夏の到来と 先輩からのお願い事
汗の滲む季節、7月を迎えた。
イスミの仕事場の先輩、ウタウ先輩が、とうとう同性のパートナーと結婚式を挙げるのだと聞いて、イスミは浮足立った。
招待状を貰い、会社でも話して、同伴者がいてもいいかを尋ねた。
「いくらでも連れてきなよ。ただし、マリカを批判する人間は勘弁ね」
ウタウ先輩は、お相手のパートナーを庇って、そう言った。七歳も年下の学校の先生で、背は、なんとイスミよりも高いと言う。
「心は、母性本能に溢れてて、でも、顔は小さく整ってて、ちょっと男の俳優みたい」
そういう風にデレるウタウ先輩の横で、イスミは鞄から飴を取り出し、舐め始める。
二人がいるのは、いつもの休憩場所から、ぐるりと回って、木陰になっている自販機の前、である。食堂への出入り口がすぐそこにあるため、中の冷気がたまに流れ出て、夏でも涼しい。場所柄もあるが、イスミはいつものように、煙草を取りださなかった。
「あれ、煙草やめた?」
ウタウが尋ねると、イスミはお腹をさする仕草をして、「ニコチンパッチです」、と答えた。かくいうウタウも、緑茶のペットボトルに口を付け、左手だけを、煙草を持つ形に変えて、昔を思い出すように言った。
「うちもね、あんまりやかましいから、努力中。イスミはその…羽村先生だっけ。言われたの?」
イスミは小さく首を振る。
「ううん。なんか、付き合うようになってから、昔のことをよく話す様になって、自分が、そもそも煙草を吸い出したきっかけとか思い出したら、あぁ、もういいかな、って。長生きもしたいし」
煙草を始めた理由は、おそらくたくさんあって、辞めなかった理由も、それなりにあった。
イスミの言葉に、ウタウも頷いた。
「たしかにそう。きっかけと言うか、寿命を全うして生きたいな~っていう希望の問題だろうね、要は。私もさ、これでも結構、受難の人生なんだよ」
ウタウが、立ち話を切り上げ、食堂に行こうと指を指すので、イスミも付いていく。
時間はちょうど3時休憩で、同じように、涼みに来ている工員さんたちの数も多い。それでも慣れていれば、2人で座る場所くらいは、見つけられるものだ。
ウタウが先に白テーブルに着き、イスミも、食堂内の売店でアイスバーを一本買ってくると、足元に荷物を置き、汗をぬぐった。
「お疲れ、おつかれ」
ウタウの
「実はさ、向坂さんのパートナーの羽村先生とは、面識があってね」
ミオリの名前が出たので、思わず、イスミは口の動きをとめる。だが、たまらず冷たい。口を押さえつつ、イスミはなんとか、言葉を返した。
「ふえっと、いつ…ですか?」
水色の氷菓は、きらきらと光って、溶けだし始めている。ウタウは、ぐすっと、鼻を軽く啜ると、それを合図に、続きの話をする。
「私も今じゃ、36で、”アラフォー”っていう年齢域なわけだけど、ほぼ20年前、高2の時だったかな。うちの親父の暴力が、洒落にならないレベルでさ。
学校の先生に相談して、修学旅行を言い訳に、荷造りをして。それで、私が出かけている間に、上手いこと言って母親を呼び出してもらって、無理やり、2人で家を出たんだ。あの時は必至で、無我夢中で。あのままだったら死ぬんじゃないかって、そう思ってたから」
ウタウの衝撃の身の上話に、イスミは大きく目を見開き、周囲の話声に紛れないよう、耳をそばだてた。細い、木の棒から落ちかかったさいごの一口は、なんとか拾って、喉に通した。
「それで、そのあと、大丈夫だったんですか?」
イスミはウタウと出会った時から、なんとなくだが、自分以上に苦労をしてきた人だと感じて、気になっていた。それがようやく聞ける。
ウタウは自分の耳をいじりながら、努めて笑顔で、話を再開した。
「んいや。私はともかく、母親が怯えてさ。住んでいるエリアも、ずっと遠ざかって、格好とかも工夫して、表札も出さないで、すぐには分からないようにした。幸い、母親の兄貴がいい人で、住む場所とか、お金とか、仕事とか、全部、世話してくれたのね。
そういう意味では、逃げ出せたから、逃げ出したんだけど、それでも、母親が落ち着くまで、結構、きつかったな。でさ、高校はなんとか出て、すぐに今のとこじゃない、飲食店とか、アパレル系の店で契約社員とかやって、2人の生活を安定させるために、頑張ったよ。けどなぁ、そうして安定して来ると今度は、母親がうるさくなって、やれ戻りたいだの、言い出すわけさ」
「で、でも、難しいよね」
イスミが手を組み合わせながら、祈るようなしぐさで、ウタウに尋ねる。ウタウは目を伏せ、笑うように言った。
「難しいどころじゃない。母親に、自分の苦労を、全否定された感じがした。そういうことじゃない、って、頭ではわかってるけどね。そのときもう、24だったかな。かといって、じゃあ戻れば、って言えないから、引き留めて。それでもあるとき、仕事から帰ったら、母親が居なくて」
「え!じゃあ…」
イスミの予想に、ウタウは黙ってうなずき、その通りだと答える。
「でもそれで?お母さんは、大丈夫だったの?」
イスミが、ごくんと、緊張で喉を鳴らす。ウタウは思案顔のまま、ペットボトルの蓋を開け、ボトルを仰向けると、残りを飲み干す。
「結局は、同じことだよ。向坂さん」
そう言ってウタウが立ち上がり、食堂に備え付けの麦茶の薬缶を取ってくる。腰を浮かせたままのイスミの前に紙コップを置くと、なみなみと二人分、麦茶を注ぐ。
「それからまた2年ぐらいして、ひょっこり母親が現れた。あっちこっち怪我して、痣もひどかった。それを見たらもう、我慢が出来なくってね」
またイスミの前に腰を下ろすと、ウタウが睫毛の多い目を瞬かせ、イスミをじっと、真っすぐに見つめた。イスミはどぎまぎと、その目を見つめ返した。
「伯父の紹介でね、弁護士を紹介された。そういう場合の離婚とか、扱ってる弁護士だって。でも、男性弁護士だったよ。シルバーヘアーの、温厚そうな人だった」
弁護士が話に登場し、イスミはようやく、話の筋を理解した。
「あぁ、そこでもしかして…」
イスミは渡された麦茶に、口を付ける。思いのほか、美味しい。
「そう、その人と一緒に、付いてきたのが羽村先生。向坂さんに自慢げに見せられた写真を見て、思い出したんだ。落ち着いてたけど、もっと若かったな、会った時は」
ウタウが、からかう様に笑うと、イスミも「ミオリはずっと若いです~」と、応酬した。ウタウは言った。
「若いのに、私と同じくらいなのに、弁護士で、勉強だからって言って、ずっとその男の先生の横で、私の話を聞いてくれてた。もっと、メモを取ったり、質問攻めにしたりするのかなって、警戒してたんだけど、そんなこともなく終始、静かだったな。で、私が言いたいのは、だな」
ウタウが、まるで話を切り替えるようにズイッと、丸テーブルの向こう側から、身を乗り出す。意表を突かれたイスミは、ぴくっと椅子の上で跳ねて、近くなったウタウの目を見つめ返す。ウタウも、パチパチと瞬きをして、驚いたイスミを確認すると、小さな声で、こう言った。
「ご恩があるんだよ、羽村先生には」
元の位置に戻ると、ウタウは続ける。
「あれから無事、両親の離婚が成立して、私もほんとの独立ができた。ここに就職してから、生活も安定して。だけど、どういうご縁か、しばらく経って、私が営業から工員に転身した頃にさ、羽村先生が独立して、色々、活動をしてるらしいって、風の噂で聞いた。
同性同士も可能な結婚制度、を求める運動とかさ、そういう理由で、家族との縁が切れちゃった人の相談、とかね。気になって、そういう集まりを探して参加してるうちに、出逢ったのが今の連れ。ね、分かるでしょ」
話の全部は把握できていないながらも、イスミは、ウタウの気迫に押されて頷く。ウタウは、そんなイスミを見かねて、最後の説明をした。
「だから、たぶん、羽村先生なら、私の結婚式へは、遠慮して来たがらないと思う。けど、私は来てほしいんだよ。向坂さんもそうでしょう?」
そう尋ねられて、即答できないイスミ。ウタウの言う通り、ミオリなら行かないだろう。しかし、それでも…
「ウタウ先輩、分かりました。ミオリを必ず私が、連れて行きます」
「頼んだよ」
ウタウは嬉しそうにそう言うと、腕を伸ばして、イスミの肩を叩いた。ちょっと痛くなるほど、強い力だった。
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