14年

 新しい母親だ。そう言った父を、今なら眼だけで殺せるような気が、嵐はしていた。

 学校を卒業してすぐは、師と仰いだ人の元で学んだ。連絡だけは取り合っていた父から、一緒に住みたいと言われたから、同じ街で仕事を見つけたのに。それが、こんなことのためだったなんて。

 部屋が三つのアパートは、親子で暮らすために引っ越してきたばかりだった。路地裏に捨てられていたのを拾ってきたテーブルの向こうで、新しい母親が所在なげに突っ立っている。

 なにからなにまで腹が立つ。女をのこのこ家まで連れて来た父とか、引き合わされることを知っていただろうにただ突っ立っている『新しい母親』とか、広いアパートを借りたのはこのためだったのかとか、母さんのことは本当にどうでもいいんだなとか。冷静になるのに数えようとして、数える端から増えていく。

「ねえ」

 語尾を上げた『新しい母親』の声が、頭の中にあるスイッチを物理的に跳ね上げたような気がした。こめかみが脈打っているみたいにどくどくとして、顔が熱くなる。

 テーブルへ一歩踏み出した『新しい母親』は、柔らかな薄茶色のボブヘアーを片側耳に掛けて首を傾げ、半腰になって嵐の顔を窺う。その顔を――垂れ目にほくろ、分厚い唇――射貫くつもりで睨み上げ、嵐は椅子を蹴って立ち上がった。

 あなたの話、ずっと聞いていて、会いたいなって思っていたの。急に、そんな風には考えられないだろうけど、ちょっとずつ、仲良くしていければいいかなって。

 『新しい母親』は眼を合わせてまま、顔を固めて用意していたらしい台詞を一気に吐き出した。嵐はそれが、頭の中に入ってきた感覚がしなかった。声を成す言葉が、テーブルの上で雲みたいに寄り集まって留まっているみたいに感じる。

 他には。

 自分の声であるのに、自分が出した感じがしない。テーブルの上の雲へ、引きよせられていってくっついてしまった。

 ええと。『新しい母親』は口ごもる。そういえば名前を聞いたのに覚えていない。聞いていないのだったか。どっちだっけ、と思い、どっちでもいい、と思う。もう会わない女だ。

「私も父も、母を捨てたんです。今更母親が欲しいとは思いません。私は」

 頭も顔も熱くてたまらないのに、声にそれが載らなくてもどかしい。父にも投げたはずの敵意は返ってくる手応えも無い。

 この世界に来るときに、母は捨てたのだ。国は違っても同じ世界にいたら会えたかもしれない。いつになるかは分からなくても、可能性は限りなくゼロに近くても、ゼロではなかった。だが世界が違えばゼロになる。会うことが、一緒に暮らすことができる可能性と、自分達の命を引き替えにしたのだ。こっちに来たばかりの頃は実感がなかった。でも母の写真を見るにつけ、家族の話を聞くにつけ、じわじわと感覚が這い上がってくる。自分と父は、母を再び捨て置いてきた。母親という存在は、この先自分が得ることのできない、絶対に得ることのできないものなのだと、予感のように、そうであるべきなのだと、背負うべき罪であるかのように思っている。そうであろうと決めている。

「でも、嵐ちゃん」

 嵐はテーブルを燃やした。この女に何か投げつけてやりたい、だがそれだけでは足りない。だから、魔術の炎をテーブルに点けた。

 あんたなんかに!

 自分の声だとは思わなかった。だが喉が引きつれ、裂けでもするかのようにきりきりする感覚は確かに、叫んでいる感覚だった。

 母の顔は知っている。名前だって知っている。歳だって、好きな物、嫌いな物。父が知っていたことはほとんど教えてもらった。でも声は知らない。声だけは聞いたことがない。名前さえ、母に呼んでもらった記憶がないのに。見知ったつもりの女が、口にするのを許せなかった。

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