第2話 日本人の宗教観?(2)

 ではまず神道からいこう。日本人のアミニズムに基づいている自然宗教と考えられるが「教」ではなく「道」の字が付いている。


 そもそもこの神道というもの、他の宗教からは信じられないことなのだが、確定した教祖や創始者が存在しない。仏教の経典や、キリスト教の聖書、イスラム教のコーランに相当する明確な聖典も無し。森羅万象、すなわち自然物、人工物を問わずすべてのものに神が宿ると考え、畏怖し、敬意を示し、天津神・国津神・祖霊をまつり、祭祀を行う。浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目とする、きわめて現世主義的な特徴が見られる。


 つまり、そもそも誰か開祖がいて、その教えを伝えているものではなく、誰ともしらない人が、神に感謝しながらつけた獣道の上を、一人ひとりが大まかな秩序のもとに歩いている、そういった性格の存在であるのが、神道といえるだろう。


 その大まかな秩序を保つための道が参道だったり、そもそもそれが無い場合であったって、「惟神かんながらの道」、すなわち、神とともにある、という意味を神道という言葉が既に内包している。いってしまえば、「我々の神々は、我々とともに、常にそこに偏在する」という事になるのだろうが、神が「Ubiquitousな存在」であるという概念は、どうやら日本固有のもののようだ。もちろん多神教の概念は他にも多く存在するものの、日本ほど八百万やおよろずの存在ではない。


 して、その最初の畏怖の対象は自然である。現存する最古の神社として大神おおみわ神社の名前があがるが、三輪山という山自体がご神体になっている。そのほかにも、現世うつしよ常世とこよの境界に相応しい、海・川・滝・森や木・岩など場の様相が変わり目立つ場所が古くは選ばれたようである。


 当然そういったランドマークは、集落を見下ろす位置にあったり、あるいは集落のすぐ近くに存在するので、土地の安全を祈ろうと思えば神に祈る事になる。では神社の機能とはなんだろうか? 答えは簡単、その祀りを代行したり、取り仕切ってくれる為の組織に過ぎないのである。つまり、祭祀代行業者としての側面が大きい。


 そして現代社会においては、家を建てるとなれば土地の加護と工事の安全を祈り「地鎮祭」、工場で機械設備が操業するなら操業安全を祈り「火入式」、トンネルを掘るならば「発進式」、掘り終われば「貫通式」──果てにはコンピュータにも神が宿ると考え、サーバの安全を祈願してお守りやお札を拝受し、サーバラックに貼り付けるなどといった行為をする人まで居る。何を隠そう私のことである。

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