さようなら、さようなら
久しぶりの非番に恋人と会ってみれば、彼女の顔色がすぐれないことにエンダーはすぐに気付いた。いつもはつらつと輝いている瞳は曇り、唇に笑みを浮かべているものの明らかに愛想笑いと見て取れる。
「イア、何かあったのか?」
エンダーは、愛しい娘の鮮やかな金色の髪をなでながら尋ねた。
「それが……、お父様が……」
イアは青い瞳を潤ませてエンダーを見上げて、ぽつり、ぽつりと語りだす。
彼女はこの国有数の貴族の家に生まれた。エンダーとは幼馴染として育ち、今ではお互いに惹かれあっている。彼らの仲は双方の家も認めるところであり、今は城勤めの騎士であるエンダーとはゆくゆく結婚を、という話が出ていた。
だが、どうしたことか、イアの父親が突然、イアに他の男との結婚話を持ち出したのだ。相手は西国の大商人の息子だと言う。
どうか国のためにこの話を飲んでほしいと父親が言う。一見、要望を述べているように見える父だが、イアが断り続けるならエンダーの家に圧力をかけると暗に示されたそうだ。
家のためなら犠牲をいとわない所のある父のことだ、本当にやりかねない。だがエンダーとそのような形で引き離されるのは、命を捨てよと言われているようなものだ、と、イアは大粒の涙をぽろりとこぼしながら訴えた。
「なぜお父上は心変わりを……。それにしても国のため、とは」
エンダーは驚きに口を軽く開いて、ライトブラウンの髪を掻きあげて空を仰いだ。
「わたし、エンダーと離れるぐらいなら、そればかりか他の男性と結婚などするぐらいなら、いっそ死を選びます」
気弱なイアの声はしかし、相当の覚悟を持って響いた。
「それは駄目だ」
エンダーが慌ててイアの手を包み込むように握ると、ライトグリーンの澄んだ瞳でイアの目をまっすぐに見つめた。
「無駄に命を落とすぐらいなら、僕と一緒にどこか遠くへ行こう」
エンダーの真剣この上ない表情に、イアは「え?」とか細い声を漏らした。彼が発した言葉の意味が彼女の心に沁み込んでくるほどに、イアの表情が明るくなる。
「でも……、それではあなたに悪いわ。せっかく騎士団の中でも地位が上がってきたというのに」
「確かに、僕は国のためにと忠誠を誓った騎士だ。だが一番大切なのはイアだ。一人の女性も守れない、幸せにできないのであれば国など守れるわけがない」
エンダーの真摯な声に、イアは感嘆の声を漏らして、愛する騎士の胸に飛び込んだ。
そうとなればはやい方がいい、と、駆け落ちの算段を話しあう。
さすがに今日というわけにはいかない。しかしあまり時間をかけてもいられない。そこで、次のエンダーの非番の日に国を抜け出すことにした。それまではそれぞれ普段通りに生活をし、イアは親の持ってきた縁談を、了承はしないが前向きに考えるそぶりを見せる。
「僕はできるだけ部下に負担がかからないような抜け方を考えるよ。それじゃ、次の休みに」
エンダーとイアは、固く抱き合ってから別れた。
二週間後、エンダーとイアは街のはずれで落ち合った。
少し出かけてくるふうを装うために、ほぼ荷物もない彼らは、決して安易ではないだろう旅に、憂いに満ちた表情だ。が、高揚感もまたにじみ出ている。
「二度と戻れないよ。いい?」
「もちろん、そのつもりよ」
捨てていくものに対する思いと、愛する人と一緒になる思いが彼らの顔をぐっと引き締めた。
街を出て手をつなぎ、草原のなだらかな坂を下りてゆく。
途中、一度振り返り、爽やかな風と明るく眩しい陽の光に包まれた街にイアがつぶやいた。
「さようなら、生まれ育った街、お世話になったみんな」
感慨の涙を目じりに浮かべたイアはしばらくただずんでいたが、エンダーが「さぁ、行こう」と優しく促すと、うなずいて前を向く。
彼らの旅路は、後戻りのないものになる、はずであった。
南にしばらく進むと道は林の中へと入って行く。日が暮れるまでに次の宿営地に着いてしまおうと二人は足を速めた。
だが、不穏な空気を感じとってエンダーが立ち止る。
「どうしたの?」
驚いて尋ねるイアに、しっ、と言葉を制し、エンダーは林の奥深くを注視した。
薄暗い林の奥に、黒くうごめく塊が見える。
獣か? 魔物か? ……いや、兵の集団だ。戦準備を整えた重装備の集団が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「いけない。イア、戻ろう」
エンダーはイアの手を取って元来た道を走りだした。
街に戻り、イアと別れてエンダーは城に向かった。
「大変です。南国が攻めてきます!」
エンダーの一言に、城の中は色めき立った。
間もなく、南国との戦争が始まり、エンダーも翌日、騎士団の一因として戦いに臨むこととなった。
元々、南国との関係はあまりよいものではなかった。だが、まさか奇襲をかけてくるとは予見できていなかった。
あの日、「偶然散歩に出かけた」エンダー達が敵兵を見つけていなければ奇襲を受けて攻め込まれてしまうところであったと、二人は国の救世主扱いだ。しかし当の二人はその扱いを素直に喜べずにいる。
奇襲までは見抜けなかったが、イアの父は、間もなく戦争になると知っていたのだ、と後になって聞いた。西国の大商人との縁談もそのためである。
「それで、国のため、だったのか。……ごめん、イア。こんな状況になっては……」
明日出兵するエンダーは、最後の別れにとイアの元に訪れていた。
「分かっています。わたしも国を捨ててまであなたと二人で逃げることなど、できないわ。……ごめんなさい」
二人は固く抱き合った。これが今生の別れであるかのように、強く、強く。
実際、これが、今までの二人でいられる最後のひと時であることに違いはない。
戦争がどれぐらい続くかなど分からない。前線に出続ければエンダーは生きて戻れるかどうか分からない。一方のイアも、先が見えない状況でエンダーを待ち続けると我を通すには優しすぎた。自分の結婚が国のためとなるのであれば、西国に嫁ぐのもいたしかたないと思う。
「今までありがとう、イア。……どうか幸せに」
「えぇ。ありがとう、エンダー。どうぞご無事で」
恋人としての最後のキスを交わすと、エンダーは未練を断ち切るかのようにきびすを返し、イアのもとを去った。
「さようなら、エンダー、……さようなら、幸せな時」
今はもう閉ざされた扉の向こうに行ってしまった最愛の男性に、イアはつぶやいた。
彼とともに国を離れる決意を固めた時とは違う涙が、イアの頬に流れ落ちた。
(了)
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お題:ちょっと大人の恋愛
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