9年
御守り
最近煙草の数が増えたように思う。それはきっと手持ち無沙汰になったからだろう。
煙草の煙を嫌って遠のいていく娘の、揺れる毛先を見て流風はふとそんなことに思い至った。
環の髪はまた腰に届いてしまった。逃亡のための旅の身だ。小まめに散髪へ連れて行ってやることもできない――髪色で白伊に見つかってしまう怖れもある――せいで、幼い娘の髪はいつだって長い。髪型はポニーテールにすることが多い。旅の道すがら、仲間が目に見えて減っていく中で、少女の髪をいじってやれる者がいなくなってしまったというのが大きな要因だ。
長いあお髪のポニーテール。顔立ちはみるみる母親に似てきたが、雰囲気や目つきは瑠璃のものだ。だからあるときふと、夏子葉に見えてしまう瞬間がある。
今もそうだ。きっと睨んで、ぷいと顔を逸らして、背を向け振り返らずに歩いていく。顔を逸らす、振る動きとその横顔が、夏子葉に見えて流風はひやりとした。
夏子葉はあの日、流風が環を連れて白伊を出たあの日、颯以外を見逃した。以降も彼女が先頭をきって追ってきていた。二年前に日本を出てからはぱたりと顔を見なくなったものの、夏子葉が白伊の尖兵であることには変わりはない。流風にとっては妹で、颯の親友でもあった夏子葉はもう敵の代表格だ。その顔に見えてしまうというのは、いったいどんな因果だろう。
ふよふよ、遠のいていった環が通りの真ん中で行き場を探している。所々抜け落ちた、がたついた石畳の町並みは人の往来がまばらだ。ぱんぱんに膨れた紙袋を抱えて、うろうろ、きょろきょろする姿は未だ十歳そこらの子どもだ。持つと言って聞かないから持たせたが、やはり荷物が大きすぎたかもしれない。背伸びしたい年頃、そんな時期が自分にもあった。いや、若い頃はずっとだったか。
手持ちと取り替えてやろうかと思い、考え直す。今日買い集めている物は環のものだ。これからは、あの位持てなければならない。
旅の途中で知った、異世界が存在するという眉唾話。仲間がひとり、またひとり、白伊によって減らされていき、そんなものさえ信じなければならない程追い詰められてしまった。そして無事に世界を渡ることが出来たのは流風と環の二人だけだ。日本を出るときよりも熾烈で猛烈な追走だった。だが、異世界だとは信じられないこの地に来てからは白伊の気配がぱったり消えた。仲間がいないから察知のしようがないのだと考えられないこともないが、異世界に来てやっと、白伊の手を振り切ることができた。やっと安心することのできる、嫌がる娘の手を無理にでも掴んで引く必要のない生活。
この買い物は環の入学準備だ。今まで学校と名のつくものに通ったことがない娘の、生まれて初めての入学。異世界にとってのよそ者も受け入れてくれる学校は寄宿制の魔術学校だ。なにからなにまで映画のようなこの状況に対応するので精一杯であるのに、この地に白伊の手が伸びないことを知ってからずっと頭の中にある考えがある。
環、煙草を踏み消して呼び戻した娘に、しかしそれを言うことはできない。颯をこちらへ呼ぼうかと思う。この考えを伝えたとして、娘の反応は想像に難くない。だが、ここに至るまでの白伊の熾烈さを思い出し、颯が無事に来れるかどうかは分からない。ぬか喜びはもうさせたくはなかった。環はこの幼さで仲間を失い過ぎている。
目線を合わせた娘の眼が、訝しんでいる。両親に似ず非常に賢い子だ。その上人を疑ったり本音と建て前を見分けたり使い分けたり。申し訳ないと思う。そんな目に遭わず、何も考えず気楽に楽しく、他の同年代の子と同じように生きることができたらよかったのに。学校に入ったらきっともっと辛いだろう。父親は庇ってやれない。したことのない団体生活と、よそ者への敵意に晒され、見知ったことのない魔術を学ぶ。
「これは御守りだ。これからは環を守ってくれる」
いつもポケットに入れて持ち歩いていた写真を、環のポケットにねじ込んだ。環ははっとした顔で、口をもごもごさせる。
「お母さん、の。いいの?」
今まで見せたことはあった。だが、持ち歩かせたことはなかった。見せても絶対誰にも渡さなかった写真だ。夜の縁側で、赤ん坊を抱く少女の写真。
「いいんだ。母さんがついてる。それを忘れるな」
頭を撫でて立ち上がる。環は写真の入ったポケットをぎゅっと握った。見上げてこないのは泣いているからだろうか。そんなんじゃやっていけないぞ。ぐりぐり、頭を強く撫で回した。
やはり呼ぼう。呼べるだけの手筈を整えられるように、あらゆるコネを作ろう。
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