第2話 それは嫉妬、それとも憎悪?

・1・


 とある大手の総合商社。

 桜子はそこでOLとして働くことになっている。今日が記念すべきその一日目だ。

(昨日の夜、春哉くんは頑張れって言ってくれた。春哉くんのために頑張る! それでまた褒めてもらうんだ♪)

 だがすでに午前中の業務が終了した時点で、桜子のやる気はどん底まで落ちていた。

 オリエンテーションは一週間前に済んでいた。今日からは本格的に先輩社員に付いて業務に取り掛かる。

 業務内容は頭に入ってるし、目立った失敗もない。問題はそこではないのだ。

 受付では先輩の横でいろんな企業から来た若手の営業マンのキラキラスマイルを何度も浴びせられ、そのうちの数人には後で連絡先を半ば強引に押し付けられた。

 事務処理では主に会議資料の整理を担当したが、ことあるごとに「祭礼くん」と知らない男性社員から必要以上にお声がかかる。しかもその内容は薄っぺらいことこの上ない。


 正直言って、大大大大大大大大大大大大大大大大迷惑だった。


 やっとの思いで昼休憩に入り、食堂の席に座ると桜子は深いため息をついた。

(仕事ってこんなに大変なものなのね……知らなかったわ)

 彼女の場合、大変の種類が違う。桜子は新入社員の中でもすでに頭一つ抜けるほどの優秀さで、与えられた仕事は完璧にこなしている。

 春哉を殺すために特化した手先の器用さと、春哉を殺すために特化した思考速度。春哉を殺すために特化した集中力などなど。彼氏のために磨き上げてきたスキルその全てが何やかんやでかっちり噛み合い、プラスに働いてしまった結果である。

 極力目立たない仕事を志望したのは彼女自身だが、そのあまりにできすぎる手腕と端麗すぎる容姿から、OL業務に留まらせるのはもったいないとすでに人事部が動き始めているほどだ。普通に考えれば喜ばしいことばかりだ。女性の出世は今や夢物語ではない。


 問題は案の定、対人関係だった。


 今まで春哉以外の人間とまともに口を聞いたことすらほとんどない。会話をしたとしても記憶にすら残っていない。そんな彼女が人前で堂々と言葉をかわすことができるだろうか?

(……無理……絶対……生理的に)

 ただ受付で座って笑顔を振り撒いていればいいと思っていた。ただ言われたことをミスなくやればいいと思っていた。

 しかし、その考えは甘かった。甘すぎた。

 数多の男が桜子の美貌にハエのように引き寄せられてくる。春哉にしか興味のない桜子にとって、それはこれ以上ない苦痛だった。


「あ、いた。祭礼さん」

 三人の女性社員が桜子を囲むように座った。

 彼女らは桜子と同期入社のOLだ。右のおっとりした女性が中井加奈子。左の快活そうなのは瀧蘭子。そして正面の眼鏡をかけているのが成井凛だ。三人ともとてもいい人で、初対面の頃から桜子にも優しく接してくれている。

「祭礼さんいっぱい男の人に言い寄られてたね。羨ましいなぁ」

 凛は尊敬の眼差しで桜子を見つめる。

「……そう? 私は辟易したわ」

「うわっ……でたよ、モテる女だけが言える台詞。私も言ってみたいな〜」

「あらあら」

 蘭子は冗談交じりにそう言い、加奈子はにっこりとほほ笑む。

「ずばり、モテる秘訣は?」

 凛は右手をマイクの代わりして、桜子の口元へ持っていく。

 桜子は少しうっとうしそうにしながらも、何を思ったのかフフと笑ってこう言った。


「……一途であり続けることかしらね」


 その答えに三人の表情が固まった。

 たった数週間の付き合いだが彼女の今までの行動を見て、三人とも桜子は恋愛にまったく興味がないものだと思い込んでいたのだ。その彼女からそんな言葉が出てきたらびっくりもする。

「ちょちょちょ! 祭礼さん彼氏いるの!?」

「え!? 誰々? 社内の人?」

「あらあら」




「へぇ、年下くんかぁ」

「何か意外……でもいいなぁ。私も彼氏欲しい」

 蘭子と凛は口々にそう言った。

「その春哉さんとはいつから?」

「そうね……もう二年になるかしらね。付き合い自体はもっと長いけど」

 春哉のことを話す桜子は実に綺麗だ。その笑みに三人は思わず息を呑む。

「あ、でもそれくらいになるとそろそろさすがに倦怠期に入るんじゃないの?」

 蘭子はおもむろにそんなことを言った。

「……けん、たいき?」

 桜子は首を傾げる。まるで初めてその言葉を聞いたかのような反応だ。

「私さ、大学入った頃すぐに先輩と付き合ってたんだけど、ちょうど二年くらいしてお互いなんかつまんないなって思い始めてさ。そのままズルズル引きずってたら向こうに浮気されちゃっててさぁ。だから一発ぶん殴ってこっちから振ってやったんだぁ。ハハハ」

 蘭子はそう言って笑い飛ばす。

「あー、なんか目に浮かぶわ」

「あらあら」

 蘭子は続ける。

「だからさ、祭礼さんの方が年上なんだからちゃんとリードしてあげないと。大学生はたくさん誘惑があるんだから! もし同じ部に女の子でもいたらそれはもう……って祭礼さん?」

 桜子は何だかそわそわし始めた。手に持つコップが明らかに震えている。

「……春哉くんはそんなことしない春哉くんはそんなことしない春哉くんはそんなことしない」

「ねぇ……」


「確かめなきゃ……」


 そう呟くと、桜子はまだ少し残った昼食のプレートを持ってどこかへ行ってしまった。

「ねぇ、私マズい事言っちゃった?」

「あれは地雷踏んだね」

 蘭子の言葉に凛がそう答えた。

「あらあら」


・2・


「おはようございます。式美先輩!」

 パッと周りが一気に明るくなったと錯覚するような元気な挨拶が聞こえた。

「あぁ、おはよう朝子くん」

 春哉が所属する部室の扉の前で一人の少女が立っていた。


 小日向朝子こひなたあさこ


 その名前の通り、朝に煌く太陽のようにとても元気で、清々しいほどに誠実な女の子だ。好きな言葉は正義。嫌いな言葉は悪。実にわかりやすい。

 赤いジャージを颯爽と着こなした彼女は、一見どこの運動部だと思ってしまうが、れっきとしたうちの部員で可愛い後輩だ。

「わざわざ僕を待ってたのか? ……って、昨日部室の鍵返し忘れたんだった」

「もう先輩、ダメですよ」

 そう言って朝子は笑った。


 彼らの所属する部の名は、『犯罪心理学研究会』。通称、犯研。

 文字通り犯罪者の心理について議論し、研究することを目的としている。が、残念なことに現在部員は二名。というより元々先輩方の溜まり場だったのを春哉が引き継ぐ形で今に至る。部という体を残しつつ、一人ゆっくりできる場所を手に入るのだ。春哉にとってはなかなかにいい話だった。


 そこにある日、朝子が入部届を提出してきた。

 まるで汚れを知らないかのような朝子の目が最初は苦手で再三断ったが、認めるまで続くエンドレスアプローチについにはさすがの春哉も首を縦に振ってしまった。

「先輩、レポートのチェックお願いします!」

 朝子は両手で春哉にレポートの束を差し出す。

 卒論に追われている春哉は、片手間で朝子のレポートに目を通す。

 朝子の家系は代々警察官らしく、彼女も将来はそうなるのだろう。この部に入ったのはそのための特訓らしい。

 正直、犯罪者の考えなんて知りたくもない。犯罪心理という学問にも興味はない。ここは春哉にとって隠れ蓑みたいなものでしかないのだ。

(まぁでも、一番近くに一番ヤバい人がいるから嫌でも詳しくなっちゃうんだよなぁ……)

 今では春哉は毎日のように犯罪心理の研究を独学でしている。それはひとえに桜子のためだ。彼女の殺人衝動の源泉が何なのか、彼氏として知る必要があった。というより常日頃予防線を張らないと、次に目を覚ました時には彼女に天国にご案内されかねない。


「電車内における痴漢の心理について……か」

「はい! 今朝書きました!」

「……一応聞くけど、何があった?」

「今朝、一人の女性を狙っていた痴漢グループをまとめて成敗しました」

「……」

 春哉は頭を抱えた。

 彼女がいつもジャージ姿なのは、朝ランニングするとか、運動部を掛け持ちしているとかそういう理由ではない。いつどんな状況でも迅速に動けるようにするためだ。

 事件の際は彼女は弾丸のようにどこへでも飛んでいく。朝子曰く、犯罪者の心理を理解するには、本人に聞くのが一番手っ取り早いらしい。

 大衆が注目する中で、ひっ捕らえた痴漢グループを正座させ、「どうして痴漢なんてしたんですか!! 百文字で答えなさい!!」と問う彼女の姿が目に浮かぶ。

「まず読む前に一つ。これは前にも言ったことだけど、危ないから自分で犯罪者に近づこうとするのはやめるんだ。君だって女の子なんだから、何かあったらどうするんだ」

「……女の子」

「?」

 朝子は頬を染めてそのワードを反芻する。熱くなった頬を冷たい両手で冷やす。

「朝子くん?」

「ひゃ、ヒャイ!?」

 素っ頓狂な声を上げた彼女は、その場から一歩飛びのく。なぜか戦闘態勢の構えだ。

「とにかく。あんまり危険なことはしないでくれ。相手がナイフを持ってたらどうするつもりだったんだ?」

 毎日のようにナイフで襲われている青年が問う。

「……うっ……わかりました」

 朝子は深く反省する。すると何かを思い出したようにカバンを探り始めた。

「あ、先輩。そういえばお渡しするものが……」

 彼女の反省も見られたところで、春哉はパソコンを一旦閉じて、再度レポートに目を通す。


 すると、ピロロロロと春哉の携帯が音を鳴らした。

 画面には「桜子さん」と出ている。春哉は朝子に一言断りを入れて通話ボタンを押した。

「何ですか桜子さん? 今仕事中でしょ?」

『えへへ。今社内のトイレなんだけど、同僚と話してたら春哉くんの声が聴きたくなっちゃって♡』

 なかなか可愛いことを言ってくれる。思わずドキッとしてしまった。だが、あえて春哉は鬼になる。

「じゃあもうこれで満足しましたね? お仕事頑張ってください」

『酷ーい。私今日たくさん男の人と話をしなければならなかったのよ? 春哉くん私が誰かに捕られてもいいの?』

「それは……」

 いろんな意味でヤバい気がする。

「コホン。とにかく、夕食作っておくので今日はまっすぐ帰るんですよ?」

『うん。春哉くん、愛して――』


「式美先輩! 見つけましたこれ、昨日の夜に頼まれていた資料です」


 朝子が両手に山のような資料を持ってこっちに来る。

「ああ。そこに置いておいてくれ。すみません桜子さん。何です……ん?」


『………………』


 電話の向こうから声が全く聞こえない。

 突然、何かすごく嫌な感じがした。

「えっと……桜子、さん?」


 


「え、あれは……」

 ブツッ。

 答えるよりも先に電話が切れた。

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