昨晩の出来事
別に一人でとは言っていない――、そんなようなことを口に出そうとした瞬間、ドアチャイムが鳴った。ピンポンピンポン。しかも連打だ。ドアを叩く音の大きさ、いるんだろ、言う声は、高校に行った筈の翼だ。
「お前、ここは知らない筈じゃなかったか」
私は皐月が抑えるのを振り払ってバスタオル一枚をひっつかみ、玄関のドアを開けた。
「時と場合によるんじゃない。服ぐらい着たら」
目線の高さは同じはずなのに、翼は私を見下ろして言い捨て、ドアごと私を押しのけ靴を脱いだ。そのまま、一直線にリビングへ歩いて行く。間取りは翼と同居している自宅と同じだ。同じマンションなのだから当然だが。
取り急ぎ脱衣所で下着を身につけた。そこで様子を窺っていたらしい皐月にバスタオルを放る。翼に気付かれずに彼を着替えさせなければ。シャツをひっかけ、脱ぎ捨てたままだったGパンを履く。
「暮葉はどうした」
シャツのボタンを留めながらリビングに入る。
「学校。一人にしておけないから」
僕もすぐ戻る。言う翼は座りもせず、物の少ないリビングの中をぐるぐる歩き回っていた。怒っている、苛立っている。仕方が無い。昨晩の出来事を思い出して、幻聴まで復活した。あるわけないじゃない、異世界なんて。
「そうだな。とりあえず座れ」
「指図するなよ」
ぴりりとした敵愾心が風呂上がりの柔らかい肌に痛かった。翼がこうやって反抗してきたことなんてなかった。なかった――もう十九になろうかというのに。
「説明してよ。どうして、夏子葉が暮葉と会ったりなんかしていたのか」
翼は彼女が出来てから随分変わった。暮葉という名の彼女は天真爛漫を絵に描いたような少女で、突如兄が姿を消したために翼の家、つまりは私の家に転がり込んできた。少し馬鹿な所が翼と似ていて、裏表もなく、人を疑うことをしない彼女が、翼は眼を離せないようだった。だから、彼女のことになるとこんなにも真剣になる。
それは。言いかけたとき、
「夏子葉が追っているのが白伊の医者で、暮葉の兄貴だから」
皐月がリビングに入ってきていた。濡れた裾を絞った跡があるが、着替えてはいない。翼にばれるじゃないか。やましいことをしていたって。
「最近新しい男ができたってことは知ってたけど、なんだよこれ。頭おかしいんじゃないの。こいつは、白伊だ」
しかも医者だなんて、あれを作ってるやつらだろ。あれ、計画図。翼は矢継ぎ早に、声高にまくし立てる。想像していた通りの反応だった。
「ごめん。言えなかった」
大切にしている彼女が白伊の人間だってことを、白伊の人間だと知っていながら私がこの男とまともに恋人をやっているってことを。
私はどちらが言えなかったのか。前者のせいにして、後者をどうしても言えなかったのだと、思い知らされる。ああ、だから翼に対してやましいと感じてしまうのだ。
「夏子葉は俺を探してる。暮葉のことをどうやって知ったのか、とにかく君らを探していたわけでもないのに見つけて驚いていた位だ」
昨日の夕方、私の携帯に電話がかかってきた。夏子葉だった。今どこそこにいるから来てみないかといった内容だった。駅ビルに入っている喫茶店。人の多い時間と場所だから行った。一応翼に連絡を入れておいたのがまずかったのかもしれない。
喫茶店には夏子葉と、暮葉がいた。夏子葉は白伊の医者である朱伊皐月の妹と引き合わせて、どんな反応をするか見たかったのだろう。暮葉は言った。颯さんは、夏子葉さんと知り合いなの? 私はただ頷くことしかできなかった。夏子葉の、嬲る獲物を見つけた猫じみた眼と顔。私は暮葉が朱伊皐月の妹であることを知っている。だが、暮葉は皐月の行方を知らないし、私が彼女の兄と寝ていることも知らない。そこに駆けつけた翼と同じように。
その場は暮葉がいたからすぐに、終わらせてしまいたかった。彼女は皐月の妹でありながら、白伊のことを知らない。一体どういった事情なのか、皐月ははぐらかすばかりで聞き出せずにいた。
翼に白伊を知らない彼女ができた。それなら、これを機に翼には足を洗わせるべきだ。だから、私はそのために行動している。これ以上私の身勝手に振り回される人間を増やしたくは無い。
だから、暮葉は瑠璃にも白伊にも隠していたかった。そのためにあらゆる手を打ったつもりだ。それなのに、夏子葉のせいで、暮葉に知らなくて良いことを教えなければならないかもしれない。夏子葉は余計なことを言っていないだろうか――。そんなことを考えていて、どうしたらこの場を切り抜けられるかばかり考えていたから、夏子葉の言葉は本当に寝耳に水だった。
あるわけないじゃない。異世界なんて。
「夏子葉は、私の反応を見て面白がりたかっただけだ。白伊の医者をしていた男の血縁を目の前にした私を笑いに来ただけ」
夏子葉はなぜ流風の手紙の内容を知っていたのだろう。いや、知っていてもおかしくはない。私があれを受け取れたのは、皐月が白伊からくすねてきたからだったのだから。
「巻き込まないって言ってたのは、嘘だったわけ。だって知ってたんだろ、暮葉がそいつの妹だって」
そもそも、兄を探している暮葉に対して、所在を知らないと嘘をついてきた。翼はそれも含めて私を許せないだろう。許さないだろう。翼は本当に流風に似てきた。彼が着ていたのと同じ制服を着ているから、一層そう思うのかもしれない。そんな翼に嫌悪丸出しで睨まれるのは胸が痛い。
「知っていたから、尚更、あの子を巻き込みたくないと思ったんだ」
さっきから床の埃ばかりが目に付く。世話を焼いてきた弟の眼をまともに見れない。言い返す、釈明する私の声は震えている。
どうだか。翼がそう呟いたような気がした。流風ならそう言うから、そう感じたのかもしれない。どちらにしろ、今の私は少しおかしい。背が寒さに震えた。
「座ったら。調子悪そうだし。大丈夫なの」
今度こそ翼は言った。やはりさっきのは幻聴だった。夏子葉と同じだ。
「悪い。それで、」
「じゃあもうそれはいいから、手紙って何」
椅子を引きよせ座った。そうか、髪をまるで拭いていなかったのだった。無駄に長い髪が重く、冷たい。言い訳を続ける私を、翼は遮る。せめてもう少し聞いて欲しかったのに。
「それは」
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