月の女神
彼女を見た瞬間、周りの景色も音も、私の目と耳から消失した。月のスポットライトを浴びて踊る妖精がそこにいた。
仕事帰りに横切る夜の公園の真ん中で、ポータブル音楽プレイヤーがスピーカーを壊さんばかりの勢いでアップテンポの曲を吐きだした。いきなり大音量の音楽が流れ始めたので、うるさいな、とそちらを見る。
丈の短いシャツと、破れたGパン――ダメージジーンズというのだそうだが所詮呼び方を変えても、ただの破れたGパンなのだ――という統一されたファッションに身を包んだ若者達が必死の形相で体をきびきびと動かして踊っている。
私のそばにいる人達も突然の爆音に驚いて体を震わせた後、音の発生源に視線を移しながら顔をしかめながら通り過ぎて行く。
運動音痴の私から見ても、ダンスは洗練されたものかもしれない。が、夜の遅い時間にこの大音量は迷惑だ。一言注意してやろうか、と私は彼らに向き直った。
若者たちの真ん中で踊る彼女と、一瞬、視線が交わった。
私の目は彼女に釘づけになった。
他の子達は必死の形相で、おそらく間違ってはならないということを最優先にして踊っているのに、彼女だけは違った。
微笑みを浮かべ、しなやかに体を動かし、そこにあるのは魅せるためのダンスだ。中央を取るだけのことはある。
アップテンポのロックにあわせて激しく踊っているはずなのに、彼女の動きは柔らかい。音楽とダンスを熟知し、動きを間違える間違えないのレベルではなく、いかに思いのままに、綺麗に表現するかが彼女の課題なのだ。
あれだけやかましいと思っていた大音量の音楽すら私の耳には届かない。静寂の中で柔らかく腕を伸ばし、ステップを踏み、上体を揺り動かす姿だけが私に届くすべてだ。一旦体を縮めて伸びあがる彼女は、そのまま天に舞っていくかと思うほどだ。
公園を照らす外灯ではなく、暗闇の中で天からさす青白い月の光にだけ照らされたかのような彼女の静かな微笑みが、私を捉えて放さない。月の妖精に私は魅入られてしまった。ここが公園であることも、なぜ彼女達に向き直ったのかすら忘れ去って私は立ちつくした。月の光と彼女だけが、この世界に存在することを許されたかのような、不思議な感覚。
やがて彼女は両腕を上へと伸ばし、天を仰いだ姿勢で動きを止めた。
はっと我に帰ると、夜の公園の中、家路に急ぐ人達の足音が耳に戻ってきた。
音楽は鳴りやんでいた。これで終わりなのかと思うと寂しいと感じている自分に気付いた。またすぐに始まってくれないだろうか、と期待している。
しかし素人ダンサー達は集まって何やら話しあっている。おそらく反省点などを挙げているのだろう。
途端に興が覚めた。ここは彼女のステージではなく、住宅街のど真ん中の、ちょっと広い公園なのだ。彼女は月の妖精などではなく、ただのダンス好きの女性なのだ。
なんだかばからしく感じ、さびしくもあったが、私はその場を離れた。
公園を出たところでまた後ろからけたたましい音楽が聞こえてきた。月明かりに青白く照らされて踊る彼女の姿を思い出し、思わ天を仰いだ。
月はただ静かに、そこから地上を照らしている。月に向くすべての物に分け隔てなく光を注いでいる。けれどあの時は確かに彼女だけが特別に見えた。
月の女神がいるとするなら、やはり彼女のダンスに魅入られたのかもしれない。そして彼女に特別にスポットライトを当てたのだ。
ファンタジックな考えはあまり好きではないが、そんなことを思いつつ、私は家へと向かって歩きだした。
(了)
SNSキリ番リクエスト
お題:月
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます