10年

恋人

 吐き出したため息が狭い浴室に反響した。そのまま湯気か湯船に溶けてしまえばいいのに。

 随分昔の夢を見た。今は遠くにいて、現実にいたのかも信じられなくなってきた娘の父親と出会った日の記憶。たしか四、五歳だったはずだ。

 しかも他の男の横で眠っているときにだ。よりによって、白伊だった男と寝ていて――それだからこんな夢を見たのかもしれない――だなんて、まったく、どんな顔をしていいのか、どう思うべきなのかがわからない。

 娘にもその父親にも会わせる顔がない。未だ会えるなんて考えている自分が馬鹿馬鹿しかった。

 昨晩の夏子葉の言葉が頭から離れない。声まで聞こえてきそうだ。

 あるわけないじゃない、異世界なんて。

 幻聴が浴室の壁をぼんやり跳ね回っている。せせら笑う女の声。せせら笑っていたのは私なのに、私が抱いたのは、前後不覚なほどむきになって言ったのは、怒りだった。

 馬鹿にするな。あいつが馬鹿馬鹿しいことをわざわざ手紙にするわけない。

 流風がそんな馬鹿げたことをするわけが、あるはずのない異世界にいる、こっちに来て欲しいなんて、そんな手紙を送って寄越す訳が無い。異世界は何かの比喩か、もしくは、本当にあるのだ。本当に、異世界にいるのだ。

 その場に翼も、新しい男も、翼の彼女もいたのが最悪だった。全てぶち壊しだ。これまで築いてきた信頼と印象、関係性。夏子葉のせいで粉々だった。

 そのせいだ、言い聞かせて、夏子葉の声を振り払おうとして、今まで縋り付いていた男に一晩中縋り、媚びを売って関係を取り戻そうとするなんて。馬鹿馬鹿しい。男なんかこの世に一人きりではないのだ。他にいくらでも代わりになるだろうに、どうして朱伊皐月にここまでしがみついているのか。自分で自分が分からない。皐月は流風とは違う。だが他の男とも違う。例え口先だけであったとしても、私は皐月の言ってくれた「愛している」に縋ってしがみついて生きていけるだろう。

 物音がした。ドアの磨りガラスに男ひとり分の輪郭が浮かび上がる。大丈夫? 皐月の心配げな声がくぐもって聞こえた。そういえば、風呂に入ってどのくらい経っただろう。浴室に時計がないからわからない。いや、気にしていなかった。

 大丈夫。答えた声が喉に引っかかって喉を鳴らす。昨晩のせいか、夏子葉を前に声を張りすぎたのか。どちらにしろ、心配性の皐月が顔を覗かせるのは当然だった。

 そろそろ切ったほうがいいくろ髪の下に眼鏡をかけている。本を読んでいたなら続けていればいいのに――充満していた湯気で瞬時に曇り、彼は眼鏡を外した。私は面食いだが、皐月は野暮ったい眼鏡をかけているときのほうがずっといい。彼らしくて。

「ああ、よかった。起きてる。また寝ちゃったんじゃないかと思った」

 彼の声音がいつも通りでほっとする。夏子葉に怒って言い返したこと、その後しつこく彼を誘ったことが、むしろ私が未だ流風を想っている証拠になってしまったのではないか、皐月はそう捉えたのではないか。その不安が、かすかに軽くなる。

「少し、気が抜けて」

 考え事をしていた、とは言えなかった。浸かっていた湯船の湯がぬるく、身体の熱が奪われていく感覚が、急に肌を刺した。本当に、考え事をしていて他になにも気になっていなかったらしい。

 大丈夫? 言って一歩浴室に踏み込んだ皐月の顔へ、湯を飛ばす。

「え、ちょっ」

「これからシャワーを浴び直すんだ。覗くな」

 手を伸ばしてシャワーのコックを捻る。勢いよく放出された水が、浴室に一歩入ったままの皐月の半身を濡らした。

 湯船からあがり、彼の手を引いた。シャワーの湯が熱い。一体どれだけ湯に浸かっていたのか、身体が冷え切っていたことにやっと気がついた。湯を被った彼の手の、肌のあつさが恋しい。

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