そそぎ込まれた夜

 仕事帰りに、上司に連れられてバーに来た。

 繁華街の中なのに、なんだかひっそりとした雰囲気のある店だ。青地の看板に「Moon Dream」とおしゃれな書体の白文字が乗せられている。

 中に入ると、照明は暗めだった。まぁ、あんまり明るいバーって見たことないんだけど。

「おや、久しぶり。……新人くん?」

「そうそう。この四月に入ったから、個人的な歓迎会」

 マスターと上司が気さくに話している。上司の行きつけなのかな、ここ。

 うん、僕もここの雰囲気は嫌いじゃない。

 そんなに広くない店内には、カウンターが五席と、二人掛けのテーブルが三脚で、今はぼく達以外には誰もいない。

 流行ってないのかな、とか、ちょっと失礼なことを考えてしまった。

 上司がマスターの真ん前のカウンター席に座ったので、ぼくはその隣に腰掛ける。

 水割りとスナックを注文して、上司は上機嫌でぼくの肩をぽんと叩いた。

「彼は、仕事覚えも良くてこれからうちの主戦力になっていってくれると思うんだ」

 そんなふうに言われて、すごく照れくさい。

「へぇ、そりゃすごいですね」

 マスターは手を動かしながらも、ぼくの方をちらと見て、人当たりの良さそうな笑みを浮かべた。五十歳ぐらいだろうか、なんか、マスターって言うよりいいお父さん、って感じの人だ。

「――ミツキちゃん、スナック出して」

 マスターは、ふい、と店の奥の方を見て声をかけた。

 カウンターの奥にある部屋、多分スタッフルームかな、そっちの方から「はーい」と声が聞こえて、女の人が出てきた。

 ぼくは、息を呑んだ。

 すごく美人、というわけではない。けど、整った顔の二十代後半ぐらいの女の人だ。

 印象深いのは、目だ。とてもきれいで吸い寄せられそうだ。実際、吸い寄せられてる。

 髪はパーマか地毛なのか、茶髪でウェーブがかかってて、肩より少し長い。

 ちょっと露出が多目の、紫のワンピースが、細身の体を妖艶に引き立てている。

 ぼくは、言葉もなく彼女を見つめた。

「見とれてるなぁ、ま、気持ちはわかる。ミツキちゃん美人だからな」

「うちの看板娘を気に入ってくれたようで、嬉しいですよ」

「やだ、照れちゃうな」

 三人につつかれて、ぼくは我に返った。

 彼女がチーズやクラッカーを盛りつけた皿を持ってきてくれて、ぼくと上司の間に置いた。

 ふわっと、控えめな香水の香りが鼻をくすぐった。

 あぁ、なんだか、すごくいい気分。

 やっぱり失礼なんだけど、どうしてこんな、あまり客のいないお店に彼女がいるんだろう。マスターさんと親子だから、とか?

「うち、あんまり常連さんはいないから、これからも来てくれたら、嬉しいな」

 ミツキちゃんが、ぼくの隣に腰掛けてほほ笑む。

「あ、はい、ぜひ」

 そんな陳腐な返ししかできない自分が情けない。

 マスターがにこにこしながら、水割りを前に置いてくれた。

 グラスを持って、ちびりとやる。

 いつも付き合いでいやいや飲む酒と違って、美味しいと思う。

 ……ここが、人気の店じゃなくて、よかったのかもしれない。

 だって人気の店だったら、ミツキちゃんに接客してもらえないし。


 数日後、ぼくは一人で店に来た。

 月が綺麗に見える夜に、「月の夢」に来るなんて、なかなかロマンチックじゃないか。

 なんて、まだ飲んでもないのに酔ってるな。

 店は、先日と違って、客がいた。でもミツキちゃんは手が空けばぼくの隣に座って、しょうもない話に付き合ってくれた。

 ミツキちゃんは、今日も綺麗だ。


 一カ月後、ぼくはすっかりお店の常連客になっていた。

 でも今日は、いつもと違ってた。

 仕事でミスして、上司にすごく叱られてヘコんでるんだ。

 こんな日こそ、ミツキちゃんに慰めてもらいたい。

「ミスしちゃったの? でも気にしないで」「誰だって失敗ぐらいするわよ」「うんうん、大丈夫だからね」

 彼女が心配そうに、でもおおらかにぼくを包んでくれる。

 くさくさした気分が晴れて、一気に上昇してくる。

 酒をぐいぐい飲んだ。

 すごく、いいきもちだ。五臓六腑どころか、体中にしみわたるよ。


 頭が、ぼんやりとする。

 促されるままにお金を払って、促されるままに外に出た気がする。

 ぼくの意識がはっきりしたのは、アパートの部屋に入って電気をつけた時だった。

 隣には、心配そうにぼくを見る、ミツキちゃんの顔。

 ……え? えっ?

 心臓が跳ねあがって、どくどくとうるさいぐらいに胸の中で響いてる。

 いつも薄暗い店の中で見ていた顔が、部屋の電気に煌々と照らされている。

 綺麗だ。

 整った顔立ち、吸い寄せられるような瞳、ふわふわの髪、妖艶な体つき……。

 散らかった部屋にはもったいない、美しい、女性。

「大丈夫? ちょっとは酔い、醒めた」

 下から見つめてくる目が、あぁ、たまらない。

 黒い瞳は、まるで夜そのものだ。

 電気の光を反射させているさまは、まるで月が浮かんでいるよう。

 月の夢の、姫だ。

 ぼくは、かっと頭が熱くなるままに、激情の赴くままに、彼女を抱きしめた。

「……あっ」

 彼女は驚いて、でも、すぐに落ち着いて、ぼくを見る。

 いいのよ。

 そう言っているような、誘うような、なまめかしい表情に、ぼくは吸い寄せられた。


 体を重ねている間、アドバンテージを握っているのはぼく。

 そのはずなのに、彼女に支配されている気がしてならなかった。

 そりゃそうだ。

 夜を抱くことなんて、できないんだ。

 彼女の中にたゆたう夜が、ぼくの中に注ぎ込まれた。

 心にも、体にも、彼女がしみわたってくる。


 それからも、ぼくは店に通い続けた。

 素敵な「Moon Dream」を見続けるために。

 最近、他のお客さんも増えてきて、ミツキちゃんに接客してもらう時間は減った。

 他の若い男と楽しそうにしている彼女を見ると胸がざわつくけど、嫉妬しても仕方ない。

 彼女はぼくの事を気にかけて、時間が空いたらそばに来てくれる。それでいい。

 ミツキちゃんは、今夜も綺麗だ。


(了)



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 お題:注ぎ込まれた夜

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