世界と口づけを交わす前に

姫川たいが

第1話 日常にエンドロールを

さっきまでの蝉の声が、耳のなかで残響する。悪い夢でもみてるんだろう、という期待を吹き飛ばす、現実を呼ぶ音だ。



「ここ...どこだ?夢?」



吹き飛ばされた期待の切れ端を掴もうとしたぼくに、世界は答えない。



「なんなんだよ...?」



不安は拭えず、心は濃いグレーに淀んだ。そんな霧をどうにか晴らそうと、初対面の異世界の街を見渡してみると、街並みはぼくの視線を受け入れる。店で賑わい、多くの人びとが通りを歩いていく光景は東京とあまり変わらない。また、歩く人びとにも特にこれといったぼくたちとの違いを感じない。それでもこの街に違和感を抱くのは、街並みが本にあるように中世的だからだろう。日頃本で目にするようなそんな街並みに対して、ぼくはうっすら苦笑いを浮かべてみせた。





「やあやあ、よく来ましたねえ。ようこそ!」



背後から、若い男の声がした。振り返るとそこには、いかにもな優男が立っていた。うさんくさそうな笑みを浮かべている。上背がそこそこあって、瞳はサックスに染められている。いきなり馴れ馴れしく話しかけてきたわりに、見覚えのない顔だ。



「誰...ですかね?」



ぼくの問いに、優男はただ微笑するだけだった。











「うーん、やっぱり涼しいなあ」



8月。東京は夏真っ盛り。蝉はみんみんみんみん鳴き、真夏の太陽は本当にうっとおしく皮膚を焼く。今日は特に暑いような気がして、図書館に行く、という選択をした朝の自分を全力でほめてやりたくなった。えらいなあ、ぼくは。どんな条件であれ毎日図書館へ行ってるだろう、とつっこむもう一人の自分から目をそらし、そう呟いた。図書館は静かだし、夏は涼しく冬は暖かくで快適だし、それにみんな本一冊一冊の世界に没頭しているから、平和だ。これほど素晴らしい場所があるだろうか、いや、あるわけがない。ないと思っていた反語表現を使う機会が、ついにやってきた。今後、二度と使うことはないんだろうけど。





ぼくは図書館のなかでも、「魔女の図書館」を気に入っている。この魔女の図書館、というようのはぼくがつけたあだ名である。ライトノベルもびっくりのネーミングセンス。昔からぼくにはネーミングセンスがないのだ。小さい頃、猫のぬいぐるみに「ポチ」と名づけていたらしい。世界中どこを探しても、なかなかそんな人は、いないだろう。このネーミングセンスのなさは、残念ながら、多分これからも変わらない。





「魔女の図書館」とあだ名をつけた理由はとても簡単で、ここにいつもいる司書さんが魔女みたいだからだ。しわしわの老婆、ということを言いたいのではない。むしろ、その逆である。ぼくは小さな頃からずっとここに通っているけど、この司書さんはずっと変わらない。時間の作るしわが刻まれるのは心だけなのだろう。本当にいつ見ても若く、美しい。杏のジャムのような口紅を塗っていて、肩まで伸ばしたその黒髪もまた、魔女っぽい。大人っぽい女性が好きなぼくにとっての直球ど真ん中どストライクなのだ。また、このだだっ広い図書館で働くのは、なぜか彼女しかいない、というのもまた魔女のような不可思議さを感じさせる。それでしっかりと回転しているのだから、本物の魔女なのかもしれない。自分のあまりにつまらない冗談にぼくはひとりで微笑した。ミステリアスな女性も、嫌いではない。





話があさっての方向にずれてしまった。ぼくがここを気に入っているのには、いくつか理由がある。その中で最も大きな理由を述べろ。と言われたら。それは、その蔵書量が並外れている、というところだ。ここは外からみると現代アート的な風貌をしていて少し窮屈そうだが、中はすさまじく広い。そして、その広さに応じて蔵書量もすさまじく多いのだ。ぼくは今まで生きてきた十七年間で、とても多くの本を読んできた。むしろ、ここまで本を読むのに十七年を費やした、といってもいいくらいだ。ふつうの高校生とぼくを比べると、十倍くらいの違いがあると思う。しかし、ここの図書館の蔵書量とぼくの読んできた冊数とを比べてしまうと、ヒマラヤと消しゴムほどの違いがあると言わざるをえない。それはもう十倍どころの話ではない。百倍、いや、百万倍、いや、百億万倍、いや、百億兆万倍くらいの差がある。ぼくの表現にはやや難があって、小学生のようなのだが、とにかく、ここはそれくらいスゴイのだ。他の図書館と比べても圧倒的なのである。





そんな大量の書物があるこの魔女の図書館には、当然様々なジャンルの本がある。小説、漫画、評論、雑誌といった書物自体の大きな区分から、またそれぞれのジャンルへと枝分かれしていく。たとえば、小説や漫画ならファンタジーや、SFや、青春もの、ラブコメディ、といった具合だ。そしてぼくには、このジャンルだけなら全てを把握している、という砂一握りくらいの自負がある。さすがにここにある本全てを読破するのには時間が足りず、現実的に不可能なではあるが、それがどんな本かを確認する、ということなら、それぞれの本を読むのに比べてさほど時間はかからない。数年ずっとこの図書館に来ているのだから大したことではないのだが、そういう格好で、ぼくここにある本のジャンルなら全て言える。そんな風にぼくは思っていたのだが。物事には例外が必ずある。そしてぼくは、その例外に当たった。握りしめた砂は、指の間からさらさらとこぼれていってしまった。





「うわ、埃まみれだ」



思わずそう言葉を発してしまうほどに、その本には灰色のコーティングがなされていた。指でなぞると、指先には限りなく黒に近いグレーのペイントがされる。そりゃ、あんな大量の本がしまわれた本棚の隅っこでいれば、そうなるか。ぼくは、あまりそういう汚いものが昔から得意ではない。潔癖、というわけでもないけど。だから、なんでこんな本を手にとってしまったのか、自分でもあまりよく理解できていないのだ。ただ、本をとる動作は、何もぼくの考えが及んでいないのにも関わらず、驚くほどに自然で、スムーズだった。まるで本にぼくを引き寄せる魔力があるような、そんな気がするくらいだった。タイトルには、"魔道書"とだけ、なんとなく微妙に見覚えがあるような、ないような、そんな字で書いてあった。ジャンルはなんなのか、よく分からない。強いて言うならファンタジーだろうか。普通ならここで中身を確認するところだが、ぼくはしない。ぼくには、勝手に作った哲学がある。



「本の流し読みはしないのが本に対する礼儀である」



本には一冊一冊それぞれの世界があって。ぼくはその世界に魅せられて、本に没頭するのだ。今まで読んできた本の数だけ、ぼくの中には世界がある。こんな奇妙な本でも、一度ページを開くとまた一つの世界ができあがってゆくのだろう。ぼくはそれを、壊したくないのだ。例えそれが、どんなものであったとしても。





このすさまじく広い図書館には、すさまじく多くの閲覧机がある。ここには大きく分けて他との仕切りがあるものとないものの二種類の机がある。ぼくは後者を好む。周囲に人がいて、音ではなくあくまで存在として雑然としているほうが本の世界と現実世界の対比を楽しめるからだ。小さい頃から本に没頭して友達付き合いの方はあまりしっかりしていなかったが、わりとなんとかなるものでのらりくらりとここまでやってきた。そんなぼくにとって本はもちろん、現実世界も十分に大切で捨てることはできないのだ。周りに仕切りがあると、まるでぼくが現実を捨て、もうひとつの世界のみを選んだ気がして不安になってしまう。それも、仕切りのない机を選ぶ理由なのである。





しかし。今日はだめだ。いつもと違い、ぼくが持っている本は"魔道書"といういかにもいかにもなもので、こんなものを眼鏡をかけた高校生が持っていると痛々しいことこの上ない。残念ながら、そこにギャップ萌えなんてものは生じないのである。ぼくに補正は、かからない。



「仕方ない、家で読むか」



こんなものを借りるのも恥ずかしいが、これなら司書さんに見られるだけですむ。本当はこの本とは関わらないのが一番なのに、この本の謎の魅力はそうさせてくれなかった。さっそく、魔女のいる貸出カウンターへと本を持っていく。幸い混雑もしておらず、スムーズに事は運んだ。



「これ、お願いします」



初めてここに来てからずっと同じことを繰り返しているのに、あまり慣れを感じない。日常の一部なのに、少し顔が強ばった。そんなぼくとは裏腹に、彼女はいつもと変わらないその美しい顔に微笑みを見せて、こう言った。



「貸出期限は、XX日となります」



なぜだろう。深紅に濡れた唇が、心なしか、歪んでいるような気がした。





「ただいまー」



誰もいない、そんな張りぼての家にぼくの声は残念そうに響く。ぼくの親は世界を飛び回っている。小さい頃は一緒によく遊んだような気がするが、大きくなるにつれて両親と会う機会は少なくなっていってしまった。そういうこともあって、ぼくは親がどんな都合でどこにいるのか全くわからない。それも、ぼくが本の世界に没頭するきっかけとなった理由の一つである。なんだか急にセンチメンタルな気分になってしまった。それはまるで世界に別れを告げるようで。今までそう思ったことはただの一度もなかったけど、ぼくは本の世界にここでなくした温もりを求めていたのかもしれない。





無駄に広いここに住んでいるのはぼく一人だけだが、一応は自分の部屋がある。ベッドと、机と、大量の本棚だけがおかれたその部屋もまた、ぼくの世界の一つである。ぼくはベッドの側面にもたれかかり、"魔道書"を眺めた。不思議なその本は、仏頂面でぼくを見つめかえしてくる。そこにはやっぱり吸い込まれるような何かがあって、目が離せなくなった。



「...あれ?」



そこで初めて、魔道書に紙が挟まっているのに気づいた。 その紙には何か書かれているようである。誰かの貸出カードだろうか?でも、それなら魔女が気づくはずか。ということは、これは元々この"魔道書"とやらに挟まっていたものなのか?色々な疑問が頭を交錯したが、とりあえず読んでみることにした。



"ずっと、君を待ってる"





「...誰かのイタズラか?」


くだらなく、ありがちである。今まで読んできた本の中にもこのフレーズを使っている本がいくつかあったような気がする。数を積み上げなければ印象に残らないであろうものだが、この奇妙な本に挟まれていた、という事実がぼくに鳥肌をたてた。




その紙と本をしばし眺めていると、またも気づくことがあった。



「...この紙の文字と"魔道書"のタイトルの文字、一緒じゃないか?」



見れば見るほど、なるほど確かに似ていた。そうすると、やはりこの紙はもともとこの本に挟まっていたのか。字を見る限りは、この単語カードを作った人物は子供ではなく、大人だ。大人が、こんな使い古されたフレーズを大真面目に書いている。何の目的で?それが理解できなかったのは、ぼくの未熟さでなく、この本と紙の存在の整合性のなさのせいだろう。





しかし、やはりこの本には、意義を確かめさせるような不思議な魅力があった。そういえば、まだ"魔道書"を開いていなかった。こんな安直なタイトルで、こんな奇妙な紙が挟まっていて。その上謎に人を引き寄せるような力がある、こんな本に一体何が記されているというのだろう。その名の通り、魔法についての記述でもなされているのだろうか?自分で言っといてなんだが、魔法なんてものが存在するわけがない。それは、この十七年を生きてきて実感している。しかし、なんだかそれに説得力がある気がするのだ。少し本の世界に閉じこもりすぎたせいなのだろうか。





もしかしたら、さっきの紙よりも鳥肌のたつ記述がなされているかもしれない。そう考えると、やはり奇妙である。できればそんなもの勘弁願いたいのだが、その憂鬱な心と裏腹にぼくの手は、勝手にページをめくっていた。その手は、止めることができず。ぼくの手ではないような気がした。そして、ついにその瞬間がやってくる。"魔道書"は強い光を発し、それにぼくは呑み込まれた。そこに感覚はなく、音も逃げ切れずに、やがてはるか向こうへと消えた。ここでぼくは、蝉の音鳴り響く夏の世界に、別れを告げた。

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