言付け

***

 きゃあ、珍しく黄色い声をあげた環の手が、流風の掌からすり抜けていく。見渡す限り広がっている砂の大地へ、頭のてっぺんにしろい花の冠を載せた少女が走っていった。咄嗟に追いかけ走っていったのは翼だ。ああ、しまった。出遅れたことでじんわり悔しくなってしまうが、弟にばれても面白くないから、流風は平静を装った。

「あんまり遠くに行くなよー」

 うん! 環が声を張り上げる。普段走ったりなんかしないくせに、男子高校生を早速へばらせる程ちょこまかと走り回っていた。はしゃぎすぎだ。夕方――この海を越えている頃にはすっかり寝てしまうだろう。まだあんなに小さいのに、空元気なんか。そういう所ばかり母親に似ている。意地ばかり張って、本音をまるで無いみたいに隠して、後から後悔して泣くのだ。環も今夜寝れなくて寂しくなって泣くだろう。何度も会っている瑠璃の何人かには未だ人見知りする位なのに、翼とはすぐに打ち解けた。似ているからじゃないか、仲間は口を揃えてそう言ったが、流風は断じてそれを認めたくなかった。

 日本国内最大級の砂の山の中程で、環と翼がしゃがんでいる。転んだのか、心配になって近づくと、花の説明をする環のしどろもどろな声が聞こえた。なんでも、とても暑い場所にしか生えていないとても丈夫な草で、砂漠を旅する人の”ひじゅつひん”なのだそうだ。花なんかこれっぽっちも興味のない流風でも違うとわかる説明を、翼は尊敬の眼差しを向けて聞いている。

「ばっかだなあ」

 流風はこんなに心の底から言葉を発したことがない。この馬鹿と、娘の中で同一視されているなんて考えたくもなかった。

 また馬鹿って言った! 環は憤慨し、一通り文句を言って――翼と仲良くなってから甲斐甲斐しくかばうようになった――ぴゅーっと言い逃げしてしまう。だが勢い良く走り出したものの砂に足をとられ、勾配のきつくなった斜面を駆け上がれずに、終いには両手をついて登ろうとし始めた。

 傑作だ。さっきフィルムを使い切ってしまったのが口惜しい。流風は煙草を咥えて火を点けた。環は三歩登ったところで足がずり落ち、ずずず、四歩分身体が後退した。真剣な背中が可笑しさに輪を掛ける。

「あいつら、どうして急に退いたんだろう」

 翼はずっとこれが聞きたかったみたいだった。思い切って口に出してみて、相手の反応を窺っている。顔に出過ぎだ。流風は呆れた。こいつは、土壇場で驚くほど頭がきれるし判断力もあって度胸もある。先日の件は向こう見ずすぎるが、まだ若いからそんなものだ。なのに、こいつは嘘がつけない。なんでも顔と口に出る。だから馬鹿だと言っているのに。

「榊麻耶が必死になって人手を関東に集めてるからだ。颯が派手に暴れてるらしい」

 は? 翼は開いた口が塞がらない。流風も最初に聞いたときそうだった。

 あの廃屋で、裏口から流風と環と翼、三人だけで裏口から逃げようというとき、廃屋正面への攻撃がぴたりと止んだ。見れば、敵に回った瑠璃は急いで撤収していたのだ。罠を考慮して三人が先に廃屋から出たが、後々仲間と落ち合って聞いた話では罠でもなんでもなく、本当に急に退いていったのだという。斥候部隊の情報を合わせてみると、関東でひとり、颯が白伊を相手に逃げ回っているということだった。なぜそうなったのかは分からなかったが、とにかく関東にいた斥候部隊や、アングラに潜っていた瑠璃が総動員で援護している。

「何を考えてるか知らないが、この隙に日本を出られる」

 人騒がせ甚だしい――瑠璃にとって颯がどれだけの存在か、彼女はまだわかっていない。

「悪かったよ」

 翼は突然ぶっきらぼうに謝った。言ったきりでそっぽを向いている。流風は聞き返した。なにが? 弟に謝られるようなことは思いつかない。

「颯が来るべきだった。環も会いたがってる」

「いや、きっと颯は来なかった」

 流風は思う。自分が彼女と同じ立場だったら来ない。彼女が娘を思って下した判断だと。娘の無事を確保するのに、颯が環に――嵐に会いたいと、流風が颯と会いたいと思うかどうかは関係ない。そんなものを気にしてはいられない筈なのだ。

 流風はポケットから引っ張り出したものを翼に押しやった。ピンク色の厚紙をピンク色のリボンで綴じた、縦横十センチ程度のアルバム。ピンク色は褪せて汚れ、厚紙の表面は毛羽立って端はぼろぼろだ。

「持ってってくれ。五歳のときに母の日で作った」

 翼がアルバムのページを繰った。あの家を出てからこれまで、流風が七年間厳選して撮りためた写真だ。誕生日やいくつかの初めて、仲間が面白がって撮った一枚。

「ありがとう。渡すよ、必ず」

 自分のことのように喜ぶ弟が眩しくて、流風は翼の肩を叩く。結局、殴った詫びを言い損ねた。

 とうとう泣き出した環の元へ、流風は笑いながら歩いていく。



***

 散々だった。高速道路に乗るまでは良かったが、なぜか追いつかれていてカーチェイスになり、車の乗り捨て乗り換えを繰り返し辿り着いた廃工場で立てこもっているところを普段世話になっている瑠璃の人間に助けてもらったのだった。

 一週間ぶりの我が家に力が抜ける。朝方のぴんとした冷気がどこか緩く、リビングの窓から差し込む朝日が廊下まで届いていた。

 玄関には、言われるまま掃除した時に出た丸々としたゴミ袋が積まれている。そのせいで玄関が圧迫されて――思い出した夏子葉の顔と声にむしゃくしゃして、一番下のゴミ袋を蹴り上げた。上に積み上がっていたゴミ袋が押し上げられて廊下を転がっていき、もうひとつは玄関で口が開いて中身が辺り一面に飛び散った。靴を脱ぎ捨ててごみを踏み、リビングへ入る。翼の靴があったが、いつ帰ってきたのだろう。あっちはどうだったのか、あの子は元気にしていたのか。すぐにでも聞きたい。でも身体も頭も重たく鈍っていって、一服が先だ。

 ソファーの定位置に身を沈めた。ローテーブルに薄っぺらの箱がある。縦横十センチ、厚さ二センチ程度。手に取ってみると、微かに重みがある。空箱ではないらしい。私はそれを投げつけた。向かいの壁に当たって、ぱたり、大した音も立てずに箱が落ちる。中身が何だろうが関係ない。夏子葉は取りに行かせずとも既に持っていたのだ。それを、こんなあからさまにおちょくって。煙草を咥えて火を点けた。見回すと灰皿がない。夏子葉。あの女だ。私が煙草を吸うのは流風の真似だとか言って、禁煙させようとしていた。立ちたくなかったが、ここで止めることはあの女への敗北を意味する。

 キッチンを漁っても見当たらなかった。吸っていた一本はほとんど灰になって、シンクに転がっている。まさか捨てたのか。こうなったら何が何でも見つけ出してやる。決意して廊下に出ると、翼と出くわした。彼は廊下の惨状を見て立ち尽くしている。

「灰皿を見なかったか」

 いや、見てない。翼の答えに、やはり捨てたな。確信した。玄関に転がったままのゴミ袋を開け中を探す。ダイレクトメールとコンビニ弁当と空き缶、ペットボトル。翼に肩を叩かれて、頭まで入れていたことに気がついた。

「これ」

 翼はピンク色のものを差し出している。縦横十センチ。無意識に受け取っていた。くすんだピンク色のリボン。けばだってぼろぼろの厚紙をめくると、あおい髪をした幼子の、笑った顔が飛び込んでくる。

 あらし。呼んだ声がいろいろなものに引っかかって詰まって出ない。写真越しに撫でた頬はじんわり温かい。

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