お願い

***

 男は一流企業勤めの課長だったが、本当に平凡だった。

「で、どうする」

 私は夏子葉に写真を突き返す。夜のネオン街お決まりの建物に入っていく男と私。よく撮れていた。

 夏子葉は受け取りもせず写真を眺め、さすが。言って笑った。私に対して言ったのか、自画自賛かわからない。なんとなく自画自賛であってほしい。彼女がそんな、当てこすりみたいな事を言うなんて。

「もうちょっと。これだけじゃ腹決められないでしょ、この人」

 彼女は写真の端を指で弾いた。人の家のソファーで寝転がり、テレビに向き直る。土曜の午後、番組は二時間ドラマの再放送だ。妻と幼い子どもとローンを背負った平凡な男の人生を破滅させるには十分な証拠を足りないと言うのに、二時間ドラマで三人殺した男の動機が女なのは許せるらしい。

 私はサスペンスドラマに夢中の夏子葉を放って封筒を探す。ありふれた茶封筒のストックがあったはずだが、言われるまま片付けた――ごみ以外は適当な引き出しに突っ込んだだけだった――せいでなかなか見つからない。

 あの男がなにをさせられようとしているのか、気にはなる。夏子葉に関係ある人物なのか、たまたま彼女の手持ちの仕事に関係しているのか。隠れて調べたが、調べれば調べるほど平凡だということがわかるだけだった。大学で知り合い卒業と同時に結婚した妻、今年で十歳になる息子が一人。

「なにをさせるつもりなんだ」

 男の息子が脳裏にちらつく。あの子と、娘と同じくらいの歳だ。さぞ可愛いだろう。

「颯はなにをしようとしてるわけ?」

 夏子葉の声に手が止まった。私は茶封筒を探している。ごくありふれた、どこにでも売っている茶封筒。足がつきにくいから。浮気現場の写真を男の自宅へ郵送するのに都合がいいから。私はあの男の家庭を壊そうとしている。

「あの子も同じくらいの歳だよね。七年かあ、早いなあ」

 夏子葉のわざとらしい声に、思惑通り腹が立った。会ったこともない他人の子どもと、生後間もなく別れた自分の娘と。

 選ばされてなるものか。

 私は引き出しを放ってマンションを飛び出た。ビール買ってきてー。夏子葉の暢気な声が耳に残った。

 一番近いコンビニの公衆電話に飛びつく。十一桁の番号を早押しした。あの平凡男の携帯電話を呼び出す。コール音が続いて、留守電に繋がる。土曜の昼だ。平凡らしく家族と一緒に違いなかった。

「昨日の夜は楽しかった。良い写真があるから、また会いましょ」

 録画開始のピー、を聞いてから、どう言ったものか頭を振り絞った。息子が大切なら協力しろなどとは言えない。切ってから、これでは弱かったかと思い至る。だが、写真を送りつけ追い詰めて脅迫するのは嫌だ。もし写真を受け取ったのが妻だったら。

 翌日、日曜の昼にも関わらず男は電話に出た。かたく強ばった声で彼は言う。写真を買い取りたい。私はとても払えない金額でそれに応えて、会う店を指定した。

 かららん、重たく響かないドアベルを鳴らして、私は店に足を踏み入れた。喫茶店は、日曜の午後だけあってざわついている。店の多い界隈だ。買い物帰りか途中で休憩する子連れ客が多い。その中で男が一人、店の一番隅の席に座っている。コーヒーカップを握ったままテーブルの一点を見つめていた。平凡に思い詰めている男の向かいに座って、コーヒーと彼のおかわりを注文する。

「妻には黙っていてくれ。金は必ず用意するから。頼む」

 この通りだ。テーブルに両手をつこうとして空のカップを握ったままだったことに気がつき、慌てて手放して、彼は頭を下げた。テーブルに額と鼻を押しつけ、なかなか上げない。昨日夏子葉が見ていたドラマにこんなシーンがあった。意図せずため息が出る。男の肩が跳ねた。

「別に、金は必要ない」

 彼が恐る恐る顔を上げる。私を見上げ顔色を窺う眼に舌打ちが、また意図せず出た。灰皿を引き寄せ、煙草に火を点ける。急いてる訳ではない。なのになぜだか落ち着かなかった。一本吸い終えても同じだ。

「頼みたい事がある。そのために、私はあなたを脅迫するよう言われている」

 男は眉根を寄せた。怪訝な顔の中身は不安が七割、希望が三割。そもそも彼は、私が一昨日の夜猫を被っていて、今が素だとも分かっていないような気がした。『こんな態度をとるのは彼女の本意ではない』、そんな身勝手な男の夢想をぶち壊したくなる。

「私にもあなたの息子と同じくらいの娘がいる。あの子を救うためにはこうするしかなかった」

 これは脅迫ではない。懐柔でもない。協力のお願いだ。私は私に言い聞かせる。棘の出そうになる声と煙草に伸びそうになる手を抑えなければ。これはお願いだ。

「あなたが言う通り動いてくれれば、あなたの家族にはなにも起こらない。私の娘も助かる」

 お願い。口に出すと、声は猫を被っていた。結局、男に媚びるしか能が無い。夏子葉の嘲る顔が目に見える。

 男は頷いた。不安を隠しきれてはいなかったが、腹を決めた眼をしている。

 男に指示したのは、彼が勤める会社のある役員が隠し持っているであろう品を盗むということだった。段取りは夏子葉がつけている。ただ、課長職にある男は夜中のオフィスでそれに従えばいい。

 だが、事を終えた後の待ち合わせ場所に男は現れなかった。

 夏子葉は社内の警備システム――役員室周りの監視カメラ、警報装置の仕込みや巡回警備員の監視等で社内に潜入していて、待ち合わせ場所には私一人だった。夏子葉のプランでは、男が品を手に入れ私と落ち合い、その後別の場所で夏子葉と合流する予定だった。男が来なければ移動はできない。なにかあったのか、そうに違いないと思うものの、夏子葉がついていて、夏子葉に限ってあり得ない、とも思う。緊急事態なら彼女から連絡があるはずだ。

 だから待った。だが男と夏子葉が現れたのは、予定の三時間後だった。平凡な顔が、見る影も無く痣と血に染まっている。夏子葉は引きずっていた彼をアスファルトの道路に放り捨てた。

 しくじった。

 しくじりようがない段取りだったのに。理由はこの男にある。だがその原因は私にある。地面が揺れている。ぐらぐら揺れているのは私の視界で、アスファルトを踏む感覚のまるで感じられない足は自分の身体ではないみたいだ。これで娘は捕まってしまうからか、しくじった責任からか、無関係の男の人生に対する罪悪感か、夏子葉の信頼を裏切ったからか。

「このくらいは役に立ってよ?」

 夏子葉は乗ってきた車のトランクを開けた。中に詰まった死体の三人はあおい髪をしている。思うことも考えることも山のようにあるはずなのに、私の硬直した頭は死体の処理しか考えられない。

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