星空への回帰
あれから一年経とうとしているのに、おれの心はあの時のまま。バグを起こした機械のように、時を止めた。
彼女に渡すはずの指輪を忘れなければ、こんなことにはならなかったのに。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
彼女は絵本作家だった。いや、絵本作家になったばかりだった。
幼いころから物語を考えるのが大好きな女の子だった、と聞いている。
大学で知り合って、付き合い始めて、将来のことを話すまでの仲になってから、彼女がはじめて自作の絵本を見せてくれた。
柔らかい絵と語り口だけど、なんだか、どこか物悲しい。
創作のことなんてあまり判らないおれだけど、彼女の作品は好きだった。
大学を卒業して、バイトをしながら絵本を書いて、出版社に持ち込んでいた彼女。
編集者の目に止まったのは「ほしにかえったおとこのこ」という絵本だった。
お母さんの病気を治してほしいと、神様にお願いに行こうとする男の子の物語だ。
やっと、作家としてのスタートを切った、その矢先だった。
おれも無事に大手の企業に就職して、毎日神経をすり減らしながらも、なんとかうまく仕事もしているし、周りの人達ともやっていけている。
就職して二年で何をうぬぼれてるか、と叱られそうだが、その時のおれは、きっと彼女と結婚したってうまくやっていける。彼女が絵本作家として活動を続けたいならそうすればいいと思っていたし、そんな彼女を自分の手で幸せにしたいと思っていた。
彼女の誕生日にあわせてプロポーズしよう、とこっそりと指輪を用意した。
給料三カ月分、とはいかないけれど、倹約家の彼女からすれば、これでもきっとすごい贅沢だと思う。
よく晴れた日曜の午後。彼女とデートしようと待ち合わせの駅へと向かったおれは、彼女に渡すつもりの指輪を、大切な指輪を忘れたことに気づいて、家へ引き返した。
何てことだ。今日のデートの一番のイベントである指輪を忘れるなんて。
おれは自分に苦笑しながら、今度はしっかりと指輪の入った小箱を鞄に入れて、家を出た。
なんだか今日は救急車のサイレンが多いな。どこかで大きな事故でもあったかななんて暢気に思いながら駅へと向かった。
待ち合わせの噴水前に着いた時には、信じられない光景が目の前に広がっていた。
噴水の周りに散乱する、誰の物とも判らないバッグ、靴、ハンカチ、携帯電話、誰かが飲んでいたのだろう珈琲の缶からは、中身が滴り落ちて地面が茶色くなっている。
ちょっと離れた、建物の壁には、どれだけのスピードを出したらこうなるんだと疑いたくなる、元は乗用車だった鉄の塊がひしゃげている。
そしてそれよりも目につく、おびただしい赤、赤、赤……。
救急隊が、重篤な怪我を負った者から救急車に運びいれ、乗れない人達は痛む怪我に顔をしかめて座り、あるいはそんな力のない人は横たわり、救護を乞う悲痛な声をもらし続けている。
何だここは、まるで地獄絵図だ。自分のよく知る駅前とは違う場所だ。
おれは茫然とした。
「いたいよ、おかあさん……」
近くに寝転んでいる子供が細々と苦しげな声を出す。そばに母親がしゃがみこんで、子供の手を握って涙ながらに「大丈夫、大丈夫」と呼びかけてる。
はっとした。そうだ、彼女はどこだ。
人々の間を縫って捜し回るが見つからない。もう救急車で運ばれて行ったのだろうか。
だとすると、深刻な状況じゃないのか。
……あぁ、そうだ。もしかして彼女も遅れて来ているかもしれない。そうだ、そうに違いない。
おれは期待して彼女の携帯へ電話した。
でも、返ってきたのは、聞きたくもない現実で……。
『一番先に車にはねられたようです。手は尽くしましたが、残念ながら、ほぼ即死でした』
なにが残念ながら、だ。そんな言葉で片付けていいのか?
やっと念願の絵本作家になって、これからだって時だったのに。
プロポーズ、しようと思ってたのに。彼女と幸せな家族になろうって、思ってたのに。
運転手も大怪我? なんで死ななかった? いや、この手で殺してやりたい。何が不注意だ、ちょっとわき見運転だ、人を何人も殺しておいてのうのうと生きやがって!
どれだけ泣いても、涙は涸れない。
世界は色をなくして、何を見てもただむなしいだけになってしまった。
あの日から延々と、あの事故と、彼女の最期の顔がフラッシュバックし続ける。
仕事は続けている。けれど、それが何になる。生きる楽しみがないまま生き続けて、おれはどうしたらいいんだろう。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
もうすぐ彼女の命日だ。
事故の直後はマスコミが騒ぎたて、事故の原因究明だともっともらしいことを言って容疑者の生い立ち、交友関係などを並びたてた。もちろん被害者の周りにも、無遠慮に押し寄せて、なんとか美談を、涙を誘う報道を、と馬鹿げた競い合いをしていた。
もちろん、おれのところにもやってきた。
あの時は、自分が指輪を忘れなければこんなことにはならなかったという後悔を犯人への怒りにすり替えて、おれも好き放題犯人をなじった。新聞やテレビなどで自分の声が流れるたびに、刑務所にいるであろう犯人に「見ろよ、おまえは人殺しだ。おれの人生を、そのほかたくさんの人達の人生を狂わせたんだ。死ね! 死ね死ね死ね! おまえなど生きる価値なんかない!」と心の中で叫び続けた。
……けれど、心のどこかではずっと判ってる。おれが待ち合わせに遅れなければ、指輪を忘れなければ、忘れたことに気づいても引き返さなければ、プロポーズは別の日に考えていれば、彼女はこんな事故には巻き込まれなかったんだ。
悪いのは、おれだ。おれが彼女を殺したも同然だ。
犯人への責めはそのまま、自分へと返ってきた。
あれだけ世間を騒がせた事故も、時間がたてば忘れ去られる。これが猟奇殺人だったりすると、ずっと報じられるんだろうけど、わき見運転の事故なんて珍しくもないからか、もうすっかり世間からは忘れ去られてる。憤りに彩られた報道も、ネットでの犯人への義憤の書き込みも、今はほとんどない。
「おまえ、顔色悪いぞ。ちゃんと寝てるのか?」
両親や友人に勧められ、心療内科に通い始めたおれは、少し強めの安定剤を毎日飲んでいる。
今日も病院へ行ってきて、薬を追加してもらった。
何のために、おれは生きているんだろう。
部屋のカーテンを開けて、夜空を見上げる。
星がいくつか、瞬いて見える。
ふと彼女の書いた絵本を思い出した。
少年は、母親の病気を治してもらうために神様に会いに行った。その道のりは長く険しく、少年は地上に帰る体力がなくなっていた。
どうかぼくの残りの命を使って、と倒れた少年をかわいそうに思った神様が、母親の病気を治し、少年は星になった。
はじめて読んだ時は、せめて母親が助かったのは、少年にとっては、よかったのだろうって思った。
でも、それじゃ、生き残った母親は?
大切な息子が自分のかわりに死んでしまったと知った母親の気持ちはどうなるんだろう。
きっとすごく後悔すると思うよ。今のおれと同じように。
死んだら星になる、というけれど、彼女もあの中にいるのだろうか。この空はかすんでいて、よく見えないけれど、彼女はいるんだろうか。
そこにいるなら、ねぇ、君は今、どう思ってるの? おれが助かって、自分だけ死んでよかったと思ってる?
会いたい。もう一度会いたい。どんな形でもいい、会いたい。
この世に彼女がいないなら、幽霊になってでも来てくれないなら、おれがあの星の仲間入りした方がいいのかもしれない。
机の上に、今日もらったばかりの安定剤入りの袋がある。
このタブレットを一気に飲んだら、きっと逝けるはず。
おれは白い紙袋を手にとって、はっと気付いた。
そうだ、どうせ彼女の元に行くなら、彼女の命日にしよう。
彼女の命日までは、頑張って生きよう。
ささやかな目的ができた。
おれは久しぶりに、嬉しくなった。
窓ガラスに、笑顔の自分が映っていた。
待ってて、もうすぐ君に会いに行くよ。
それまでに、さっきの質問の答え、考えておいてね。
(了)
「悲劇企画」参加作品(企画は終了しています)
音楽をお題に小説を書く企画
お題曲:「無色」上原あずみ
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