好敵手と日曜日のカレー
ミオリは鏡の前に座り、アイラインを指で整えた。天気のいい日曜日だが、残念ながら、楽しい一日が始まったわけではない。明日の月曜日が、待ち遠しく感じるほど気鬱な朝を、ミオリは、生クリーム入りのヨーグルトと、焼きたてのレーズンパンで迎え撃つ。ストレスで、胃が少し傷むのだ。
今日、ミオリの家にやってくる戸越ユウヤは、同年代では最優秀と名高い、東京地検の検事だが、仕事で個人宅を訪問するということは、まずありえない。戸越は、あくまで私的な用向きだといって、ミオリの知人弁護士を介し、手書きの宛名の付いた封筒を一通、寄越して来た。それが一か月前だ。
開けてみれば、中身も恐ろしいことに手書きである。しかもかなりの達筆で、厳かな調子で、用向きが書かれてあった。
つまりは、ミオリの父親の依頼で、一度ミオリに直接会い、結婚に関する両者の前向きな意見を交換すること。そして、そのための日取りと場所を調整したいという、非常に簡潔かつ、明瞭な話だった。
戸越は、年齢でいえば、ミオリの4つ上。記憶に間違いが無ければ、ミオリの父の縁戚関係にあたる人間で、何度か、顔を合わせたことはあった。
手紙には、父の名前が記されていたが、どうせ祖母の圧力で、やむなく誰かの名前を挙げたのだろうと、ミオリは推察した。なぜなら、手紙の届く前の週の金曜日、ミオリが実家に着いて早々、珍しく父親が、姿を現したのである。
「ミオリちゃん、元気?」
白いワイシャツは、いつも通りタイ無しで、年中クールビズ状態。下は、黒のゆったりとしたパンツに、古びた赤茶の本革ベルト。耳のラインまで後退した髪を、坊主頭に剃り上げ、血色の良い赤ら顔は、まるで不機嫌さとは無縁の人間に見える。久しぶりに会った娘にも、百パーセントの笑顔を向けた。
いつかの誕生日にミオリが贈った老眼鏡を、チェーンに通して、首からぶら下げている他、目立った装飾品の類は、何も身に着けていない。ミオリの父は、如何せん、職業不詳の感はあるが、その笑みを見る限り、どこにでもいそうな男である。
「元気です。幸いに」
ミオリがそう言って、慇懃に会釈すると、父の方も小さく、ぺこりとする。
「良かった、よかった」
それ以上、何を言うでもなく、今来た廊下を戻って行く父親を、ミオリは呼び止めない。血の為せる業というか、父親が出合い頭、かたく握り合わせていた両手を見て、何か、ミオリに対して後ろめたいことがあるのだなと、それが分かれば十分だった。
祖母は、次の婚約者を、武闘派から選ぶと言っていた。自分の年齢で、いまだに結婚を考えるのは他人ばかりかと、ミオリは髪を梳きつつ、不服の表情を浮かべる。
正直言ってミオリは、”どうでもいい” のである。男社会の世襲制を、その家の女が担うというのは、至極、もっともではあるが、何せ実力主義のご時世である。下手に女が介在して、その流れを旧時代へ戻そうとすれば、反発する人間だっているだろう。
しかしだからといって、強者が、弱者を敷く社会ばかりが是とされると、当然、その基準に満たないものが、容赦なく淘汰される。何をもって平等とするかは、民主主義的手段を用いて決めるべきだと、ミオリを含め、弁護士であれば、皆そう言うのだろうか。
その「民主」の民の内に、女性が”きっかり半数”含まれるならいざ、なお現代においても、そんな”平等”は実現されていない。うかうかしていると、ミオリという女一人が、男たちのルールの”犠牲”になりかねないのだ。
黙っていれば火の粉が降りかかる。ならば、最小限の労力で、被害を取り除かなくては、とミオリは思う。ただし、ここで張り切りすぎるのは、経験の無い、若い内だけにしておこう。余計な力を入れれば、間違いなく、その熱は周囲に飛び火し、危うく敵の思う壺、ということもある。何であっても、たとえ、ひどく慣れたシチェーションであったとしても、最後まで慎重さが必要だ。
それにどう見繕っても、今日の相手は、最高にやりにくい相手である。ミオリは弁護士、相手は検事。年上で、出身大学も違う。専門分野と、さらに関心も違えば、仕事の話をしても、かみ合うかどうかさえ分からない。
手紙を渡してきた弁護士も、そもそも何で自分が取次ぎを頼まれたのかと、戦々恐々としていた。たまたま、刑事関連の証拠集めをしていて、数度、地検に顔を出しただけなのだと、言い訳のように、友人たちに言いふらしていた。
“なんで戸越検事が俺のこと知ってんの?怖いんですけど”
直接、裁判で顔を合わせることが無くても、目立ったことをすれば、自然と名前だけが噂に上る、狭い世界ではある。だが、余程、その方面に関心が無い限り、検事の方が、弁護士の名前を覚える理由など無いはずと、多くの人間が思っている。
特に、検事局の出世街道を、まっすぐひた走る部類の人間に、前触れもなく突然、さも意義あることのように親しくされても、何か底意でもあるのかと思う。
本人の自覚はどうあれ、建前というか、根本からして、代表すべき、権利主体が異なるのである。向こうは"国家"、こちらは"国民"。『国民生活の安寧』が、国家の求める利益だとしても、やはり、大事なのは線引き。同じく法に仕えるものとはいえ、それぞれの境界は、守らねばならない。
「よし、これでいいや」
戦闘用のスーツに着替え、ミオリは、化粧も髪も、いくらか新人の頃のような気合をいれて、整え終えた。外のようにヒールを履くわけではないので、いくらか見劣りはするが、失礼にはならないだろう。
約束は11時。昼食用のカレーは、すでに大鍋に出来上がり、特製サラダボールは冷蔵庫に入っている。
玄関の呼び出し音が鳴る。少し早いが、別に慌てることはない。準備はもう、終わっている。
「はい」
ミオリは玄関の戸を開けた。
*
ドアを開けて一瞬、ミオリは、いま自分がどんな顔をしたのかと、スッと肝が冷える思いで、目の前の人物を見つめた。
そこに立っていたのは、ジーンズにパーカーという出で立ちの、休日スタイルのイスミだった。ただ珍しいのは、ポーチ一つ提げずに、彼女が手ぶらであることだろうか。
二度だ。イスミはミオリを見るなり、目を大きく二度、瞬かせ、「おはよ…」と言った。そして、あろうことか玄関前で一歩、赤いスニーカーの足を引っ込めた。いつもなら、「ただいま」なんて言って、迷わず入って来るのに、どうしたのか。
ミオリに会ったら、言うと決めていたことを、何かの理由で忘れてしまったのか、それともただ、言い出せないのか。
どちらにせよ、ミオリは見逃さなかった。
顔を合わせたその刹那、イスミの目の中に浮かんだのは、”落胆”。自分から会いに来ておいて、”会いたくなかった”という顔をしたのだ。
スキニージーンズの、その青い腿の外側に、ぶらりと垂れた、形のいい、細い腕。
イスミの長く女性的な指先は、まるで、宙に浮いた鍵盤を押さえる様に、ちまちまと、もの言いたげに、動いている。イスミの心情を代弁しているのだろう。
ミオリは思う。自分が家にいることなど、イスミは、予想だにしなかったはずだと。
「おはよう、イスミ。何か…急ぎの話?」
自分の仕事着が、こんな風に役立つとは思わない。イスミには悪いが、これから出掛けると言えばいい。
「ごめんね、もう出掛けるんだ。どうしたの? 昨日の今日で、疲れたんじゃない?
少し休んで…」
我ながら余計なことを言ったかもと、顔を上げたイスミを見て、ミオリは思う。
イスミは答えた。
「ミオリ、何か、隠してるよね。日曜日だし、たしかに疲れてるけど、不安で寝てられなくて」
そう言うイスミの目は、ほんのりと充血し、
ミオリは、そっと、イスミを、ドアの内側へ招き入れると、とりあえず彼女専用のスリッパを並べ、家に彼女を上げる。ミオリは、まるで引き留めるようにイスミの腕にふれると、こう言った。
「もしかして、寝てない、じゃなくて、眠れなかった? イスミは、朝ごはん、ちゃんと食べた? もうお昼時になるけど、どうしよっかな…」
家の中は、うっすらと、バターカレーの香りが充満し、さっきまで料理していた気配が残っている。イスミは、ぼそりとつぶやく。。
「ごはん、食べたい」
ミオリは弱った。用意したカレーの量ではない、この時間、タイミングが問題だった。
「ほんっと、ごめん、イスミ。カレーはこんどでいい? もし、どうしても今日がいいのなら、夜、仕事が終わったら、必ず持っていく。晩ごはんに食べよう。ね?」
イスミは、明らかに何かを疑う目でミオリを見つめ、しかし、何をどう言ったものか、分からないようだった。
いつものミオリなら、自分が居なくても勝手に食べてくれ、と言うだろう。この家の鍵だって、イスミは持っているのだ。
一方ミオリは、あまりに今日の来客に集中し過ぎていた自分を、悔やんでいた。
仕事で留守だと言えば、これまでイスミは家に勝手に来ることも、頼まれもしない限り、留守中に家に上がることもなかった。そんなイスミ任せの習慣を、ミオリは、宛てにし過ぎていたのだ。今なら浅慮だったと分かる。
しかし、気になる。イスミの身に、いったい何が起きたのか。
昨晩ミオリは、ほぼ深夜まで、女性弁護士主催の、ある懇親会に参加していた。断り切れなかったのである。そのせいで、ツカサからの大事なメールをチェックできていない。大量に流れてくる仕事関係の依頼文は、見れば気になるので、昨日今日は、特別パソコンを避けていた。こんなことになるなら、今朝一番にでも、電話をしておけばよかったと思う。
イスミをどうやって家に帰そうかと考えながら、ミオリは、自分が必死になっていることなど、とっくにイスミは見抜いているのでは、と思い始める。
そのときである。
お客が来たことを知らせるインターフォンが、高らかに鳴り響いた。リビングに行く手前で問答していた二人は、さっと、互いの顔を見つめて、硬直する。
イスミは、ミオリが珍しく動揺していると、気付いた。
**
「出ないの?」
こう言ったイスミの喉は、キュッと緊張で絞まり、その次の息継ぎが、うまく出来なかった。思わず咳き込む。
そのイスミの様子に、額に手をやり、観念した様子のミオリは、はぁっと、短く溜息を吐いた。「ごめん、ちょっとこっち…」と言いつつ、目の前の作業部屋のドアを開け、イスミにそこへ入るよう、促す。
普段は、ちらかっているからと、足を踏み入れること自体、イスミが許されていない、小さな部屋だ。当然、ネコ太は立ち入り禁止の部屋である。
入れば、カバーのかかった旧式のミシンが二つ、明るい窓際の机の上に、仲良く並んでいるのが見える。その隣には、胴部分だけの、立派な布地張りマネキンが一つ、こちらに正面を向けて立っている。
明かりをつけて中に入り、振り返れば、日曜大工などもできる小型のチェーンソーや、大小のレンチ、電動工具類が、間隔を空けて、壁に飾られている。
イスミは、ふと、自分がここに来た理由を忘れて、ぼんやりとそれらの道具を眺めた。そして向かいの作り付けの棚に並ぶ、ナット、釘、ネジの詰まった透明な箱が、まるで分厚い銀色の壁のように、鈍い光を放っているのに、目を眩ませる。
「ちょっと、待ってて」
イスミをおいて、ミオリが出ていく。
パタンと閉じたドアの音に、イスミは、自分の思い違いの可能性を、また一つ、消すことになった。もし、本当にいま、ミオリが仕事で外出するなら、こんな風に自分を引っ張って、作業部屋に隠すようなことをしない。
ミオリが迷いなく玄関へ歩いていくと、扉を開け、「どうぞ」と低い声で呼びかけながら、誰かを家の中へ、招き入れる気配を感じる。
作業部屋のドアを一枚隔てて、廊下を左へ移動していく重い足音は、間違いなく男のものだと、イスミには分かった。
その足音は、後に続く、ミオリの軽い足音と一緒に、リビングの方へ遠ざかり、また一枚、玄関と食卓を隔てるドアの向こうに、消失した。何やら、ミオリが一方的に話をしている声の断片だけが、聞こえてくる。
『本日は…すみません…待ってて…』
声の調子が固いので、仕事の相手なのかもしれない。けれど、ミオリが、イスミの知っているミオリが、たとえ仕事の為であっても、男を自分の家に招くなんてことは、ありうるのだろうか。
ミオリの身内なら、分からなくもない。現にいつだったか、ミオリの弟の一人であるヨウジ君は、幼いネコ太の世話をするために、ここへ通ってきていた。イスミとも今ではメル友である。ネコ太の映像や写真を撮って、たまに送り合う間柄だ。
***
壁伝いの振動に気付き、イスミは回想から目を覚ます。軽い足音が左側から現れ、部屋の前まで来ると、「トントン」と、入室の許可を求める。
ミオリが戻って来た。
「どうぞ」
本当に有り得ないことだと思った。ミオリが部屋に入り様、深々と、イスミに頭を下げたのだ。
「ごめん、イスミ。私が、言い訳するの好きじゃないの、知ってるよね」
イスミは、ミオリのきれいな黒髪が、前に流れて、彼女の表情を隠し、つやつやと、白い天使の輪を抱いて光るのを、黙って見つめる。
そのままイスミが何も言わないので、ミオリは頭を下げたまま、言葉を継いだ。
「今日来ているのは、祖母が押し付けた婚約者で、私は断ろうと思ってる。でも、イスミがいたら、上手くいかないの」
ミオリはここでようやく、頭を上げて、イスミを見る。
イスミは、自分の口を覆うように右手をあてがい、いっそう褪せた気力の中に、キラキラと、硝子のように輝く涙の粒を、降らせていた。
「イス…ミ?」
当惑するミオリに、イスミはぶんぶんと、大きく首を振る。
「…ごめっ…ごめんね、ミオリ。私、気付かな、かったの。自分のことに精一杯で、ミオリのこと、おんなじくらい大事で、誰よりも傍にいるんだって、思ってた…でも、違うよね。ほんとうは、違うんだよね?」
「ん?何のはなし?」
大きな疑問符を浮かべたミオリを前に、イスミは身を翻してミオリを振り切り、部屋のドアを開け放つ。そして、バタバタとスリッパを脱ぎ捨てると、ミオリが止める隙も与えず、スニーカーを引っ掛け、家の外へ走り出ていく。
ミオリは、追いかけようと玄関に足を着いたところで、はたと、我に返った。
戸が、ミオリの目の前で、完全に閉まる。
追いかけるには、既に時期を逸していた。
ほんの数秒だったが、激しい葛藤の末、ミオリは、目の前の敵から逃げない、という選択をした。
ミオリの背後から、男の声が掛かった。
「なんだか、取り込み中のところへ、来てしまいましたか?」
パッと反射的に振り返り、ミオリは、「いいえ」と答える。
動揺による興奮で、妖しく光る眼を細め、汚れた足の裏を払いながら、来客用のスリッパに足を通す。ミオリは言った。
「もし、ここで逃げたら、私は本当の嘘つきです。イスミのところへは、帰れない」
「あぁ、あの方が、とはいえ、後姿だけですが」
すらりと伸びた痩身に、黒のコートを着たまま、じっと、こちらを見ている戸越は、冷え冷えとするような暗い瞳で、ミオリをとらえている。
きれいに剃られた鋭角な顎に、味気ない色のネクタイ。そこに、人間らしい感情はあるようで、見えなかった。
ミオリは大きく髪をかき上げ、フッと苦笑すると、戸越に近づいて行く。その脇を通り抜け様、戸越の肩にわざとぶつかると、そのまま身を寄せて、耳元で囁いた。
「あの子に手出しは無用です。勝手に"関係者"、にしたら、後ろから刺します」
戸越は、そこでようやく、うっすらと、愛想笑いの様な笑みを浮かべた。
リビングへ戻るミオリの後に付いて自分も戻ると、コートを脱いで畳み、椅子の背にさっと掛けた。
「さぁ、お手合わせ願います、羽村さん」
ミオリは、換気扇を回し、鍋に火を入れ、カレーを軽く温め直す。
「お手柔らかに、検事さん」
そう言いつつミオリは、戸越に氷水の入ったグラスを、差し出した。
時刻は12時ちょうど。
『見合い』という名の、裁判が始まった。
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