逃走と弁明
ミオリの家を出たイスミは、マンションの敷地を出たところで、一度立ち止まり、涙を拭って、鼻を
震える胸を押さえて、大きく息を吸い、イスミは、人目を気にして歩き出す。ミオリはひどく困った顔をしていた。なによりイスミが泣いた理由を、ミオリは理解できなかったろう。ミオリの前で泣くのは、殆ど嬉し泣きか、映画を観て感動したりと、そんな良いイメージのことばかりだったのに、自分から台無しにしてしまった。
認めよう。
思い違いをしていたのは、自分の方なのだ。ミオリが、イスミの知らない人間を家に呼んで、食事を用意していた。それが、隠されては困る事実だなんて、思うのはやめにしよう。友人としてミオリは、かけがえのない存在。だから多くを望まず寛容に、たまの嘘だって、気付かないふりをするのが、上手くやっていく術なのだ。
イスミが、女性にしか感じない種類の人間であることは、出逢って早々、ミオリにバレてしまっている。早田の言うように、今思い返しても恥ずかし過ぎる、冗談のような、きっかけだった。中学の時に目覚めた嗜好が、気の迷いや興味で終わらず、そのまま、軽い男性嫌悪に似た形で顕在化したのは、今思えば、それなりの苦労だったはずなのだ。
けれど、傍にはいつもミオリがいて、イスミが極端に走ろうとする度、それとなく引き留めてくれた。なんて優しい友達だろう。本当にミオリは、一見すると怖いのに、とてもとても、優しいのだ。
友人として付き合い始めたころ、イスミはずっと人生に悲観的で、何かとマイナス思考な自分が、嫌で仕方がなかった。ミオリも、今の姿からは想像できないくらい、余分なエネルギーを持て余しては、日々、問題を起こしていた。言葉少なで、過激な行動に出るので、何度驚かされたか知れない。
印象の正反対な人間が、互いに手探りで"友人"を想い、生きてきた。でも、そのはじまりの一歩は、相手がミオリだから、踏み出せたのだ。
ミオリは出合い頭、冷ややかに、イスミを一笑して言った、
―『面白い奴だ』と。
そして、周囲と違うことへのコンプレックスや遠慮は、2人の間では無用だと、ミオリはイスミに教えてくれたのだ。比べられない。他の誰一人として、イスミの事情を知った上で、そんなことまで言いやしない。
「でも…」
イスミは、痛むお腹を押さえて、これまでのことを思い返す。
ミオリから送られるサイン、日常のやりとり、それらは、簡単に他の人間が入り込めるような、曖昧なものじゃなかった。ミオリは、普段からイスミのことを気遣い、本当に何でも、仕事の愚痴も、体調不良も、全部自分に相談してくれ、任せてくれ、とさえ言ったのだ。
*
食欲の無かった昨晩から、朝もろくに食べていない。そのせいで、ただの空腹が、まるで重篤な病気のようにも思えてくるから、余計に悲しい。おまけに、視界がぼやけてきて足が重いが、ここは日曜日の住宅街。すぐそこには、二車線の道路が見えるが、まだ少し遠い。ふらふらと歩いて、電柱か何か、せめて目印になるようなポイントまで行こうと、イスミは、ぼんやりと目標を立てた。
道の真ん中でしゃがみ込むには、まだ早い。たとえ、失恋という現実が、イスミの胸をザクザクと刻んでも、心臓発作までは起こしてくれない。それは、考えればどうかしていると思うほど気の長い、まるで対価を求めないような、真剣な恋だったせいなのか。フワフワと始まったはずが、20年近くも続いて、煮詰るだけ煮詰まったのは、自分の、そうした思い込みの"強さ"だけだったのかもしれない。
必要以上に、ミオリの生活に踏むこむことも、自分の考えを押し付けて、どうにかしようとしたことも、寂しいと言って、無理やり抱きしめるようなことも、一切しなたことがない。いったい何度、口から出かかった言葉を飲み込んで、あらぬ想いを、力ずくでもみ消そうとしたことだろう。こんなことなら一度でいい。ミオリに本気のキスをしたかったと、イスミは思う。
『駄目だ、こんなんじゃ…』
気力が尽き、腹痛が吐き気に変わるのを感じて、そろそろとうずくまる。ようやく地域の掲示板の前だった。このまま、タクシーでも呼んで帰ろうかと思い始めたとき、腰のあたりで、短い振動音が鳴る。取り出して携帯の画面を見ると、短大以来の付き合いの、
声をふりしぼり、「ぁ”い」と応えると、ビクッとするほど、黄色い声が耳元で鳴り響いた。
「ダレよー酒で喉でもヤラレてんじゃないの? 不摂生してんね。もしかして起きたとこぉ?止めとくー?」
彼女の日頃のテンションの高さは、結婚して二児の母になっても、変わらない。
普段は多少、鬱陶しくも感じる場違いな陽気さが、いまは恨めしいくらい、ほっとするものに感じる。
「ま”さか。いま、外なんだけど、動けなくて辛い…」
相手はユミだ。ギャグ程度に受け取ってもらえばいい、そんなつもりだった。
「うそ、マジで?ヤバくない? 今から上の子、日曜教室に連れて出るんだけど、ついでに昼飯を、外で食べようと思ってて。近ければ、サキコも拾ってやるけど。どこよ?」
予想外の申し出が、この上なくありがたい上に、断る気力もない。
通話状態にしたまま、自分の居場所を知らせるアプリを起こそうとして、面倒に感じる。ふと見上げれば、住所地番の表示が、そこにあった。
それをそのまま伝えると、ユミは程なく、イスミの前に、オリーブ色のミニバンで乗り付けた。思わず見とれてしまった、颯爽としたタイヤ捌きに、イスミがゆらゆらと近付いて行くと、運転席のユミが、ガラス越しにイスミの姿を確認する。
ぐっと身を乗り出し、伸ばした腕で助手席の扉を開けると、「ほら早く」と、イスミを急かした。
「ごめん」と言いつつ、イスミがバンに乗り込み、ミラー越しに後部座席をうかがうと、眼鏡をかけた、7、8歳くらいの彼女の長男が、携帯ゲームに夢中になっているのが見えた。隣には、チャイルドシートに守られた長女が、つぶらな瞳でイスミを見返している。
ユミは、ハンドルに手をかけ、前後斜め、往来を確認すると、すうっと息を吸い込み、張りのある声で言った。
「行っきまーす、シートベルトをちゃんとお締めくださぁい」
イスミは慌てて、シートベルトを引く。こんなときでも、小さなこどもと目を合わせると、なんだか無性に幸福感に包まれるのは、なんでだろう。はっと見ると、自分のひどい顔が、サイドミラーに映っている。みっともなくて、また泣けてきそうだった。
「なによ、失恋でもした? いい歳の女が、道端で何してんのよ」
ユミらしい気遣いである。笑おうとすると、まだ攣れる頬をさすって、イスミは打ち明けた。
「返す言葉も…ございません。その通りで…」
信号の切り替わりを待って左折すると、ユミが感心したように応える。
「ふーん。日曜の昼に失恋ねー、昼ドラか、って感じ?」
「ハハハ…」
ユミは、それ以上、特に追及するでもなく、「ファミレスでいいよね」、とイスミに言うと、鼻歌を歌いながら、軽快に車を走らせた。車体の大きさがもたらす安心感なのか、こうして運転に揺られていると、心底、気持ちが安らぐ。
つい、一か月前の同窓会で会った派手な様子のユミの、予想外の母親ぶりにも何だか安心を覚えて、イスミはウトウトと目を閉じた。とにかく今は、ミオリを感じない場所へ行きたい。それが叶うなら、どこへでも。
眠りに落ちたイスミを見て、ユミはふぅと、息をはく。まずは最初の目的地。長男を柔道教室の前で下ろして、着替えの入ったリュックを持たせる。日曜日はいつも、このために早めに昼食を摂らせているし、お腹が減ったときのおやつも、抜かりなく、リュックに入れてある。
「ほら、頑張れ」
ふてくされた様子で、ゲーム機を母親に押し付けると、長男は、同じ教室の友人の元へ、パタパタと駆け寄っていく。一仕事終わったと、ストレッチしながらユミが車に戻ると、まだ寝ているイスミを起こさないように静かに、長女も連れて入れる食事場所を求めて、最短ルートを検索する。
「よっしゃ、ハナちゃん、ご飯食べよう」
長女にひと声かけると、ユミはハンドルを切った。
**
「カレー、ですか」
「はい、カレーです」
戸越ユウヤは、てきぱきと動いて、食事の用意をするミオリを眺めながら、しなくてもいい確認をする。ミオリも当たり障りなく、相手の問いを、肯定するだけの返事を返していた。
「お手製ですか?」
「はい。朝から作りました」
炊飯ジャーを開けて、ほどよく蒸れた白米を、混ぜ起こす。ダイニングの空気に、いち早く完成されたカレーの香りが立ち込め、鼻と食欲を刺激する。
「私はそれほど、食べません」
「そうですか」
大して盛っていないごはんを、更に少なくして、カレーをかける。ミオリは、自分の皿も同じだけの量をよそうと、鍋のふたを閉め、食卓へ運ぶ。冷蔵庫からサラダボウルを取り出し、突っ立ったままの戸越に渡す。戸越は、少し考えるそぶりをして、テーブルの中央に置いたので、よしとした。
グレープフルーツジュースの瓶を取り出し、コップに注いで一口あおる。取り皿、福神漬けなどの取り合わせも小皿に持って出し、テーブルの中央に置く。
食事の用意がすべて終わったのを確認し、ミオリはエプロンを提げて、上着を脱ぎながら一旦、寝室へ引き上げる。皺にならないよう、ハンガーに上着をかけ、シャツの汚れ防止のため、紺色のエプロンに首を通して着なおし、腰ひもを結ぶ。そして空きのハンガーを一つ、戸越の為に、持って出た。
リビングに戻ると、戸越は物珍し気に、ミオリの趣味の一つである、パッチワークの壁飾りを眺めている。
「どうぞ」
ミオリがそう言って戸越にハンガーを渡すと、察したように上着とコートを掛けたので、ミオリはそれを預かり、反対側の壁に吊るした。ちなみに壁の木製フックは、ニスがけまで、ミオリの丹精込めた手作りである。
戸越は、もとよりスリーピースでベストを着込んでいたため、脱いでもそれほど印象は変わらない。戸越が、ようやく椅子に腰を下ろしたのを見て、ミオリも、向かいの席に着いた。
向かい合って互いに一礼すると、戸越が口火を切った。
「正式なお付き合いは、いつからですか?」
ミオリは、当然、という顔をして、答える。
「お断りします。予定はありません」
戸越も、ミオリの答えに驚いた様子など無く、こう切り返す。
「では、議論の余地はない、ということでしょうか」
「私に、その意思はありません」
戸越は、ミオリの言葉に小さく肯くと、言った。
「私にも、その意思はありません。食べましょうか。とりあえず」
ミオリは、眉をあげ、一瞬怪訝な顔をしたが、気を取り直して、手を合わせる。
「では、いただきます」
「いただきます」
しばらく無言で、食事に集中する二人。半分ほどカレーを腹に収めたところで、戸越が水を飲み、ミオリに言った。
「さすがの貴女も、相当に苦心したようですね。料理まで作って、仮の婚約者なんかを自宅に招いて、接待まがいなことをして。良かったのですか。先ほどの女性は、貴女の、”特別大事な方”でしたよね」
ミオリも、サラダのプチトマトを咀嚼し、一息つくと、戸越の方を見て言葉を返す。
「さぁ、どうでしょう。私の、あの子への構いっぷりは、そろそろ度を越えて、弟たちにも、冷ややかな目で見られているので、今更、隠すことも無いというか」
ミオリはやや大げさに、自嘲してみせる。
「それに、私が結婚を蹴るのは、何も、あの子の為じゃないんです。無理なんですよ、そもそも、私が男性と結婚を考えるのは。所謂、”普通”では無いことなので」
「と、いうのも?」
戸越は、皿に左手を添え、スプーンでカレーを掬いつつ、話の相槌を打つ。ミオリも同様に食事を再開して、話を続ける。
「検事は、トランスジェンダーという言葉をご存知ですか?」
戸越は、少し首をひねるようにして、言葉を濁す。
「まぁ、言葉通りのニュアンスなら」
ミオリも、そんなものだろうという顔をして、手元の残り少ないカレーを寄せる。
「性同一性障害と言った、身体と意識の間に、明確な性自認の齟齬が無いものの、"見た目"と違った性意識を持つ状態だと、私は理解してます」
戸越は、全く手を付けてなかったサラダに着手し、もぐもぐと口を動かす。
「まぁ、合ってるんじゃないんですか。お調べになったのでしょう?」
ミオリは、最後の一口を飲み込み、ジュースで口の中を切り替えると、レタスと格闘している戸越の頭をじっと見て、言った。
「えぇ、調べました。私的な理由で。ずっと違和感があったんですよ。子ども時代、第二次性徴を迎えて、身体が女になることが煩わしかったとか、そういうのは、まぁ、それは、どの女子にもあるだろうと思うんですけど、私には、そうした引っかかりさえ、ありませんでした。『あぁ、そう』、という程度でした。
ただ、自分はその程度でも、周囲の対応は変わってくるものです。兄貴分や弟たちと遊んでいても、向こうは遠慮するわけです。おまけに、体格差も、性別が違うのですから、どんどん開きが大きくなる。そこでようやく、『何で?』と思いました。自分が当然だと思い、願っていた成長過程というものは、どうやら男性のものらしいと、そのとき、気付きました」
戸越は、興味を持った様子で、先に食事を終えたミオリの手元を見つめる。
「食べるのがお早い。それで?」
口の端をハンカチで拭うと、戸越が話の続きを促す。ミオリが、レモン水の入ったピッチャーを持ち上げ、戸越と自分のグラスに
「べつに、自分が女であるのが間違ってるとか、そういう感覚は無く、女子の服を着て、足を閉じて座って…なんて、限定的ではありますが、身体の造りに即した美学の様なものじゃないですか。なので、そんなことは全く構わない。これも、『あぁ、そうですか』という程度のことです」
戸越は、良い香りのするレモン水に舌を付け、それが甘いことに気付くと、やたら嬉しそうな顔をして、二口、口に含んだ。
「でもそれじゃあ、なんにも困ったことにはならないでしょう? 見た目通りの女性
として暮らせる」
グラスの縁をなぞり、ミオリは、顔にかかる髪を指で払うと、難しい顔をする。
「ところが、そうもいきません。世の中には、男らしい考えや、女らしい考え、というものがあるらしい。それが、脳機能の違いだとか学者が言うのですから、困ったものです。性別という、生まれ持っての特徴が、本来自由であるべき個人の意思を縛り、左右する。これを、まるで社会全体が望んでいるような、そんな不安を感じるんです」
ミオリが考え込んだまま、戸越を見ると、戸越はお代わりのもう一杯を、グラスに注ごうとしていた。別に止めない。
レモン水ですっかり機嫌を良くした戸越は、血色もよく、いつのまにか、ミオリよりも元気そうな様子である。
「すみません、この手の甘味に弱くて、大変美味しいです。で、本題に入りましょうか?」
四十に近い、やり手の検事が、レモネード一つで、子どものように喜んでいるのを見ると、ミオリもいささか、勢いを削がれる。
「いいですよ」
ミオリは了承の証として、胸の前で腕を組む。戸越はというと、さっきまでの笑顔はどこへやら、すうっと表情を隠して、能面の様な顔に戻ると、ミオリと視線と合わせた。戸越が背筋を伸ばすと、ミオリを少し見下ろす感じになる。自然、ミオリは戸越を見上げて、固く唇を結ぶ。
「羽村さん、私がここへ来たのは、ほかの誰でもない、あの
「えぇ」
短く答えて、続きを待つ。戸越は、ゆっくりと瞬きをし、ミオリの目の中にあるものを、じっと観察しているようだった。ミオリは耐える。
「もし、私が仕事で見合いをする人間で、結婚も同じように考えていると言ったら、貴女は、どういう理由で断りますか。合理的な理由よりも、この際は、説得力のある話が聞けるといいですね」
ミオリは黙ったまま、鼻で息を大きく吸い、はーっと、静かに息を吐く。緊張で、瞬きが多くなるのを抑えようとすると、余計に目が乾く気がして、目頭に指をやる。
「泣き落としはだめですよ」
戸越がすかさず言うので、ミオリは『違う』という顔をして、その間に頭を巡らせる。何を言ったものか。
「結婚が仕事なら、私生活はどこに残るんです? それとも要りませんか」
ふと沸いた疑問が、そのまま口をついて出た。曖昧な問いになったが、戸越は、面白いと思ったようだ。
「”私生活”ですか…プライヴァシー、例え伴侶であっても、立ち入って欲しくない部分はあるわけで…確かに、私のような人間相手なら、良い答えです。いいでしょう」
戸越は両手を擦り合わせ、ぶつぶつと、何か一人で示し合わせた後、もう一度ミオリと視線を合わせた。今度はゆるやかに微笑んでいる。やや、怖い笑みではあるが。
「私を、あなたの持ち出したジェンダー用語で語るとするなら、"無性愛者"だと思います。というより、性的な意味合いで、人に好意を持ったことが無いんですね」
これを普通に言ってのけるあたりが、いい性格をしてると、ミオリは思う。
「それで? 要するにそれが、検事の結婚しない理由ですか?」
検事は手を組み替え、小さく首をふる。
「いいえ、”自然な結婚”というものが、出来ない理由、というだけです。つまり、私にとって、誰かとの結婚は、すべからく不自然なもので、もし、この私が結婚するなら、それは全て”不自然な結婚”、ということになる。屁理屈でしょうか?」
ミオリは苦笑いをして、首を傾げる。検事は続ける。
「ですから、私は結婚を仕事として引き受け、相手がトランスジェンダーだろうと何であろうと結婚できる、不自然な結婚も、可能なわけです。私の立場は、そんなところです。要するに、」
ミオリはぐっと、喉に力を込めた。ものの数秒で、形勢が逆転していた。
「あなたが、ほかの誰かと結婚している、ないし、結婚したい相手がいる、などという理由を除いて、私を退けることは難しいでしょう。それでも、」
その次に戸越が言う言葉を、ミオリは予測できた。
「それでも、向坂イスミさんを、“関係ない”と、貴女は言いますか?」
やはり、敵わない相手だった。ミオリは唇を噛み、戸越をじっと、見返した。
***
「結婚には、当事者の同意が望まれます」
ミオリはあがく。戸越も引かない。
「そうです。しかし、結婚の中身についても、当事者の決めることです。蓋を開ければ、仮面夫婦的な関係であったとしても、どちらかが他界して財産権の問題が生じる、ないし、その他の理由で係争の生じない限り、他人の迷惑にはなりません。前もって、約束事を書面にしたためる、という手段もあるでしょう。いかがです?」
ミオリが、自身のことにふれて、曰く、諸刃の剣になる告白をしたのは、いくら寛容な相手でも、多様な性の話となると、及び腰になるのを期待したからだ。まさか、こんなに平然と、こちらの土俵に上がり込み、自分の相撲を取り始めるなどとは、思いもしない。
それにしても、無性愛者だと自認する目の前の男を、ミオリは、どう扱っていいものやらと、思案する。
同じような自覚を持った人間は、おそらく世の中にたくさんいるだろう。しかし、正しく、こんな赤裸々な話をしたことが無いのが不利だ。この男の話が、根底からして嘘である可能性があるとしても、その可否を判断する材料が無い。
それにしても、身体的条件を含めて、他人を好きになることが無くとも、その精神に"奉職"という、利他的要素があるなら、仕事として、結婚を請け負うこと自体が、許されざる行為に当たるはずだ。それでいこう。
「その…検事は、不自然な結婚、と仰いましたが、そんなものを、たとえ相手が同意したとしても、行うメリットは、あるのですか?」
ミオリがそう言って、テーブルに片手を下ろし、空いた取り皿を重ね始めると、戸越も倣って、空のグラスを中央に寄せる。
「メリット…ですか。まぁ、無いでしょうね。だから、私は望んでいませんと、最初に言いました」
「私も、そうです」
ミオリはそう言って、片付け用に置いておいた、濡れ布巾を引っ張り、テーブルの隅を拭う。やはり、こうしていると気分が穏やかになる。ミオリは、頭を整理しつつ、戸越への問いを模索する。
「望まないことでも、やる必要があれば、それを行う。それが検事の言わんとする、仕事としての結婚、の定義というところですか。確かに、今や名字の変更や、戸籍の移動に対する疑問の声もありますし、共働き家庭における別住まい、別家計の実態から、何をもって婚姻関係とするかは、多様な論点を生んでいます。
結婚を、夫婦という、生得のものではない、新たな身分の取得と見る意識も、薄いかもしれない。つまりは、社会的身分の変化という、一回きりの絶対的なものではなく、そうして変化する、ライフスタイルの中身、結婚が与える社会的価値のプラスとマイナスを、その当事者が評価し、継続の是非を不断に検討できる、生活形態の一つ、と言えるものになっている。
そこに、愛情関係があろうと、契約関係以上の何もなかろうと、生活様式として望ましければ、それを選ぶ理由がある、ということ。国家経済策として、結婚が推奨されている現実も踏まえれば、無理とはいえない『動機』になってしまうのかもしれない。そんなところですか?」
ぺらぺらと、口を突いて出てきた言葉だったが、どこをどう切り取っても、自分の身に当てはまる部分の無い話だと、ミオリは思った。
戸越は、注意深く、ミオリの問いに耳を傾けていた。その目に瞬きは少なく、細かな隙でも、見つけようとするかのような、そんな様子だった。ミオリが口を閉じたのを見計らって、戸越は問い返す。
「もしかして、肝心の話から、私の注意を逸らしたいのかも知れませんが、戻って、向坂さんのお話をしましょう。貴女と向坂さんは、非常に仲のいい、ご友人だと聞いています。勿論、お二人の関係は、身内の人間にあたって、いろいろと確認した上で、話をしています。
そして、先ほどの、あなた自身の事情。これは、向坂さんに打ち明けてらっしゃる内容ですか?」
戸越の確認に、ミオリは「いいえ」、と短く答える。あまりにハイリスク過ぎて、言えていない事実だ。できることなら、すべて”気のせい”、だと思っていたいほどの。
戸越は、ちらっと自分の手元を見るように視線を外すと、言葉を継いだ。
「そんなことだろうと、思います。まぁ、心情もお察しします。ですが、その秘密が厳として存在する事実をもって、貴女と向坂さんの関係性に、”恋愛関係”と呼べる、疑似的要素さえ無い、ということになりませんか?」
ミオリは言葉に詰まる。
言い返せる何かは、確かに『ある』と感じる。しかし、それを戸越に説明する言葉が見つからない。戸越は、そんなミオリに追い打ちをかける。
「では、こうしませんか? 私と貴女がまず、籍を入れて、形式的な婚姻関係を結ぶ。それから、できれば住民票を異動させて、貴女か私の住所地を、どちらかに統一しましょう。ただし、生活はそのまま、副次的使用の住居として、現在の居所で、それぞれ暮らします。また、今後の備えとして、『夫婦』名義で、基金の様なものは設けておきましょう。これは、係争回避のため、第三者に管理してもらうのがいいでしょう」
ミオリは、戸越の話に、耳を疑う。しかし、当の戸越の平静は、変わりがないのだ。
思いついたことを、言い切ってしまうまで、戸越の話は続いた。
「他にもいくつか、形式的な夫婦を維持するための、了解事項を検討しましょう。そしてこれが、一番貴女にとって、望ましいことだとは思いますが、向坂さんとの望めない婚姻、家族関係を法的に取得するため、私と貴女が”結婚”した暁には、向坂さんを、養子に迎えましょう。そうすれば、」
ミオリは、震えはじめた拳を、テーブルの下に隠して、戸越を見つめる。
「そうすれば、貴女と向坂さんは、親子の関係。財産の贈与や、保険、法的な代理関係にも、第一候補として、互いに名前を取り交わすことができます。これは、貴女にとって、他に比べるまでもない、最良の手段のようにも思います。貴女の、向坂さんに対する”想い”の、あるべき形は、こんなところではないのですか?」
議論を、円滑に終えるべき場面で、冷静さを失ったらどうなるだろう。
ミオリは自問する。『しかし、これは議論ではない』と、心の声が答える。
ミオリは乾いた唇を舐めると、声を落として、戸越に言った。
「…1週間でいいです。検討させて下さい」
ミオリの答えに、戸越は小さく首を振る。
「結論の先延ばしは危険です。断れるものも、断れなくなる。おそらくは”職業病”、なのかもしれませんが、決着は早い方がいい。私がここへ来たのは、自分の仕事を果たして、結果、貴女の方から適切に、断ってもらうためなのですから。貴女も負けずに、覚悟を決めてください」
「…そう、ですよね」
ミオリの返事に、小さくコクンと頷いた戸越は、「ごちそうさまです」と言い残し、席を立つ。
気力を消耗したミオリは、その様子をぼんやりと眺めたが、椅子から立ち上がる気配は無い。着席したままの姿勢で、戸越に会釈を送る。
「では、明確なお返事を、お待ちしてます」
戸越は、コートを軽く羽織ると、まるで影のように静かに、ドアを開けて出て行く。
ミオリは、短くない間、戸越の消えたドアの方を見つめ、考えを巡らせていた。
そして、大体の論点を洗い終えると、
何一つ、正しく、相手を評価できていなかった。そのせいで、やみくもなことを言ってしまったのだと、今なら分かる。
イスミのことに始まり、戸越の人となりに関しても、肝心な情報が不足していた。普段ならもっと、緩やかに構えられただろう。それがなぜ…と思いながら、目の前の食事跡を眺める。
そうだ、イスミだ。イスミは、どうしただろう。
ミオリは、チクチクと痛む胸の辺りをさすりながら、静かに、長く、深呼吸をする。
何より悔しいのは、戸越の言ったことが、かつての自分が考えた、本気の選択肢の一つと、寸分と違わないことだった。イスミに拒絶されることを恐れて、でも、どうしたら友人以上になれるだろうと、手段を勝手に模索した。まるで、何もかも見透かされている。
自分の甘さ、至らなさ、疎かな部分。
そうしたことを、全部利用されて、ぐうの音も出ない。けれど、相手は負ける気が無いだけで、勝とうとしていない勝負なのだ。そんな勝負で、手も足も出なくてどうする?
『めちゃくちゃ、カッコ悪い…』
ミオリの口から、そんな言葉が漏れた。
昼の午後二時。
ミオリは、自分の頭をがしがしと鷲掴みにし、髪をぐいぐいと引っ張ると、それでも気の済まないように、自分の両頬を抓った。
すべて
既に、自分一人でどうにかできることなど無いのだ。イスミを望む人生を生きるのなら、本当の自分勝手は、もう出来ない筈なのに、そんなことさえ、未だにちゃんと理解できていない。
身に起こる厄介事を、すべて一人で抱え込もうとする自分のエゴを、乗り越える方法。
ミオリはそれを探して、ようやく、重い腰を持ち上げた。
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