙を利用して手下ひとりの腕にかぶりつく。絶叫。噛まれたやつは振り解こうとするが、美雨は断固として放そうとはしなかった。


 茶髪が頭を押さえながら立ち上がり、


「テメーラ、こいつをやっちまえ!」


 その号令で手下たちが美夜に向かって飛び掛り、場は混戦状態となった。


 美夜は、茶髪や手下どもが放つ拳や蹴りをことごとくかわし、すきを見て体のあらゆる部位に拳を叩き込んだ。

 倒れたが最後、犬のようにどこでもかぶりつく美雨の餌食となる二段構えで、いじめっ子共を次々と蹴散らしていく。


 そこでガキの俺がおもむろに立ち上がり、決死の覚悟をもった目で彼らを見据えた。


 このときガキの俺が描いた筋書きはたしかこんな感じだった。


 どさくさに紛れて姉らと共に彼らを倒して一件落着。どこにでもある王道物語と遜色ない筋書き。紆余曲折はあったけれど、終わりよければ全てよしの内容であった。しかし、この後こいつのとる行動は、思いとは別のものだった。


 ガキの俺は、そのまま逃げだしたのだ。



 ガキの俺が自宅に着くと扉をぶち破るように開け放ち、ただいまの挨拶もなしに階段を駆け上がって自室へ転がり込んだ。そして部屋の片隅で縮こまり、しずしずと泣きはじめた。

 やがて、部屋の扉が静かに開かれる。まだ泣き足らぬと涙を流すガキの俺に優しい声が届けられた。


「どうした、みかど」


 親父だった。


 ガキの俺は、泣きじゃくりながら今日あった出来事を親父に話した。親父は話しの要所で相槌を打ち、ときには同調しながら最後まで話を聞いてくれた。


 親父が言った。


「みかどは、いつも見てる『伝説の騎士』のように強くなりたいと思ったことはあるかい?」


「別に」


 この空前絶後の即答に親父は激しくズッコけた。こればかりは流石に記憶は曖昧だが、どうやら昔の俺は空気も読めないガキだったようだ。


「ここは肯定する場面でしょ! 父さん久しぶりにイラーッときたよ」


 俺はこのとき嘘をついた。


 毎週欠かさず見ていたテレビアニメ『伝説の騎士』。この頃の俺は、いつか伝説の騎士に出てくるシグルド主人公のようなヒーローになりたいとずっと思っていた。


「よ、よーし。肯定したことにして、ひとついいことを教えてあげよう」


 親父がガキの俺の許可も取らず得意げになって語りはじめる。


「この先、今日みたいに逃げ出したくなることは何度もあると思う。でもこれは、みかどだけじゃなくて、誰でも経験することなんだよ」


「……僕だけじゃないの?」


「そう、パパにだってあるし、もちろん伝説の騎士シグルドにもね」


 親父はそこで一呼吸置くと、突然声色を変化させ、


「もぉし、逃げたくなるようなことに直面しても、何があってもそこから背を向けてはならぬ。フン、貴様が伝説の騎士のように強くなりたいと思うならばの話ぢゃがのうニュフッフッフ」


 親父がやってのけたのは、伝説の騎士に出てくるシグルドの師匠オーディンのモノマネだ。これのお陰でまともに話せばありがたい話がいつも台無しだった。


「怖くても、逃げちゃダメなの?」


 親父は嗜虐的な笑みを浮かべ、


「その通ーりぢゃ。勇敢なる騎士はなにがあっても逃げはせぬ。伝説の騎士を目指している者が聞いて呆れるのうニュフッフッフ」


「ナイフとかつき立てられても?」


「ビャーヒャッヒャッ。当たり前ぢゃバカモン。剣と剣を交える騎士がナイフごときにびびっちゃ話にならんわい。お主、またパダワン見習い騎士からやり直すか? ん? ニュホッ、ニュホホ」


「じゃあ……父さんが愛人をはべらかしてるのを母さんが見つけ出刃包丁を振りかざしやまんばの如く追いかけ回してきた場――」


「ブッフウウウウウウッ! 逃げる逃げるそんなもんお札三枚もってとっとと逃げるわ! ってみかど? 君はいつからそんな可愛げのない小憎たらしい子供になってしまったんだい」


 親父は咳払いして仕切りなおし、


「いいかいみかど、君の憧れる伝説の騎士は、苦しくても、辛くても、寂しくても、怖くて泣いてその場から逃げたくなってもけして諦めず、勇気を出して困難に立ち向かっていく無敵の主人公ヒーローだ。彼は物語のなかで、最後までやり抜き通すことの意味を知る」


「最後までやり抜き通すと、どうなるの?」


 親父は穏やかな笑みを浮かべ、


「やり抜いた者にしか見えない、掛け替えのない景色が、手に入る」


 そして片腕を天空に突き刺すお決まりのポーズでオーディンの台詞を真似、


 怯むな我が騎士よ!

 獅子の如く、不屈の勇気を胸に刻みつけ、剣を構えろ!

 求め続けるならば、全ての道は開かれん!

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