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 ささやく声のさざめきが気色悪い。布団にくるまっていても耳に付いて離れなくて、息苦しさも、汗でべったり寝間着が貼りつく感覚も気持ちが悪い。

 布団から頭を出す。空気がひんやりしている。もう昼だろうか。障子越しの陽の光は薄暗い。がらんとした部屋にひとり。布団と箪笥だけの空間に廊下を、行き交うさざめきが反響している。子どもを産むためだけに戻ってきた実家に、まだ自室が残っているとは思わなかった。大勢が住む屋敷で、ひとりのためだけには広すぎる和室。三方をふすまに囲まれ、一辺は庭に面している。

 縁側を通り過ぎる影がある。ぎし、床が微かに軋むだけの足音に肩が上がった。ぱっと起き上がる。なぜそうしたのかはわからない。身体に染みついた反射だった。

 影が立ち止まった。顔がこちらを向いて、身体も向き直る。

 慌てて起き上がったせいで音が聞こえたのだ。息を潜める事は彼にみっちり仕込まれたのに。

 すらり、擦れる音だけで障子を開けたのは青い和装に身を包んだ女だった。くろく短い髪を無理矢理結い上げ、意地悪い微笑を浮かべている。榊麻耶。彼を追い回し、私をここへ急き立てた女。

「あら、お嬢様。お早い起床ですね。まだお昼ですよ」

 麻耶はここぞとばかりに当てこする。

「昼? どうして起こさない。あの子の食事には立ち会える約束」

「さあ、私は存じません。白伊でも瑠璃でもありませんから」

 知ったことではないと、彼女はそう言う。

 麻耶は、白伊の、この家の男女の間に生まれながら、白伊を名乗ることを許されないのは私が生まれたからだという。白伊の連中が理想とする遺伝形質を、麻耶よりも私の方が多く受け継いでいたから。

 そして彼女は白伊に下働きさせられている瑠璃という家の子どもを生んだ。嵐の父親である彼も瑠璃で、麻耶はずっと彼に想いを寄せていたが、彼女が生まされた子どもの父親は彼ではない。

 彼女は白伊の血を濃く引いているから瑠璃も名乗らせて貰えなかった。白伊でもなく瑠璃でもない。だから彼女にこの家で居場所はほとんど無い。その理由は突き詰めれば私が生まれたことにある。逆恨みもいいところだが、同情せずにはいられなかった。彼女も白伊の被害者だ。本人はそんなことをこれっぽっちも考えていなくても。

「とにかくあの子に会わせてくれ」

 食事の度に会わせてくれる約束だった。なのにひと月を過ぎてから、日に一度も会わせてもらえない。

 立ち上がり踏み出した足が寝間着の裾を踏んだ。つんのめって転び、ふすまの縁に額をぶつける。

「はしたないですよ、お嬢様」

 優越に満ちた麻耶の声が降ってくる。出産をだしに、私をこの家に引き戻したことで彼女は立場を確保したらしい。

 見上げると、石けんのにおいがした。麻耶がわざとらしくほどけたうなじに手を遣って背を向ける。その手の傍にはあおぐろい跡があった。

 身体が凍り付いた。麻耶が角を曲がって見えなくなってしまうまで、縁側に手をついたままでいた。

 別に、珍しいことではない。この家で『交配』が計画的に行われているのは今に始まったことでもない。恨みを晴らして出世も勝ち取った麻耶がその計画に組み込まれるのは自然な流れだろう。ただ、相手が彼のような、そんな気がした。麻耶のあの優越に充ち満ちた態度は、私から彼を名実ともに奪ったからではないのか。

 いてもたってもいられず、屋敷側のふすまを開ける。

 廊下に立っていたあおい髪の男と眼が合った。黒いパンツに黒いTシャツ。やすめの姿勢で直立不動、盛り上がった全身の筋肉が服の上からでも分かった。あおい髪は瑠璃家の特徴だ。両親のどちらかが瑠璃なら子は必ずあおい髪になる。そんな一族のひとりが、家出娘の監視までさせられていた。

 いかがされましたか。屈強な男は一歩こちらへ踏み出した。狭い廊下はそれだけで塞がれてしまう。

 あの子に、嵐に会いたい。それより、

流風るかに会いたい」

 彼に会いたい。彼はどうしているだろう。私が勝手にこの家に来てしまって、彼は後から連れてこられたそうだ。

 男は頷く。まっすぐこちらを見る眼が頼もしい。

「ええ、必ず」

 よほど不安な顔をしていたらしい。男が肩を叩いた。その温かさに、大丈夫だと勇気づけられる。大丈夫。きっと彼にもあの子にも会える。

 くるり、視界が反転した。出てきたばかりの薄くらい部屋に向かされ、背で腕が捻り上げられる。

 部屋に戻れ! 男の鋭い声の向こうに、ぎし、床の軋む足音がある。

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