大切

***

「懐柔できると思ってたわけだ?」

 車の運転席に収まった夏子葉が、エンジンをかけるなり口を開いた。早朝の道路は都内と言えどほとんど車通りがない。三人分の死体を降ろした車は軽やかに走り出した。

「あいつがしくじったのは、覚悟が足りなかったから。絶対に失敗できない。必死さがなかったから」

 懐柔じゃない。子どもをダシに、言うことを聞かせたのではない。利害が一致するから協力したのだ。男は覚悟という意味で私を裏切った。その代償として死にかけた。そういうことなのだ。懐柔しそこねて、操りそこねたのではない。だが、そう思っているのに、私は責任を感じている。なにより夏子葉の指示に従わず、独自行動を取って失敗したことに消沈している。彼女にネチネチわかりきったことを聞かされて、それでも逆らうこともせずにいる。

「あの男が、自分の選択に大層な覚悟なんて持たないことくらい分かってたでしょ。バーで会ったばかりの女にいそいそ付いてくような男が」

 結婚して、二人分の人生を背負う覚悟をしたはずが簡単に浮気する男に、他人の子どものために危険を冒すだけの覚悟を持つだろうか。持ったとして、それはどの程度の覚悟だったか。

「考えなかった」

 事実だ。考えもしなかった。子を持つ親は、子のために何でもするものだと思っていた。それが仕事だろうが、盗みだろうが。私の声は情けない。

「半端な覚悟で行くから失敗して、尻ぬぐいに瑠璃を三人も殺す羽目になったじゃない」

 ぐい、夏子葉は強引に右折する。すれすれで衝突を免れた対向車が鳴らすクラクションを無視して、スピードを上げた。

「どうして瑠璃が」

「白伊の会社だもの。予行練習にぴったりじゃない?」

 良かったね、まだチャンスがあって。夏子葉はそう言わんばかりに意地悪い笑顔を浮かべる。

 白伊の。分かりきっていたことだが、夏子葉が手にかけ私が海に沈めたあの三人は彼女の部下だ。多少なりとも血を分けた家族で、部下。そんな近しいのに殺したのか。

「殺すことはなかったんじゃ」

「私がしたことは裏切りよ。すっごい些細だけど。弱味を握られたんじゃ堪らない」

 でしょ。同意を求められても私は頷けない。これは、私の年下の姉で、親友の夏子葉だろうか。本当に、夏子葉は演技でもなんでもなく、こんなことを言っているのか。

「どうして、そんなことを言うんだ」

 聞いてから、口に出してから分かった。私はどうしてこんな聞き方をしたのだろう。前は違った。年下の姉で、親友の彼女とは言葉なんて必要なかった。ひとこと、「どうして」。それだけで足りていたのに。

 夏子葉は変わった。私も変わった。変わって、変わったから、私達には溝があって距離がある。埋めも詰めることもできない。

「私の一番が颯だから。分かってないみたいだから言うけど、一番っていうのはね、それのために何でも捨てられる、犠牲にできるってことよ」

 車は高架手前で停まった。数メートル先の歩道を、あの平凡な男がとぼとぼ歩いている。

 夏子葉が私に向き直る。一枚の白い封筒が差し出された。写真の入るサイズ。

「さて、ラストチャンス。縦横十センチ、厚み二センチ程度の箱の中身を取ってくること。明日早朝三時に段取りをつけてある」

 彼女が口にしたのは白伊家の住所だ。わざわざ部外者にさせる必要性を感じないが、私は封筒を受け取った。固い感触は写真一枚分だ。

 男が高架下に入る。私は車を降りた。ドアを閉めようというとき、夏子葉が助手席に身を乗り出して、

「ね、颯の一番はやっぱりまだ流風なの?」

 見上げてくる。彼女の見いだそうとしている僅かな希望をぶち壊してやりたい。

「もう違う。でも夏子葉じゃない」

 力を込めてドアを閉めた。音が高架下に響き、こちらを振り返った男が駆け出す。それを追い駆け、すぐに追いついた。男の首根っこを掴み壁に押しつける。封筒で頬を叩いた。

「ひどいじゃない、逃げるなんて」

 車が通り過ぎていく。夏子葉はこちらを見ていただろうか。見せたかったのに。私にだってできる。私の一番大切なもののためなら、何だって。

「そんなものどうでもいい! 好きにしろ!」

 男はみっともなく喚いた。反響して聞こえる声がやけに耳障りだ。

 これなら? 銃口を頬へ、こめかみへ、押しつけ私はささやく。脂汗でぎらつき、眼を血走らせて男は震えた。夏子葉の言ったことを繰り返す。縦横十センチ、厚み二センチ程度の箱の中身を取ってくること。明日早朝三時に段取りをつけてある。白伊家の住所。

 もう一度脅して、手を離した。腰を抜かし足が震えて立つこともできない男を薄くらい高架下に残し、彼の尾行もしなかった。男は行かないだろう。行ったとして、失敗する。逃げても構わない。それはそれでどうせ夏子葉に後始末を押しつけることができる。あの男を追い詰めることが目的なのだ。恐らく、きっと。なぜなのかは知ったことではない。せいぜい夏子葉の手並みを見せてもらおうじゃないか。

 翌朝三時、意外なことに平凡男は白伊家の前に現れた。都内の外れ、こんもりした山の麓を占領する白伊家の屋敷を囲む高く白い塀が見渡す限り続いている。近所には店も民家もない。数キロ先に高速道路のインターチェンジがあるだけの、辺鄙な土地。男は恨めしげに走り去るタクシーを見送る。どこから乗ったか知らないが、さぞふんだくられたことだろう。私は双眼鏡越しに男を見守る。彼は門を開けるでも叩くでもなく、手持ちぶさたに正門の前を行ったり来たり、うろうろ歩き回る。

 助手席に放った携帯電話が鳴った。早朝三時。窓もドアも開いていないが、車内にけたたましい着信音が響いて私は携帯電話に飛びついた。

「そろそろじゃないか?」

 平静と余裕を装うと、電話の相手もそうだった。平凡男だ。双眼鏡で見ると、彼はうろうろしながら携帯電話を耳に当てている。

「ああ。来たけど、どうやって入ればいいのか分からない」

「準備はできている。塀をよじ登っても入れるぞ?」

 男の声は平静を装っているにしては冷静すぎる。落ち着かないのは中に入れないからではない。中に入らなければ殺されてしまうという焦り、恐怖、不安。どれ一つとしてないように聞こえる。なぜ。

 正門が開く。銃を抱えたあおい髪の男女がぞろぞろ姿を現す。平凡男となにか話している――電話越しの声に耳を澄ませば、瑠璃の口ぶりは白伊に対するもので、麻耶の名前が何度か出ているようだ。

 男は得意げにまくし立てた。麻耶叔母さんに頼んだからお前はもうおしまいだ。云々。

 瑠璃が散開する。私が来ていることを知りようがないのに。いや、違う。くそ。嵌められた。あんな男に。

 エンジンをかけた。早朝三時。近所に店も民家もない。田んぼばかりの平地にエンジン音が響く。まだあの家から車は出ていなかった。まだ、逃げられるはずだ。

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