返事

 返事を書こう。午後になってやっと、私はペンを取った。

 手紙をありがとう。いろいろ考えましたが、私はそちらへ行きません――。

 なにをどう書いても、言い訳になった。辛くなって先を書けず最初から何度も書き直した。何度も同じことを書いて、何度も同じところで先を書けなくなって、結局、行かないとだけ書いて封をした。

 行かない理由を、辛さに耐えきれず書くことが出来ない自分の、身勝手さが許せない。そんなものは捨ててしまって、娘のために流風の元にいるべきだ。わかっている。わかっているんだ。わかっているけど、私だって、わがままを通したっていいじゃないか。

 封をした頃には外が真暗くなっていた。皐月は気を遣ったのか、外出したまま戻ってこない。午後じゅうずっと一人でぐるぐると同じことを考え続けて頭痛がした。だからドアチャイムが鳴って、ふわふわした足取りのままろくすっぽ確かめもせず鍵を開けた。

見たくない顔だった。瞬間、眼が覚めて閉めるが遅い。夏子葉の足はしっかり挟まっていて、肩が隙間を割り開けた。

「返事は書けた? 受け取りに来てあげたわよ、この夏子葉様がね」

 例の如く人の家で人を無視する。ずかずかとリビングまで上がり込んだ夏子葉は、私が封をしたばかりの、うすっぺらい封筒を手に取る。へえ。言って、人を知ったふうに、小馬鹿にしたふうに、彼女はわらう。

「別に、どんな選択をしようが」

「朱伊皐月は、」

 思わず口をついて出た言い訳を、遮られる。その声は表情とは裏腹に怒っているように聞こえた。

「朱伊皐月はね、確かに颯を幸せにしてくれるよ。でも私は、そんなの許さない」

 テーブルに転がっていたライターで、夏子葉は手紙に火を点ける。吸い殻を盛った灰皿の上のそれを放った。真っ暗の部屋の中、手紙を燃やしてゆらゆらゆれる小さな炎だけが夏子葉の顔を照らした。

「あんたはさ、いつもそうだよね。これまで苦しんできたから、誰かになんでもしてもらって当然だって」

「違う。そんなつもりは」

「違わない。あの家を出るときだって、あの家の連中に見つかったときだって、瑠璃が助けてくれる。それが当然だって、そう思ってるでしょ」

 当然だなんて。そんなことは考えていない。自分の手に負えないときだけ、助けてもらうようにしてきた。ただ親切で、いつも助けてもらうことになってしまっていたけど。

「あいつらは、颯のためならなんだってするよ。颯は瑠璃の希望だから。白伊から解放してくれるかもしれない、対等になれるかきっかけになれるかもしれないから。だから命だってなんだって投げ出す。今更だけどね、こんなことは」

 夏子葉は私よりずっと瑠璃のことを思っている。

瑠璃が夏子葉を、敵対しているのに未だ家族だというのは、夏子葉もまた瑠璃にとって希望だからなのだ。白伊と同等の立場で渡り合う夏子葉は、瑠璃の願ったものを体現しているひとりにほかならない。

「瑠璃は颯が言うなら朱伊皐月だって守るでしょうよ。それでいいって言うあんたを今すぐ殺してやりたい」

 でもしない。それは、瑠璃がそれを望んでいないから。夏子葉は瑠璃でありながら白伊に限りなく近い。逆に、白伊に限りなく近くありながら、彼女は瑠璃であり続けようとしている。瑠璃だったり白伊だったり、ときどきで都合良く振る舞いを変えてきた私とは違う。

「だからって、瑠璃のために私は幸せになれるチャンスをみすみす捨てなきゃならないのか」

「当たり前でしょ。まともな親を知らないとか、そんなことはもうなんの意味もない」

私は、瑠璃に対して義理を果たさなければならない。今まで与えられてきたものを、返せなくても返そうとしなければならない。白伊と戦って、勝たなければならない。

「あいつらは馬鹿だから、もう勝てるって思っていないのよ。ただの希望ファンクラブ。手段と目的が入れ替わって、今はただ、あんたを守りたい。だったらせめて、馬鹿なあいつらが見ている夢を、現実にしてみせてよ。白伊の姫が、瑠璃の英雄と幸せになる夢をね」

 瑠璃は、瑠璃である夏子葉の手によって滅ぼされるのだろう。予感がしたというよりは、そういうシナリオなのだと、分かった。夏子葉はいつからその役回りを自覚して、立ち回ってきたというのか。

 リビング口に立ち尽くしたままの私へ、夏子葉が近づいてくる。掴まれるのかと身構えた私の横を過ぎて、彼女はリビングの灯りを点けた。そのままくるり、私の後ろで振り返った気配がする。

「さあ、返事を書いて。あんたは血反吐を吐いてでも流風と嵐と、幸せにならなきゃいけないのよ」

 蛍光灯の灯りがしろくて眩しい。心臓が早鐘を打って、テーブルまでの数歩が、ペンを握る手が震えた。

 手紙をありがとう。いろいろ考えましたが、私は。

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