あの日は続いている
身体に走った緊張をそのままに、音をたてず立ち上がる。腰から拳銃を抜いてリビングのドアへ忍び寄った。足音はない。鍵を開け、入ってからドアチャイムを鳴らし、未だ玄関で待っているなんてことはないはずだ。
「入るよー」
夏子葉。夏子葉の声だった。声の後にドアが閉まり、鍵を掛ける音まで聞こえた。どうして。思い、思い当たる節を探して、今はそれどころではないと振り払う。拳銃を握る手に力が入る。手に汗をかいていた。どうして。いや、そもそも彼女はここを知っている。いつ来てもおかしくはないじゃないか。胸にくすぶりが渦を巻いて、なかなか姿を現さない夏子葉に焦る。焦っている。落ち着けと念じるほど焦りに輪がかかる。「きったない」独り言と足音はまだ遠い。まだか。
ちらり、廊下を覗いて、勝負はついていた。
暖色の明かりが照らす廊下の中程に立っていた夏子葉と眼が合い、反射的に身を引いたが、駆けてきた夏子葉――長くない廊下だから数秒もかからない――に拳銃を掴まれ、揺らいだ上半身を立て直す暇もなく伸びてきた左腕を躱した、はずが、首を握られ壁に叩きつけられていた。
夏子葉は左手で私の首を締め上げながら、私の手から拳銃をもぎ取り放った。彼女の空いた右手が頬のすぐ横の壁を叩く。熱く荒い鼻息、男と同じ眼。なんで来た、は愚問だった。二年間も恋人をしていたのだからわかる。
しかし彼女は左腕を離した。本人も不満げだが、私は咳き込んでしまって、声が出せない。
「あんな物騒な物振り回して、危ないじゃない」
彼女は右腕も降ろし、喉を押さえる私を見下ろす。親友の眼だ。その奥に熱を帯びた炎が渦を巻いているのが見えるようで、私は眼を逸らした。
流風と嵐が白伊家を出たあの日、夏子葉は本当に二人を見逃したらしい。私が見届けたわけではないが、タイ兄に聞いた話ではそうだった。その代わりに私は夏子葉のものになった。あの家を出られたのは、彼女が榊麻耶の護衛に抜擢されて、私を追えなかったからだろう。
「今さら連れ戻しに来たわけじゃないから。あ、ケーキ食べていい?」
彼女は今や瑠璃でありながら限りなく白伊に近い。麻耶の指図で何度となく瑠璃と対峙し、同族を何人も手にかけている。それでもまだ家族だと言い張る瑠璃が、私にはよくわからなかった。
夏子葉は我が物顔でソファーに腰を下ろす。さっきまで私が座っていた場所で、私の咥えていたスプーンでケーキを食べ始める。
「なにをしに来たの」
敗北感でなにもできない。飛びかかってやろうかとは思った。だが、きっと夏子葉は私がなにをしようが構わないのだ。どうせ敵わないと知っているから。しかも事実だ。
「そんな声出してもだめ。いつもの虚勢を見せてよ」
「・・・・・・何の用だ」
虚勢。言い当てられて思い知る。やはり敵わない。夏子葉は声を弾ませた。それそれ。
「麻耶は知ってる。今度は私が言ったんじゃないからね。それで、私がその任を仰せつかったんだけど」
なんのことだなんて明白すぎる。嵐。事態は既に最悪の方向へ転がり出していたなんて。特に私にとって。
「私に何をさせたい」
あの日と同じだ。これまでずっと後悔してきた。その度に言い聞かせてきた。ああしなければ二人は助からなかった。でもその度に、本当にそう? 疑う自分がいる。
同じことをしようとしている。わかっているのに、本当は高揚している。私も娘のためにできることがある。
「まずは、この男に言うことをきかせてほしい」
得意でしょ。言って夏子葉が出した写真にはひとりの平凡な男が映っている。私はそれをひったくった。
***
図鑑を抱えたまま眠っている少女の片足が、ソファーから落ちている。部屋に入ってきた途端眼に入った光景に、流風は呆れて息を吐く。起こさないように静かに近づいて、少女の足をソファーの上へ、はだけた毛布をかけ直した。呆れていたはずの彼の顔はほころんでいる。少女は彼の娘だった。彼女が眠ってなお、ひしと抱えて離さないのは、彼が三日前に買ってやった誕生日プレゼントだった。
まったく、誰に似たんだか。眠る娘の前に座り込んで流風は小さく呟く。彼も娘の母親も、読書が好きではない。二人とも分厚い図鑑を鈍器としてしか使ったことがなかった。
尻ポケットから写真を引っ張り出した。すっかりぼろぼろになった写真には赤ん坊を抱いた少女が映っている。彼は写真と娘を見比べて、やはり寝顔は母親似だと、何度目か分からない確認をした。
「ねえ」
部屋の戸口にやってきた少年が流風に声を投げた。流風と同じあおい髪、彼によく似た端正な顔立ちをした少年は、流風の弟、翼だ。
汚れた窓越しでぼやけた朝日に浮かび上がった部屋は薄汚れている。暖色に染まっても灰色だ。そんな中に真黒い髪の少女と、あおい髪の男、あおい髪の少年が、いる。流風は弟を睨み付けて立ち上がった。すれ違いざま露骨に舌打ちをした彼の態度に翼は腹が立ったが、可愛い姪っ子が眠っていたから言い返すのを我慢した。
隣の部屋には大の男が二人、女が一人。三人とも髪はあおい。流風と翼の家族だ。
で、他には。流風は三人に聞く。荒れ果てた灰色の部屋のテーブルに使い古したパソコンを置いて、三人と一人は輪をつくる。ぼそぼそ、濁った朝日だけの室内でパソコン画面の明かりに照らされた四人の顔は真剣だ。翼は輪の外で、それを見ている。なにを話しているのかは聞こえない。
「早く逃げようよ」
翼はしびれをきらして言った。四人が彼を見る。四人の間から見えるパソコンの画面には、十分前と変わらず家系図が表示されていた。三人がそれぞれ呆れたり肩をすくめたりお前が言えと無言で面倒を押しつけたりする中で、無表情に流風は翼へ歩み寄った。弟を見下ろして、彼は言う。黙ってろ。
翼は沸騰した。なんだそれ。颯じゃないからって。僕のせいじゃない。
最初に手を上げたのは翼に最も近かった流風だった。だが、翼を隣の部屋の壁まで飛ばしたのは三人の内の一人の蹴りだった。
四人は部屋に入ってきて、眠っていた少女は起き上がり眼をこする。周りを見回し、うずくまる翼を見て飛び上がった。
「やめてよ! なんで翼をいじめるの!」
三日間片時も手放さなかった図鑑を投げ出して、少女はスカートの裾を固く握った。潤んだ眼に見上げられて四人は言葉に詰まる。八つ当たりだ。流風には口が裂けても答えられない。
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