淡い海岸線と後悔の波
五月の連休を明けて迎えた、第二週目の週末。
羽村ミオリは、車を飛ばして、神奈川の葉山まで来ていた。ひとりで遠出をしない祖母と、ナミヱおばちゃん二人を乗せて、馴染みの温泉宿まで。滞在は一泊二日。何年か前から、母の日にかこつけて始めた、実質の親孝行である。
ミオリの母親代わりのような二人は、意外と、互いに話すネタに困らないらしく、日頃の文通仲間でもある。
「ナミヱさんが、今年はどうするのかと、訊いてきたのだけど」
イスミかと思って出た携帯に、祖母から電話が掛かってきたときは、驚いた。
「あぁ、すみません。どこか、希望はありますか?」
ミオリの確認に、きれいな海が見たいと、祖母は答えた。
いつもは気難しい祖母が、楽しそうな顔をする、めったにない機会であり、しばらくぶりに、ナミヱおばちゃんとも、ミオリは話をしたかった。
泣いたイスミを追いかけなかったあの日から、イスミはずっと、ミオリに会うことを拒んでいる。ゴールデンウィークも、友人の働いている民宿に、グループで遊びに行くと連絡を寄越して来たきり、一日たりとも、ミオリのために空けてはくれなかった。
イスミが、戸越ユウヤとの仲を、”誤解した”のは、もっともなことだと、ミオリは思う。それだけに直接会って、説明しなくてはならないのに、その機会さえ与えられない。ただし、戸越への肝心な返事も、保留し続けている今の時点で、どこまで言えたものか。いつもの決断力も鈍り、仕事も精彩を欠いている。
『ニュース待ちなんて、らしくもない』
待っているのは、戸越が受け持っている重大事件に、進展があったことを報じるニュース記事、ないし報道だった。
戸越の提案に、なにも正面から挑む必要など無いのだ。父親との取引で、どこまでの証拠を得たのかは知らないが、容疑者を固めて立件するまで、そう時間は掛からないはずなのだ。
思えば、二十代の頃の自分がやりたかったようなことを、戸越がやっている。そのことに悔しさを覚えない訳ではない。しかしミオリは、自らそれを諦めることを選んだのだ。
実家は、中にいる人間が自覚している通り、様々な情報の宝庫であるが、そのどれをどう利用して、世の不正を正せるかは、別の才覚と法律の知識、そして何より、そのためのルートが必要だ。
ミオリが、自身に流れる血を嫌って、家商売ごと、どうにかしようと願ったのは、そんな罪とは関係ない、イスミの傍にいる「自分」を、手に入れるためだった。"身を
ところが現実は、想像以上に、甘くはなかった。
意気揚々と弁護士になったところで、突然、特別な力が手に入る訳でもなく、相手にしなくてはならないのは、その道の玄人ばかり。
無能だと自分を罵っても、何も得るものはない。とにかく理解と認識を深めて、気が付く限りの「仕組み」を、知ることから、始めるしかなかった。しかし、それをやって分かってしまったのは、自分の社会的地位や生活の一切を天秤に載せても、釣り合いのとれる成果が見込めない、そんなもどかしさだけ。
かといって、周囲の人間をそうした"正義の盤上"に賭ける野蛮さも、それを上回る自己犠牲の覚悟も、ミオリは持ってはいなかった。五年間の奮闘の後、得られた答えは、自分が、限りなく不可能なことをしようとしている、という理解だけだった。
淡い海岸線を見つめながら、ミオリは、その向こうにある世界を想った。自分の後悔の流れつく先に、イスミはいるだろうか、と。
「ミオリちゃん、この辺りで美味しいお店、教えてもらったよ」
ナミヱおばちゃんが、おしゃべりひとつで、地元人から、有益な情報を手に入れてくれる。いつものことだが、非常に助かる。
泊りがけの一日目の今日は、少し眠りたいという祖母を一人ホテルにおいて、午後の散策に、ミオリはおばちゃんを連れ出していた。
「パンナコッタと、クレープが評判のカフェだって。行こう、ミオリちゃん」
黙ってうなずき、車の停めてあったところまで戻ると、おばちゃんのナビで、そのカフェに向かった。
*
「風が気持ちいい。いい席だね」
そう言って、白いテラス席の向かいに腰を下ろしたおばちゃんは、濃紺のクロップドパンツに、ゆったりとしたフォルムの花柄のシャツが、とてもよく似合っている。一方、ミオリはモノトーンで、黒のシンプルなサンダルに、白のジーンズと黒のポロシャツ、という組み合わせだ。
それなりの日差しがあるので、おばちゃんは、つばの広い麦わら帽子を頭に載せ、ミオリに微笑みかける。
「それでどうしたの? イスミちゃんと、とうとう喧嘩した?」
ミオリは苦笑して、首を振る。
「それならいいんだけど。ここのところ、会ってくれなくて」
「そう…イスミちゃんも、乙女だからね。気持ちの整理をしたいのかも」
四月にあったことは、もう話している。メニューの薄い冊子をめくり、おばちゃんは、オレンジソース掛けのパンナコッタを選ぶ。ミオリも同じものを頼んで、2人で飲めるよう、ミントティーをポットで注文した。
ミオリは躊躇いがちに、話を再開する。
「もし、イスミの方で、今回のことをすっかり整理されてしまったら、私はもう、言い訳一つ、出来ないんじゃないかと思って」
腕時計を外して、ミオリはテーブルに置く。金属製のそれは、少し腕にきつかった。
おばちゃんは答える。
「言い訳は、する必要ないんじゃない? 後ろめたいことがある訳でもないのに、したらかえって変よ」
ミオリは髪をかき上げると、言い募った。
「後ろめたい…というより、後ろ暗いから、私は。全部仕事だった、って言えればよかったけど、それじゃあ、”口外無用”の約束を、破ることになる。報道が嗅ぎつけるまでは、イスミにだって、ほんとのことを言えない。ある意味、イスミが私から距離を置いてくれて助かった、って、思う自分もいる」
ミオリが気楽におばちゃんに話すのは、今回のことで、祖母が大きく関わっているせいだ。もとはといえば、身内のごたごたが拡散して、こんなことになっている。
「サチコさんも、ミオリちゃんのことが心配だったのよ。ユウヤさんに、親子鑑定を迫るくらいにね。大きなお家だもの、本当は、ミオリちゃんに家にいて欲しいだけだと思うわ。そこに、結婚、という問題が出てくるから、難しいのだけれど」
ミオリがふつうに結婚して、家を継ぐ意思の無いことは、ほぼ家の人間には周知の事実である。それでも、なんとなくミオリが自由で居られたのは、父親の隠し子、すなわち”兄かもしれない”人間が、いるせいだった。
戸越の姓は母親のもの。認知を望まず、未婚の母の手で育てられたことは分かったが、その母親が昨年、他界している。祖母が動いたのは、そういう時期を見てのことだった。
「でもなかなか、ユウヤさんも困った人なのね。鑑定を断るだけならわかるけど、交換条件を付けるなんて。何を考えているのかしらね」
ミオリは黙ったが、そこでタイミングよく、注文も取ってくれたイケメンウエィターが現れる。慣れた手つきで、デザートプレートを並べ、カップを置く。
「紅茶はしばらく蒸してから、お召し上がりください」
そう言って、碧いガラスの砂時計を返すと、一礼して立ち去った。ミオリも習慣で会釈を返す。おばちゃんが言う。
「素敵ねー、でも息子があんなだったら、妬けちゃうわね、彼女に。あ、じゃあ、食べましょうか。いただきます」
嬉しそうに手を合わせてスプーンを取ると、おばちゃんは、丸くてつやつやした本体を、スッと、掬い取る。
「美味しいものを食べるって、幸せねー。誰かの作って下さったものを食べるのも、楽しいのよ」
促されるまま、ミオリも水を少し飲んでから、デザートに口を付ける。確かに、口の中に沁みる、まろやかな味わいだ。でも、こうして甘いものを前にすると、感覚の中に、ここに無いイスミの声や影がちらついて、気落ちする。自分は、何をしてるのだろう。
すっきりとした味わいの紅茶に、添えられたミントの葉も堪能して、おばちゃんは言う。
「あれかしらね。ユウヤさんは、ほんとは違うのかしら。お父さんとの間で、話をしたときに、ミオリちゃんの結婚の話になって、そうしたら、『是非、自分を第一候補にしてください』と言ったそうじゃない? ミオリちゃん、知ってた?」
思わずスプーンを取り落としそうになって、ミオリは口元を押さえた。
「いや、知らない。だって、父の方から頼んだって、あの人は言ってたし、嘘でしょ」
ミオリの中では、戸越ユウヤは、他の何でもない、"兄"だった。
たしかに、噂の立った当初は、そんな、"かもしれない”相手なんて、他人と同じだと思っていた。
しかし、この前会った時に感じたのは、言いしれない性格の近似性、"シンクロ感"であった。能力や経験で敵わなくとも、積極的に張り合う気力がわかなかったのはそのせいかと思うような、不思議な感覚だった。。
おばちゃんは、と見ると、テラス席から見える、青いさざ波に注意を向け、何かを考え込むようにしている。ミオリも倣って、テーブルに腕を付くと、同じものを見つめる。
おばちゃんは、ぼつりと言った。
「人の気持ちって、分からないものね。もう還暦も過ぎたし、大抵のことは経験済みだけれど、色んな人がいるわ。だから、話をするのよね。そういう分からなさがあるから、飽きないし、面白いんだわ」
戸越のことを、『面白い』と言って片付けられる視点は、今のミオリには持てない。けれど、おばちゃんの言うことはもっともだ。いったい何を、考えたのだろう。
すべては鑑定次第のはずだが、戸越は既に、その確たる結果を知っているのではないか。それは大いにありうることだと、ミオリは思う。
すると、戸越の行動は、周囲だけがその事実を知らないという現状を、最大利用することで、自身の目的を達しようしたものかもしれない。問題は、血筋の真偽ではなく、鑑定依頼という、”棚ぼた的状況”を、いかに仕事と結びつけるか、だったとするならば、どうだろうか。
兄かも知れない人間が、婚約者に挙がったと知ったとき、ミオリはそれを、父親の戸越に対する、一個の防止策だと、自分が決めて掛かっていたことに気付く。
ミオリとの婚約を断るなら、正面から、鑑定結果を出す必要が生じる。戸越が、情報の持ち逃げをして約束を反故にしないよう、二重の策を立てた、という見立て。馬鹿げていても、父親がそれをしたなら、理屈が通るとミオリは思った。しかし実際は、そうでなかったらしい。
今になって、戸越から言い出したことだと、ミオリは知る。
ミオリは、思い出したように紅茶を一口すすり、頭を悩ませる。では、戸越との間にあるべき、望まない後継者問題の”押し付け合い”は、どこへ向かうのか。
確かに、戸越がその口で言ったように、ミオリが端から断れば、鑑定も引き受けずに済むのかもしれない。しかし、ミオリが断らなければ、戸越が逃れる術は何一つ、残されていない。そんな情況を、戸越みずから作り出したのだとは、到底考えられないのだ。
『あぁ、でも…もしかしたら…』
戸越は、すべて引き受けてくれるつもりだろうか。
ミオリが嘘でも、結婚を呑めば、戸越は鑑定を受けて…でも、その結果が、違った時は?兄でも何でもなく、結婚できる相手だったら? それでも入り婿として、実家の家政に関わることには、間違いない。反対に結果が、兄であったと証明できるものであったときでも、戸越の得る立場は変わらない。
提案の全容が、ようやくミオリには、見えた気がした。
戸越は自分ではなく、ミオリにメリットのある提案だと、何度も言っていた。その意味が分かってしまえば、何ということは無い。戸越が創ったのは、ミオリと自身の立場を必ず、呉越同舟のものとすること。乃ち、ミオリが実家から逃げれば、同様に戸越も自由になり、逃れなければ、戸越も、不自由を受け入れる用意があるということ。
戸越は、暗に言っているのだ。
『自分だけが、自由になることは出来ない』と。ミオリに一切の選択を委ねたのは、存在しない信頼関係の代わりに、連帯責任を課すためだと言える。
ここまで読めてしまえば、たとえ、科学が兄だと認めなくとも、その図った手段のメッセージ性で、兄と証明できそうだ。のどが渇いたミオリは手を挙げ、レモンジュースを頼む。おばちゃんも合わせて、ザクロジュースを追加で頼んだ。
「何か、分かったって顔してるわ」
おばちゃんの観察眼に、ミオリは疲れた顔を隠さず、言葉を返した。
「戸越検事は、たぶん、兄だと思う。鑑定をするまでもなく、そう思う」
おばちゃんは、目を丸くして、頬杖にのった首を傾げる。
「あらまぁ。そういうことなら、心配ないのね。イスミちゃんにそう言いなさいよ。安心するから」
万事解決、といった体でおばちゃんが頷くのを、ミオリは胸の詰まるような思いで、見つめる。
「でも、断らないのが、正解かもしれない。あくまで契約上の夫婦、になるだけなら、リスクを承知で受けた方が、きっと私は…」
理性で処理する。自分ではない誰かの利益を考えて、冷静に場を読む。そういう弁護士の自分であったなら、こういうとき、何が正解だと判断するのだろう。
イスミが悲しむ、ただそれだけのこと第一に考えているなら、戸越のことなんて、どうでもいいと、最後まで割り切るべきなのだ。それが出来ない時点で、自分には、イスミを追いかける資格が無いのかもしれない。
おばちゃんは眉をひそめて、さっと腕をミオリの方に伸ばすと、額に触れて、熱を計る。ミオリも、咄嗟のことに身を固くしたが、理由が分かると、力を抜いた。
おばちゃんは言う。
「熱でもあるのかと思っちゃった。仮にも、イスミちゃんの彼氏に成ろうかっていう人が、そんなことを言っちゃだめよ。弱音を吐くのはいいわ。おばちゃんの前だもの。けれど…そうね、二人のうち、どちらかが手を伸ばして、もう一歩ずつ、近付けたら分かることでも、今はまだ、分からないのかもしれないわね」
「分かること?」
到着したレモンジュースの酸味に、ミオリはぐっと舌をかみしめて、尋ねる。
おばちゃんは、ザクロジュースの綺麗な赤をしっかりと見定めてから、ストローに口を付ける。一息ついたところで、返事を返した。
「思いの強さ、愛情の深さ。他に代わりのいない相手だ、っていう自覚。おばちゃんが見てる限り、2人にはちゃんとあるのよ。欠点も長所も、それなりに互いのことを理解してる。ただ長いだけの付き合いじゃなくて、そういう、醒めた視点もあるって、いいことだと思うの。たぶんそれは、どこかで、自分だけが片想いをしている、ダメかもしれないと、思っているせいなのかもしれないけれど」
「ただの女友達として、見てるだけかもしれない、とか?」
ミオリが小声でぼやくと、おばちゃんは大きく首を振って、ミオリを鼓舞するように言った。
「いいえ~イスミちゃんはともかく、ミオリちゃんの、”女友達”って、居ないでしょう? お仕事仲間がいるのは、知ってるわ。そんな嘘を付いてはだめ。イスミちゃんだって、逆に言えば、もっとはっきりとした好みがあるのよ。
今はとても明るい子になったけれど、昔は全然、そんなんじゃなかった。イスミちゃんを変えたのは、ミオリちゃんよ。それが、どういうことなのか、一番よく理解してるのは、ミオリちゃんだと思ってたのに」
ミオリは俯いて言う。
「姉とか、家族とか、そういう風になれればいいって、思ってた時期がある。それが、自分たちの間で、一番現実的な、それでいて、一番近い関係だって。でも、そういう綺麗事を、本能として、望んでるわけがない。それに気づいたら、不用意に近付けなくなった。器用にはいかないね」
気遣わし気にミオリの表情を見ていたおばちゃんだったが、たまらずフゥッと、息を吐いて、笑顔を浮かべた。
「ちょっと口では言えないことを、したいと思ったり、綺麗なのとは反対なものを、相手に感じるのも含めて、恋だと思うし、愛の中身も、たとえ見せ方が良くても、内実、そんなサラッとしたものじゃ、人の心を占めたりは出来ないでしょう?だって生活は大変で、人間はどこまで行っても、生々しいんだもの。
お仕事は勿論、お金のことや、食べるもの、住む場所、お掃除。年齢も重ねていくと、出来ることが変わっていく。そんな間も、ずっと愛があるというのなら、それは、いったい、どんな愛なのかしら。ミオリちゃんは、ちゃんと考えた?」
おばちゃんは本気だった。その気持ちに応えられるだろうか。きっと自分のことだから、スマートにはいかない。
みっともない本音を曝して、イスミと近付けるのなら、それをやらないといけない。普段隠している感情を、表に出す勇気。
「男気を見せろ、っていうことだよね」
ミオリがようやくそう言うと、おばちゃんは黙ってうなずいた。
目の届く高さまで降りてきた太陽は、黄色く白んで輝き、そのせいで空の青も、ぼんやりと霞んで見えた。
ミオリの覚悟が実るかどうかは、今は未だ、誰も知らない。
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