4
翌朝、私は嵐を抱くことができた。五日抱かなかっただけで、随分重くなったように感じてしまう。無意識に口角が上がり、自分でもどこから出しているかわからない声と言葉が口をついて出る。手足をばたつかせていた娘が、私の腕に収まったとたん、くりくりとしたくろい眼でじっと見上げてくる。哺乳瓶に吸い付き、ミルクを飲む姿の必死さについ笑ってしまう。あやしながら、頭の片隅には次いつ会えるだろう、そんな不安がちらついていた。
話しかける声ひとつに反応してくるくる動くまるい眼。小さくても動き回る手足。
一挙一動を眼に焼き付けたかった。だが、哺乳瓶が空になった途端、腕が伸びてきて、嵐が奪われてしまう。ついでとばかりに哺乳瓶を乱暴に奪い取って、麻耶は舌打ちした。不機嫌を露わに、赤ん坊を抱いて部屋を出て行く。大きな音を立ててふすまを閉め、足音を立てて去って行った。家の連中に見つかったら大目玉だろう。そんな無駄な失点を彼女がするのは珍しかった。
まさか麻耶が連れてくるとは思わなかった。しかも朝食も前の早朝に。昨晩どうにかすると言った彼が、ここまで早く手を回せるとは思えなかった。いくら彼でも無理だ。というか、そもそも彼は今なにをしているのだろう。昨晩会った様子は一ヶ月前とそう変わらない。家出をそそのかした処分を、それはもう厳重な処分を受けていると思っていたのに。
また会えたら聞こう。”また会えたら”なんて後ろ向きに考えてしまうようになったのはこの家に戻ってきてしまったからだ。以前はそんなこと考えなかった。失うものもなにもなかったし、なにより、前向きすぎる親友がいた。
「はあい。呼んだー?」
ハートマークの付きそうな媚びた声と、地の図々しい声を使い分ける主が、麻耶が閉めたばかりのふすまを無遠慮に開く。
あおい髪をポニーテールにして、ぴっちりとした黒いパンツに黒いTシャツ。後半とはいえ十代とは思えない筋肉質で引き締まった身体。彼女の後ろに、今日も廊下で監視任務らしい屈強な男が周りをきょろきょろして慌てているのが見える。
「タイ兄、大丈夫だって。この夏子葉かずは》様に抜かりはないんだからねー」
おい、言い返そうとする屈強な男――夏子葉曰くタイ兄を閉め出すように、後ろ手にふすまを閉め、彼女は心外とばかりに腕を組み呟く。全く、心配性なんだから。
「え、夏子葉、大丈夫なのか?」
「もう! その言葉遣いやめてって言ってるじゃない。お嬢様はお嬢様らしくお上品な――」
夏子葉はお決まりの説教を始める。要するに、私は流風の影響を受けすぎている云々。彼女は流風の腹違いの妹で、年は私の方が上だ。瑠璃の手伝いをするのに手取り足取り色々教えてくれたのが夏子葉だった。瑠璃の中では長いこと末っ子扱いされていたため、私を妹みたいに感じているらしかった。きょうだいを実感したことのない私にとっては年下の姉で、唯一の親友だ。
「姉ぶるなら弟の前でしてくれ。
「ああ、うん、あの子ねー。なんか私にだけは懐いてくれなくって。なんで?」
「それは、そうだな・・・・・・、自分の胸に手を当てて考えた方がいい」
なにそれ! 憤慨する夏子葉がおかしくて、私は声を出して笑った。翼は流風の弟だ。腹違い、父親違いばかりのあおい髪の一族の中で、珍しく両親とも同じ兄弟だった。そんな翼が今のところ瑠璃家の末っ子で、夏子葉は待望の弟を得たのだが、大人しい彼は明るく前向きすぎる彼女が苦手みたいだった。
「やっぱり、元気ない」
急に真剣になって肩を掴むものだから、私はどうしたものかわからなくて一先ず笑っておく。この兄妹には嘘のつき方をみっちり仕込まれた。この家で生きてくのに不可欠な武器だ。笑顔で隠すのは常套手段だった。
夏子葉が私の額を指で弾く。いたい! つい言った言葉の向こうで彼女がため息をついた。
「この夏子葉様を騙そうなんて何百年も早いんだからね!」
まったく、あいつ。ぶつぶつ呟くのが聞こえるが、あえて触れないでおく。
「何か用があって来たんじゃないのか?」
へっ? 彼女は間抜けな声を上げる。次いで、もぞもぞ言っていたが、
「流風がさ、会ったくせになにも言いやがらないから気になって」
誤魔化した。やろうと思えば息をするみたいに嘘をつけるくせに、たまにこうだから放っておけない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます