彼からの手紙

 言いたくなかったから言わなかった。流風が私に宛てた手紙を、皐月から受け取ったのはひと月前のことだ。何度も何度も何度も読んで、返事はまだ出していない。内容は一語一句変わらず空で言える。

「あいつは日本にはいないはずだろ。環と一緒に逃げ回ってる」

 白伊から。翼は悪意を込めて皐月にぶつける。環が、あの子が、逃げなければならないのは、皐月が毎年作っていた交配計画図の通りになりたくないからだ。そうだ。この男がいなければ、もしかしたら私は娘と今頃暮らしていたかもしれない。だが、皐月がいなかったとしても、他の誰かがそれをしたのかもしれない。

 これが惚れた弱みか。私はぼうとした頭でわらう。こんなふうに思うのは、流風だけだと思っていたのに。

 これだ。声と一緒に、いつの間にかリビングを出ていたらしい皐月が翼の元へ歩いて行く。手渡しているのは、件の手紙だ。画用紙のような厚手でざらざらした、規格外の中途半端な大きさの紙。

 あの家を出てから九年が経ちました。これが着く頃はもう十年になっている筈ですね――。

 流風からの手紙は、十代の彼しか知らない私にとって意外な文面だった。言葉遣いが大人びていて、はっきりした字。

日本を出るときに、助かったが一体あなたは何をしていたのですか。この十年無事でいますか。妹に怪我などさせられていませんか。

 紙の中ほどで、字が小さくなる。鉛筆やペン、インクが変わりながら書かれる字は所々かすれている。

 信じられないと思いますが、僕達は違う世界にいます。マンガみたいに魔法や竜が実在する世界です。あの子もとても驚いています。こちらにあの家の連中はいません。あなたも、弟と一緒にこちらに来て下さい。段取りを全てこちらでつけます。返事を待っています。

 具体的な単語を省いた、丁寧なですます調は誰に見られてもいいようにだろう。だが、それにしては、言葉の選び方や言い回しにこそばゆさと恥ずかしさを感じてしまう。字と字の間、行と行の間に、書ききれていない言葉が、気持ちが、あるような。私がそう思いたいからそう見えるのだ。いや、そう見えるように書いたのかもしれない。彼は嘘を使い分けるのが上手かったから。

 翼は数度読み返しているようだった。字を追う眼と表情を見続けることができない。じっと立ったままの弟の足下を、身じろぎひとつしない足をただ見ていた。

 翼は流風が嫌いだ。二人は瑠璃で唯一両親を同じくする兄弟だが、だからこそ翼は生まれたときから瑠璃の中で嫉妬を一身に受けていた。生まれたのがちょうど、私と流風が出会い、彼が私の教育係に任命されたときだったのも間が悪かったのだろう。名前すら付けてもらえず、ろくに世話も教育もされずただ生かされていた。流風と出会う前の私みたいに。世話を任されていたのは流風だったが、彼は私の――年の大して変わらない子どもの教育で精一杯で弟にまで手が回らなかった。翼という名前は私が付け、流風がしてくれたように、翼に生きていく術を教えた。家出をした時にも連れて行き、戻ったときも一緒だった。白伊から逃げ出したのも一緒だ。これまでずっと一緒だった。流風と私と翼。だからだろうか。翼は外野によく流風と比べられ、出来が悪いと言われ続けた。

 翼は流風が嫌いだ。だから、この手紙は気にくわないだろう。そもそも今の翼が、私の後生大事にして、口にすら出そうとしない内容の手紙にただ眼を通すだけというのも不気味だった。

 翼はそれを慎重に、恐る恐るといったふうにゆっくり折り目通り畳んで、私へ渡した。歩み寄る歩調や雰囲気からは険が失せている。最悪破ってしまうと思っていただけに、私は拍子抜けして受け取る。

「いつ?」

 ああ、いや。私は口ごもった。

「まだ決めていないんだ。行くかどうか」

 はっ? 翼の声に険が混じる。見上げた顔はかすかに怒っているようだ。だが、彼が睨んだのは皐月だった。

「別に、私が決めきれないだけの話だ。誰かのせいじゃない」

 何がそんなに気に掛かっているのか。翼に言われるより先に、言い訳が出ていた。皐月を庇ったように聞こえてしまっただろうか。それでも、暮葉がいるせいからだと思われるよりずっとましだ。

「行けばいいじゃん。一人ででも」

 一人で行けと言っているわけではない。ただ、全部投げ出して行きたいんだろうと、見抜いているぞと言いたげだった。そして自分はそれでも構わないと。

 私は翼の声を片耳で聞いた。直視することができない。ありがとうともごめんとも言えない。行きたいのか、私にはわからないのだから。

「行けば眼が覚めるんじゃない」

 まるで私が過ちを犯しているかのような――翼にしてみればそうに違い無い――口ぶりに、なんだ、言い返しそうになって思いとどまった。翼はつまらないものを見たみたいにきびすを返した。皐月を睨めつけて、出て行く。玄関を乱暴に閉める音が響いた。

「なにがそんなに気になってるわけ?」

 背側から皐月の声が聞こえる。次いで視界がタオルに埋まった。がしがし、私の頭を拭く皐月の手指は力が強くて、頭がぐらぐら揺れる。顔を上げると、拭きにくいから、と戻されてしまった。私は俯き、頭をぐらぐら揺らしながら呟く。わからないんだ。

「どんな顔をして会えばいいのか」

 何が? 尋ねた皐月に答えた。こうやって眼を閉じると、あの子と別れた日が瞼の裏に浮かび上がる。じっと見上げてくる赤ん坊。抱く度に重みを増していく娘。くりくりとした、よく動く眼、鼻、口、頬、垂れた髪先を掴もうとする小さな掌。眼に刻みつけておこうと思ったのに、涙が止まらなかった。あなたは、あらしっていうのよ。あの子はきっと嵐という名前を知らないだろう。

「だから会わないのは違うと思うけど」

「・・・・・・そうか」

 本当はわかっているつもりだ。そんなことは気にせず会えばいい。家族なんだから分かり合える、なんて考えてしまうのは私にも家族を経験したことがないからかもしれない。

「本当のところは?」

 頭を拭く手の力が弱まってきた。あまり揺れなくなってきて、薄目を開ける。

 本当のところは。本当は、本当は、私には流風が何を考えているかがわからなくて、恐ろしい。

 彼は自分の欲望に忠実な男だった。今の彼は知らない。だが、十代の頃の流風はそうだった。欲しいものは何だって、何をしてでも手に入れた。十代の男が欲しがる全てのもの。金や、武器や、服、アクセサリー、地位と名声、欲を満たすだけの女。私はそのうちの一人に過ぎない。それでも白伊だから、妊娠したから、特別だっただけ。それだけの女に、今さら何の用があるというのか。ただ単に所有物を手元に置いておきたいだけではないのか、そんな不安が、私を皐月に繋ぎ止める。

「流風に会って、どうするんだ。どうするつもりなんだ、あいつは」

 家出をしてすぐ、私は妊娠した。十代のカップルが、大人の眼の届かないところで生活していたのだ。当然といえば当然だった。だが当時の私が苦しんだのは、家出をしてきたのに満たされない独占欲と、流風が関係を持っていた数人の女性に対する嫉妬だった。白伊家に戻ったのは、それを満たしたい下心からでもあった。本当に私は流風しか見えていなくて、彼のする事なす事が、ひどい仕打ちであったのだと知ったのは翼とあの家を出た後のことだ。普通の、まっとうな恋人がどんな関係性であるのか、教えてくれているのは皐月に他ならない。

 その皐月を置いてまでして、会いに行く価値がある男だろうか? 流風は。

 ない、と切り捨てきれないのは娘に会いたいからだ。手紙の端々に愛情を見いだそうとして見えてしまったからでもある。彼は変わっているのかもしれない。その可能性が、私を皐月から切り離そうとする。

「そっか」

 背に皐月の重みがくる。それなのに、この緩く抱きすくめる腕でしか温もりを感じ取れないのが勿体ない。椅子の背もたれが邪魔だ。頭を包み込んだままのタオル越しに彼の頭が肩に乗ったのを感じる。そっか。彼がもう一度言った言葉には寂しさと嬉しさがない交ぜになっていて、やはり私は彼を繋ぎ止めていたい。

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