第1話 朝は一日の始まり、下手をすれば終了

・1・


 窓から降り注ぐ光と優しい鳥の鳴き声で式美春哉しきみはるやは目が覚める。

「朝か……」

 欠伸が出ることもなく、目もしっかりと開く。とても爽やかな気分だ。

 しっかり寝て、しっかり起きる。それは春哉にとっては何よりも優先すべきことだ。

 ふと、手のひらに柔らかな感触が伝わる。

 それは確かな体温。人の温もりと言うやつだ。

 春哉は「やれやれ」といった感じで愛しい女性の肩を優しく揺する。


「桜子さん、朝ですよ」


 その女性は当然のように生まれたままの姿で春哉の横で眠っている。

 日本人らしい真っ黒な長髪。それとは対照的に陶器のように白く美しい肌。整った顔立ちはきっと見る者を捉えて離さないだろう。

 彼女は静かな寝息を立てて春哉の腕を掴んでいる。どうやら寝ている間ずっとそうしていたようだ。わずかに汗の感触がした。

 白いシーツを纏った彼女は窓から差し込む朝日に照らされる。その光景はさながら天女のようで、心臓を鷲掴みされるようなゾッとする美しさを放っている。まるでこの世のものとは思えないほどに。

 しかし、そんなことでは春哉の心は微塵も揺らがない。そしてこれから彼のやることも変わらないのだ。

「ほら、起きてください!」

 とはいえ当然最初からこの菩薩メンタルを持っていたわけではない。春哉も年頃の男である。今でこそ平静を保っていられるが、最初は日が続いたものだ。

(僕も成長したなぁ……)

「桜子さん」

 もう一度彼女の肩を揺する。


「……ん、ん~」


 最後の防衛ラインであるシーツもはだけ、春哉の目の前に桜子のあられもない姿が晒される。

 ふと、昨夜の情景が頭をよぎるが、すぐに頭の中からそれを追い出した。

「ん……」

 桜子の大きな目がゆっくりと開いた。その瞳が春哉を見つけると、桜子は嬉しそうに愛しい人の名を呼んだ。


「おはよう、春哉くん」


・2・


 式美春哉しきみはるや祭礼桜子さいれいさくらこは恋人同士だ。

 春哉は今年で大学四年生になる。桜子は卒業し、今年から新社会人だ。

 二人はアパートの一室を借りて一緒に住んでいる。


 毎朝、春哉が二人分の朝食を作る。

 別に桜子が料理ができないというわけではない。むしろ彼女はめちゃくちゃ料理が上手い。それこそお店が開けるレベルだ。


 そんな彼女に極力料理をさせないのは、問題が別にあるからだ。


「春~哉くん♪」

「何ですか桜子さん?」


 ヒュン!


 


 春哉は何事もないように首を左に傾ける。

「あら?」

 さらに数度、桜子は少年の後頭部めがけ――。

 だがは掠りもしない。

 だんだん桜子の顔が不機嫌になっていく。

「むー!」

「むー、じゃありませんよ。卵焼き、できましたよ。さっさとをしまって、席についてください」

「はーい」

 桜子はクルリと百八十度回ってテーブルへと向かう。


 


 


 


 春哉はそのことはわかっている上で特に何も言わない。もう言うつもりもない。


 だってこれが二人の日常だから。



「おいしいわ。春哉くん。また腕を上げたかしら?」

「それは良かったです。今日は少し味付けを変えてみました。ところで桜子さん……」

「なぁに?」

 桜子は右手にナイフ。左手にフォークを持っている。彼女はナイフとフォークを好んで使う。卵焼きも、ご飯も、焼き鮭さえも箸ではなくナイフとフォークで綺麗に切り分けて食べる。


「一応言っておきますけどそのナイフとフォーク、絶対に持ちだしたらダメですよ?」


 我が家のキッチンの引き出しには鍵が付いている。それは彼女に凶器となるようなものを極力持たせないためだ。ナイフやフォーク、箸からスプーンまで。食事の時以外は決して外には出さない。

 他にもいろんなものを取り締まっているが、悲しいことに今日はそのリストについに文房具も追加しないといけなくなってしまった。万年筆、わざわざ買ってきたのだろうか?

 春哉は念のために桜子に釘を刺す。

「……残念だわ」

 桜子は肩を落とす。しかし春哉は一切容赦しない。自分の為にも。何より彼女の本質を知らない他所の人の為にも。

「今日から社会人でしょ? 社会に出て一日目で警察沙汰とか、どんだけ世の中舐めてるんですか……」

「失礼ね。私がそんなことするように見える?」

 桜子は胸に手を当てて、春哉に問う。

「見えますね」

「あう……でもでも、私は春哉くんにしかしないもん!」

 桜子は頬を膨らませて可愛らしく言った。

 言ってる事はかなり物騒だが。


 同居を始めて一年近く経つ。はじめは毎日のように自前のナイフ片手に向かってくる桜子に対して、戸惑う気持ちもあった。


 実家とはわけが違う。誰かにこの異常な光景を見られでもしたら大変だ。


 でも今はもうこの暮らしにも慣れてきた。もとより彼女にナイフを突き立てられようと、部屋に推理作家もびっくりの殺人トリックが施されていようと、春哉はまったく動じない。人間とは恐ろしいもので、毎日同じような問題に出くわすと自然と解決策が出てくるものなのだ。最近では上手く彼女の凶行を隠し、逆に彼女に言い寄ってくる輩を遠ざけるためにラブラブ具合を見せるテクニックさえマスターするまでになっていた。


 それよりもまず、どうして毎日そこまで襲われているのに平気なのかというと、それは彼の体に嫌というほど染みついたある経験のおかげだ。


 式美流柔術。


 ささやかで小さな古い道場だが、春哉は小さい頃からそこで祖父の稽古を受けてきた。

 相手の攻撃をいなし、こちらからは決して攻撃しない。守るためだけの技。

 毎日本当に厳しい修行に耐え、その思想と技術は春哉にしっかりと根付いている。さっきも桜子の背後からの強襲を軽々と避けれたのもその賜物だ。周囲の微妙な空気の流れの変化を読み、空間を把握する式美流の基本技だ。

 残念ながら投げ技などのメジャーな攻撃の手段すら一切持っていないため、正式な柔道の大会では負けはしないが勝つことができない。元よりその基本形から既存のものとは全く違うため、柔道界においては異端みたいな扱いをされている。

 別に体術が好きなわけではない。ただそういう家に生まれたからやらされていただけだ。それでもその経験がなかったらと思うと春哉はゾッとする。もしそうだったらたぶん……いや間違いなく今こうして生きてはいなかっただろう。


 桜子は同居を始めてからというもの一度たりとも春哉を傷つけることはできていない。唯一春哉の体力を削れる時があるとすれば、それは夜、ベッドの上での戦いだけだろう。


「じゃあ僕は大学行きますよ。卒論の準備がありますので」

 洗い物を終わらせ、春哉は部屋から出て行った。

 忘れずに危険物はすべてしまい、鍵をかける。現在鍵の種類は三十種類。ジャラジャラ音を鳴らしてカバンの中にそれを放り込む。

「うん。早く帰って来てね」

 春哉が出て行ったのを確認して、桜子はベッドルームまで軽快にスキップをする。そのままベッドに飛びつきクンクンと犬のように春哉の残り香を嗅ぐ。

「んーーー。春哉くんの匂いだぁ」

 幸せそうなその顔だけ見ると、まさに恋する乙女だ。

 桜子はサイドテーブルの引き出しにしまってある手帳を取り出す。


『四月七日。失敗。今日は今まで何も言われてこなかった文房具で殺害を試みた』


 桜子は唯一許されている先の尖っていない鉛筆で今日の戦果を書き記す。

 もうすぐこの手帳もいっぱいになりそうだ。現在三冊目。


 桜子さんの殺人レシピ。


 一ページ一ページに春哉への詳細な殺害方法あいが綴られている。


「どうやったら春哉くんを殺せるのかしら?」


 桜子は手帳を手放し、うつ伏せでベッドに倒れる。

 愛しい人の匂いに包まれながら、桜子はそんなことを考えていた。

 まるで初めて恋を知った女の子のように。純粋に。そして一途に。

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