初恋は淡い夢

 暑い。

 衣替えの頃に、今年は冷夏だろうと予測されていた天候予報は見事に裏切られて、梅雨が早めに空けてからは猛暑と呼べる日々が続いてる。

 俺は暑いのは苦手だ。こう、立っているだけで汗が吹き出てくるなんて信じられない。こんな炎天下で部活動をしているヤツなんて超人か変人だと思う。

 だから俺は図書室に逃げる。ちょうど期末テストも近づいてきたし。

 クーラーがきいていて気持ちいいな。

 おっと、勉強だ、勉強。

 塾の宿題も学校でやってしまえ、とプリントを取り出した、ら、手からプリントが滑り落ちた。不規則な弧を描いて、プリントは床にかさりと落ちる。

 あーあ、と心の中でぼやきつつ拾い行くと、俺の手に白い手が重なった。

 白魚のような手、ってよく言うけれど、これがそうなんだろうか。

 細い指、整った爪に薄く塗られた淡いピンクのマニキュア。日焼けなんて縁がない、真っ白な、手。

 どきっとして俺は手を引っ込める。いつの間にか、同じように隣にしゃがんでいる存在があった。

 そちらを見ると、隣のクラスの女子だった。

 期末前だというのに、季節はずれの転校生で有名な子。確か安藤さん、だっけ。

 肩より少し長い、真っ黒なストレートヘアがさらっと揺れた。なんかすごくつやつやしてそう。

「あ、ごめんなさい」

 安藤さんも手を引っ込めた。控えめな、囁くような声は澄んでいて耳に心地いい。

「い、いや。えーと。ありがとう」

 なんだか気恥ずかしくなってプリントをさっさと拾いながら軽く頭を下げると、安藤さんもちょっと笑って、心なしか頬を赤らめた、気がした。

 特別美人というわけじゃないけど、かわいい。

 あぁ、隣のクラスの連中がうるさく騒いでいたのが、この一瞬で理解できた。

 室温はちょうどいいはずなのに、図書室の温度が、上がった気がした。


 それから、勉強に気持ちを切り替えようとしてもなんだかうまく行かず。結局今日は図書室で何をしていたのやら判らない。

 無駄な時間を使っちまったなぁ。

 ぼやきながら昇降口で靴を履き替えていると、安藤さんがやってきた。

 あぁ、きっとこんな時期に転校してきて勉強が大変なんだろうな、と思いつつ、外に出た。

 正門を出て家に向かう。

 安藤さんが後ろからついてくる。

 あれ、なんで?

 ちらと後ろを見ると、彼女もこっちを見た。

 なんとなく歩調を緩めつつ、距離を縮める。安藤さんが、近づいてくる。

 なんだ、ドキドキする。俺、変だ。

「暑いですね」

 安藤さんから、声をかけてきた。

 これは、ひょっとして、チャンス?

 いや、何の?

 何の、って、仲良くなるチャンスだろ。

 いやいや、待て待て。

 あぁ、俺ってやっぱ、変だ。

「う、うん」

 それだけ答えるのにどれだけかかってんだか。

 やがて安藤さんが横に並んだ。

「すごい汗ですね。それに、顔が赤いですよ。あ、よかったらこれ使ってください」

 安藤さんがちょっと心配そうな顔をしてる。うん、これは絶対に俺のことを心配しているに違いない。

 彼女はポケットからハンカチを出してきた。あの白魚のような手で、ピンクのハンカチをすっと俺の手の方に、持ってきた。

 なんて可憐で、なんて優しいんだ。

「あ、ありがとう。俺汗っかきでさ……」

 ハンカチを受け取って、額の汗を拭いた。

 言ってからしまったと思った。汗臭い男ってマイナスイメージじゃないか?

 マイナス。うぉ、マイナスか……。

 と、ひとりで勝手に落ち込んでると、安藤さんが尋ねてきた。

「わたし、まだこの辺り慣れてなくて。よかったら途中まで一緒に帰っていただけますか?」

 おおぉぉぉっ、やった!

「いいよ。安藤さん、どの辺り?」

 もう天にも昇る気持ちってこのことだろうな。

 しかも住所を聞いたら、すごく近いじゃないか。歩いて十分もないところだ。


 もう、安藤さんと別れるまでの十五分間は、夢のようだった。

 何を話したのか、あんまり覚えてないくらいだ。

 あー、なんか俺変なこと言ってないかな。

 でも安藤さん笑ってたし、別に、大丈夫だよな。

 それじゃまた、と別れて家について、自分の部屋に戻って安藤さんのハンカチを見つめた。

 かわいくて、優しくて、おしとやかで清潔感あふれてて。

 うん、俺ああいう子が好きだな。

 これって、恋、ってヤツか?

 でもライバル多そうだよな。クラスも違うし、不利だよな。何とか一歩リードできないだろうか。

 あ、そうだ。邪魔の入らないところでこのハンカチを返して、携帯のアドレスとか聞けたらいいな。勉強困ってるなら得意科目だけでも教えられるんじゃないかな。

 よぉし。そうと決まったら早速行動だ。

 俺は急いでハンカチを洗った。丁寧に、丁寧に。

 ドライヤーで乾かして、おかんに怪しまれながらもこそっとアイロンかけて。

「何やってんの、あんた」

 うわ、おかんこっちくんな。

「友達からハンカチ借りたんだよ。近所のヤツだから今から返しに行ってくる」

「あんた、それ女の子のだろ。へぇー、ほぉー」

 やかましい。

 俺はさっさと家を出た。足取り軽く、歌いだしそうな気分で安藤さんちに向かう。

 外はすっかり日が沈んで、夜空には星がちらほら見える。元から外灯とかで明るくて見えにくいのに、夏の空は湿気があってあまり星が綺麗に見えないな。冬の星空を二人で眺めるなんていいよなぁ、なんてガラにもなくロマンチックなことを考えたりして。

 さっき聞いた住所をうろうろして、見つけた。

 新築なんだな。綺麗な家だ。表札をしっかりと確認すると、ちゃんと「安藤」って書いてある。

 あー、ドキドキだ。驚くかな。明日でよかったのに、とか言うかな。

 でもそれじゃ俺の作戦が、ね。

 インターホンのベルを鳴らそうと指をボタンに近づけた。

 どきどきどきどき。

 ドタドタドタドタ。

 俺の心臓の音とは違う騒動が、家の中から聞こえてきた。

 そして、玄関のドアを勢いよく開けて、男の子が飛び出してきた。小学校三年か、四年か、そのあたりだろうか。とにかく腕白そうな子だ。

「やーい、もうエビフライないもんねー」

 なんて子供らしい。

「まてこら、このちびがきっ! あんた人のおかず取るなんて百万年早いんだよっ。食いもんの恨みは――」

 そしてその子を追いかけてきたのは、ジャージ姿の、同い年くらいの女の子だ。髪を振り乱して、鬼のような形相の。

 かわいくて、優しくて、おしとやかで清潔感あふれて……、た。安藤さんだ。

 安藤さんは俺の姿を見ると、ぴたりと動きを止めた。

 目があった。

 妙な沈黙。そして乾いた笑い。

「食いもんの恨みは、恐ろしいよね」

 俺の言葉に安藤さんは「そ、そうですね」と引きつった笑みを浮かべた。

「これ、借りてたハンカチ」

「まぁ、わざわざありがとうございます」

 ハンカチ、受け渡し、終了。

 何事もなかったかのように家の中に帰っていく姉と弟。ドアが閉まったらまた大きな足音が。

 さようなら俺の初恋。たった数時間の、淡い夢でした。


(了)



 お題バトル参加作品

 参加者が出したお題の中から3つ以上を使って60分以内に執筆。


お題

 衣替え 植物 交通事故 懐中時計 季節外れ 引越し すべった 裏表 お参り 歌 転校生 夜空 意外な一面


使用お題

 衣替え すべった 季節はずれ 転校生 歌 夜空 意外な一面


執筆時間

 60分

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