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決行はすぐだった。ここから出よう、そう言った彼は切羽詰まっていた。数日前にはそんな事なかったのに、急にどうしたのか。そんなことを彼が説明するわけもなく、聞かされた作戦はいたってシンプルだった。
瑠璃は皆味方だ、全員で援護するから嵐を抱いて走れ。
時間きっかりに縁側の障子を開けたのは麻耶だった。腰を浮かせていた私を見て、目を丸くする。
「どこへ?」
どうせどこへも行けないくせに。すぐにそんな嘲笑に切り替えて、彼女は手に持っていたものを差し出した。真っ白く艶のある紙が、白い幅広の紐で丸め結わえられている。早く取れと彼女が一歩踏み出す。私はそれを掴もうとして、腕が上がらない。
新しい『交配』計画図。家系図の予定表。家出のきっかけはこれだった。去年の計画図に初めて私の名前が記されていて、相手は。相手は変わっているはずがない。そう簡単に変わるものなら、このわがままに流風と瑠璃の命を賭けたりなんかしなかった。
「あの子、大抜擢だよ」
麻耶がささやく。あの子。
気付けば家系図を広げていた。名前が多く、そのどれもから棒がありとあらゆる方向に伸びていて見づらい。今までの記載は灰色、書き足された分は濃い黒、重要度の高いものは朱く囲われている。朱い丸の一つに、私の名前がある。産まされる子どもの父親は灰色。去年から変わっていない。その下に、朱い丸がある。黒い字は嵐だ。
なんだ、これは。
「なんだ!」
麻耶の胸ぐらを掴んでいた。この女を問い詰めても何も出てこない。そんなことはわかっていて、でも、止まらない。
麻耶は嘲笑した。柱に後頭部を押しつけられ、追い詰められながら、彼女の口はわらっていた。どうしてやろう、思うものの、私には素手で人を傷つけられる程の技術はない。刺せるものがあればこの首に刺してやるのに。
「今度、こそ私のもの、だ」
締め上げた喉から麻耶が声を絞り出す。優越に満ちた眼。広げたまま落とした家系図を見遣れば、麻耶から伸びる黒い線が彼の名前に伸びている。
麻耶を突き飛ばした。自分にこれだけの腕力があったのかと、びっくりするほど勢いがつき、麻耶は部屋を区切るふすまごと倒れた。そこに家系図を投げつけてやる。こんなもの、こんなもののために、なんて馬鹿な。この女よりもずっと、私は大馬鹿だ。
廊下側のふすまが鋭い音をたてて開く。大股で踏み込んでくるのはいつも通り監視任務だったらしいタイ兄だ。私は彼とすれ違おうとして、腕を掴まれ、部屋の中へ、突き返される。裾を踏んで尻餅をついた。彼は麻耶を甲斐甲斐しく助け起こす。
どうして。瑠璃はほとんどが味方だ。白伊に従順なのは表面上だけで、いざとなれば助けてくれる。今までずっとそうだった。今回の作戦だってそうだ。
麻耶はタイ兄に礼の一つも言わず、私を一瞥して廊下側から出て行く。それをただ見ていた私に彼は言葉を放って、出て行く。ふすまが閉まれば何事もなかったかのようだ。きっとタイ兄も何事もなかったかのように廊下に立っているんだろう。
お前、死にたいのか。
タイ兄はそう言った。
確かにこの家から出るには命の危険が伴う。前もそうだった。白伊はどうしても私の継いだ遺伝形質が欲しいらしい。手に入らないなら、いっそ殺してしまうほどに。それでも出たい。わがままで出て、戻ってきた。だが今度こそあの計画図――家系図に囚われずに、生きるために。生きるために命をかけるなんて当然のことだ。瑠璃はみんなそうじゃないか。
ずんずん、聞き慣れた足音と共に、今度は夏子葉が廊下側から入ってくる。腕には嵐を抱いていた。最近のミルクの時間ではない。しかも、さっきまで麻耶がいて、騒ぎになっていてもおかしくない今、嵐を連れて来られるなんて。
「どうしたの、怖い顔して。怖いの、やー、よねえ」
彼女はわざとらしい猫なで声で嵐の顔を覗き込んだ。赤ん坊はきょとんとする。
「やっぱり颯は、流風が一番なんだよね」
夏子葉はきょとんとしたままの赤ん坊を揺すり、私に背を向ける。夏子葉、呼ぶものの、彼女は無視して、
「でもわかるなあ、こんなに可愛いんだもん。あの流風がここを出るなんて無茶言い出すの、納得だよ」
遠のいていく。ぱき、彼女の足が、落ちたままの家系図を踏んだ。
「麻耶が知ってたらどうするかな?」
猫なで声で聞く夏子葉に、赤ん坊は答えない。
なにを話してるの。なにをしに来たの。問いたい。でも答えはきっとわかっている。彼女は、麻耶に話した。瑠璃がなんのためになにをしようとしているのか。そして夏子葉は私に選ばせたい。彼女を止めるか、動かすために、なにかを。
夏子葉が赤ん坊を差し出す。私は一歩一歩、近づいていって、嵐に手を伸ばす。
「ね、颯の一番はさ、やっぱり流風なんでしょ?」
言う夏子葉の吐息が頬に当たった。私は俯いたまま、嵐を受け取り見つめたまま、顔を上げることができない。娘の眼がじっとこちらを見ている。眼だけを上げれば、至近に年下の姉で親友の眼がある。
肩に触れる感覚がある。恐る恐る、しかし徐々に確かに強さを増す手は夏子葉の手だ。
この子は見逃してあげる。彼女の吐息がささやく。
夏子葉は私に選ばせたい。彼女を。彼女の腹違いの兄でも、その彼との間に生まれた娘でもなく、夏子葉自身を。親友の、親友だと思っていた少女のくろい眼は見開かれて、熱っぽく潤んでいる。らんらんとして、獣の様な眼に腰が引けた。家出している間何度となく見た男の眼だ。
肩に爪が食い込む。でも痛みは鈍い。どうするのが一番良いのかわからない。夏子葉は麻耶に計画を漏らした。嵐は見逃してもいい。私が、夏子葉を選んだら――受け入れたら。どうして。なんで。そればかりが頭を占めていて、決められない。
彼女から眼を逸らす。その先に、踏まれたままの家系図が、朱い丸に囲われた「嵐」が見えた。
子どもが女の子だとわかったとき、絶望した。
この子は、私と同じ思いをする。たとえ髪があおくても、瑠璃でも。私は、私が生きたいのか、この子に生きて欲しいのか。
「流風も、おねがい」
自分で出した声の弱さが、不安を煽った。生まれてすぐのこの子が、ひとりで生きていくなんてできない。懇願するような言い方に夏子葉は笑った。すごく楽しそうに。いいよ、今にも触れそうな唇がささやく。
代償はなににだって必要だ。それが今回、私だったというだけ。腕から力が抜けた。掴んでいたはずの哺乳瓶が、手のひらから滑り落ちていく。
「危ない」
声にはっとした。幼いそれは、翼のものだ。同じくはっとして夏子葉が離れる。見下ろせば、あおい髪の少年が足下に立っていた。兄に似た端正な顔立ちだが、ぼんやりした印象を与える少年。落としたのを受け止めたらしい、哺乳瓶を持っている。それを受け取ろうと腰を折るが、彼はぱっと背を向け駆け出す。
待て! 夏子葉が鋭く怒鳴って後を追った。麻耶の巻き添えで倒れたふすまから、隣の部屋へ、そこから廊下へ。
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