sweet part
私の見て来た 貴女のこと
イスミは、ミオリの表情、その元気のない様子にたまらず、会って言うべき言葉を失った。
ミオリが近付き、イスミの肩にあるリュックと、その上に花束を重ねて、足元に下ろした。
「逃げないで」
ミオリの静かな言葉に、イスミはもう、逃げる気持ちの無いことを、自身の行動で示そうとする。
両腕を突っ張り、ぎこちない様子で、ミオリの背に腕を回したイスミに、ミオリはされるがまま、イスミの首元に顔をうずめる。ズキズキと鼓動する心臓に、息が止まりそうだと、イスミは思う。
触れているミオリの背より、二人の胸の間に出来た、僅かな隙間のほうが、ずっと熱く感じる。ミオリを抱きしめているはずの手は、少し痺れて、指先の感覚が薄い。どう力を入れていいか分からず、震えるイスミの腕の下から、支えるように、ミオリが腕を伸ばして、ぐっと、イスミの肩を抱きしめ返した。
「ミオリ、ミオリあの…」
押し当たる胸の感触で、頭の中が沸騰しそうになるイスミ。イスミよりも、ずっと強い力で、抱きしめてくるミオリの腕の固さに、イスミは、ふっと思い出す。
『そっか、ミオリは鍛えてるって言ってた…』
実家の自分の部屋にあるという健康器具のことを、いつだったか、ミオリは話してくれた。『だからこんなに違うのだ』と思いつつも、意識の向く方向を、うまくコントロールできずに、イスミは悶えた。
「ミオリ、大丈夫だから。ごめん、私…」
こんなふうに以前、自分を抱きしめてくれたのは、生きていた母だった。あれから、いったい、どれくらい経ったのだろう。懐かしくて温かくて、そして、胸が苦しい。でも、この抱擁の意味は、たぶん違う。
"守られている安心"というよりも、もっと深い引力。底の見えない渦の中にまっすぐ、落ちていくような一体感と、恍惚。
気が付くとイスミの腕は、ミオリの後頭部に回り、ふいっと、顔を上げたミオリと、イスミの視線がしっかりと、宙で結び合った。
イスミとミオリが立っているのは、ホームの中央部分だったが、行き交う人たちの関心の目を、どうしても集まって来る。二人はいったん、腕をほどいて離れると、互いの荷物を持ち、人の少ない、ホームの端へ向かって、付かず離れず、歩き始めた。
*
ほぼ二人きりの場所を得て、ミオリとイスミは向かい合う。
「この場で、ひざまづけないのが、つらいけど」
ミオリは、イスミの右手を取り、両手で押し戴くように持ち上げると、その甲に、自分の唇を寄せた。
「…貴女が好きです」
ミオリの告白に、イスミがスッと、息を呑む。
間髪入れずに、ミオリは続ける。
「私が、あなたのこと想う気持ちを明らかにしたら、嫌われるかもしれない、それでも」
イスミの耳に、一瞬、周囲の音が届かなくなった。全ての間隔が、目の前のミオリの真剣な瞳と、動く唇に集中する。
「私と、付き合ってください」
*
その言葉は、ちゃんとイスミの耳に届いた。もしかしたら、唇を読んだ、の間違いだったのかもしれないが、イスミはコクンと、首を縦に振った。そして慌てて口元に手をやると、青くなったり、赤くなったりを、瞬時にやってのける。そしてようやく落ち着くと、言葉にしなくてはならない意思を、自分の中に確認する。
「はい」
そう答えたとき、イスミは歓喜のあまり、これまで自分が諦め、逡巡し、ミオリから逃げていたのは、いったい何のためだったのかと、そんな理由は何一つ、存在しなかったかのように感じた。
「馬鹿だ、私」
イスミがそう、ぽつりと漏らした独り言に、ミオリは不安そうに、首を傾げる。
『ましてミオリが男となんて…』と、回想したところで、イスミの目に浮かびかけていた涙が、すっと、引っ込んだ。
イスミは、ミオリに尋ねた。
「…で、あの人とは結局、どうなったの?」
**
突如、切り替わったイスミの態度に、ミオリは、『しまった』という顔を一瞬したが、すぐさま、決意の表情で答えた。
「あれは、私の兄でした。本当にごめん」
ミオリの予想外の答えに、何を言われたのか、という顔をしたイスミだったが、みるみる表情が険しくなる。
戸越ユウヤの件からミオリが解放されたのは、つい先日のこと。
直接会うのを避けて、こちらから電話を掛けた。短い時間だったが、ミオリは戸越の提案に対して自分の解釈を述べ、結果、双方協力して、家からの自由を勝ち取ることに決めた。
思った通り、次に待っていたイスミの言葉は、激しかった。
「だったらそうだって、何で言わないのよ!じゃあ、婚約者とかって、ぜんぶ嘘じゃん!」
イスミの剣幕に、ミオリはタジタジと、距離を取る。
「いや、嘘じゃないんだけど、いうなれば、仕事のための茶番、とでもいうか…」
「茶番?!何よそれ! 意味わかんないんだけど!」
イスミはすっかり、プンスカした様子で、そんな状況を、喜んでいる場合ではないのだが、『かわいい』と、ミオリは思ってしまう。
「確かに、うん、その通りだと思う。イスミ、ほんとに御免」
謝りつつ、口元が思わず緩んで、笑顔になってしまうミオリ。
「もう!」
ぺちっと、笑うミオリの腕をはたいて、イスミはぷうっと、膨れたふりをする。だがそれもあまり持たず、こらえきれずに、笑顔がこぼれる。止まっていた涙も、ようやく目の端から出て来た。
「なんでか…すごく"安心した"って、変だけど」
イスミがそう言って、二人の足元に置かれた、薔薇の花束を取り上げる。顔を寄せると、たしかに好い香りがした。ミオリはそんなイスミを見て、笑うのを止めると、真面目顔に戻って、胸元のポケットから、ハンカチを取り出す。それをイスミに渡すと、グスッと鼻をならしつつ、イスミがそれで、目元を押さえた。
「また泣いちゃった。ミオリは私を泣かせる天才か」
イスミの言葉に、ミオリは、何かを思い出したように、下唇を噛んだ。そして今度は、両手を組んだり、離したりをして、あからさまに、もじもじとし始める。
何だろうかと、イスミは潤んだ目を瞬かせ、挙動不審なミオリを見つめる。
ミオリは言葉を濁して言う。
「あの、それで、イスミと付き合うにあたって、言っておかないといけないことが、あって」
「なに?」
ミオリが殊更改まって、何か言い出そうとしている時点で、いい予感はしない。言うなら早く言ってほしいと、イスミは思う。
「なんだよーミオリ。もったいぶらないで、言っちゃって。この際だから」
ミオリが貸してくれたハンカチを握りしめながら、花束に気持ちを移して、言葉を待つ。
咳払い一つの後、ミオリは答えた。
「私はたぶん、70%くらい、気持ちが男だと思う。別に身体ごと、男になりたいとか思わないけど、それでも、イスミのことを好きな感情の、かなりほとんどが、男視点な…気がする。それでも、いいだろうか」
緊張したミオリは、不自然に言葉尻を固くする癖がある。本当に久しぶりだ。
でも、それで?
ミオリが、”男っぽい”のなんて、イスミにとっては、昔からのことである。そして、ミオリの気にしている通り、彼女がただの”男勝りな女“でないことなんて、何を隠そう、イスミは、この上なく誰よりも、承知しているのである。
今度はイスミがゴホンと、咳払いをして、答える番だった。
「あのね、いったい私たち、どれくらいの付き合いだと思ってるの?ミオリは多分、忘れてるんだろうけど、高校時代、悩むミオリの話をずーっと聴いてたの、私だよ」
ミオリは、イスミのリュックを拾いながら、『そうだったっけ』という顔で、頭を掻く。
「いや、だって。あの時は男と試しに、付き合ったりしてて…」
先だって、再婚相手を見つけたと知らせて来た、杉山ヘイタはじめ、他にも数人、ミオリの「確認行為」の”犠牲”になった男子生徒たちがいた。おそらく、ミオリよりもイスミの方が、その相手達のことを覚えているのではないだろうか。
イスミは言う。
「あんまり長続きしないから、私が冗談交じりの本気で、『ミオリって、男が恋愛対象じゃないんじゃない?』って言ったらさ、ミオリが、『そうかも、女辞めようか』って、極端なことを言うからさ。私も焦って、
『ミオリが女を辞めたら、絶交だ。心が男でも、女らしい人は幾らでもいる』とか、適当なことを言ったよ。それでもミオリは納得して、それから私服でもスカートを履くようになったり、化粧をし出したり…私は満足してたけど」
今思い返せば、確信犯である。
ミオリの心が揺れていた当時に、イスミが、ミオリの行動指針を決めてしまった。心の中で舌を出しながら、ミオリの様子を見ると、どうにかして、そのときのことを思い出そうとしている風である。ミオリは、うーんと唸りながら、ようやく口を開いた。
「そっか…それがきっかけだったか」
イスミが「?」を、頭の上に浮かべると、ミオリはしみじみと、感慨深そうに話を続けた。
「いや、今じゃ料理も裁縫も、面白くてやってるんだけど、そういえば、どうしてそんなに、力を入れてやってるんだっけ…と思えば、たしかに、イスミがそんなことを言ってた気がする。
条件付けられたみたいで、内心、『えぐいこと言うな、こいつ』って、思ったけど、まぁ、相手がイスミなら仕方ないか、みたいに、納得してたわ」
そう言って遠くを見るように、そしてイスミを見て、『ニヤッ』っという笑みを浮かべたミオリは、やれやれ、とばかりに首を振る。
「私もバカだな。イスミにそんなことまで言われて、忘れてたなんて」
ミオリのその言葉に、イスミは「それはどうも」と返す。ミオリは視線を下げ、自分の下唇に手をやりつつ携帯を取り出し、履歴の時刻表を確認する。そして顔を上げて、遠い電光掲示板を探した。
「お墓参り、行かないとね」
「あぁ、うん。そうだね」
乗るはずだった快速は、もう2本ほど、過ぎてしまったかもしれない。イスミも腕時計を見て、ミオリの隣に立つ。抱えたバラを見ながら、到着までもつかどうか、心配になる。
ミオリが出し抜けに、イスミに言う。
「じゃあ、そう言うことなら、遠慮は無しで」
「うん、そうだね」
イスミはそう言った後、何か自分は早まったろうかと、隣のミオリを見る。ミオリはというと、ひどく機嫌が良さそうで、鼻歌でも、歌い始めそうな雰囲気である。
「あ、そういえばイスミ。連休は楽しかった?」
イスミには分かる。これは一見軽そうだが、ミオリが本気の時の質問だ。
「あっ、とね。大丈夫。何もないから。何も、起きようがないから。一人部屋だったし」
実際そうだったので、嘘ではない。ミオリはちらっとイスミの横顔を見て、また可笑しそうに笑う。
「そう。まぁ、いいけど。これからイスミさんには、”面目躍如"して戴くってことで、チャラにしよう」
ミオリは時折、難しい言葉を使う。ゆっくり話されても、すぐに意味が分からないから、やめてほしい。
「とにかく、ミオリが心配することは何もないから。どうか、お手柔らかに願います」
自分で言って、恥ずかしくなるイスミ。そんなイスミの手に、ミオリは自分の手を絡めると、半歩、距離を縮めた。
「時間はあるよ。これからゆっくり、やっていこう」
ミオリの手を強く握り返しながら、イスミは頷いた。そうだ、これからは二人の人生を、二人で話して、決めることができる。充実し過ぎて、本当にあっという間かもしれない。
そんな楽しい時間を想いながら、二人は互いに顔を見合わせた。
待っていた電車は、もうすぐやってくる。
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