甘いお菓子と心の隙間
2月の第2週目、土曜日。
ミオリが、バレンタインデー用にチョコレートケーキを焼き、これから二人で食べようというところで、ミオリに呼び出しがかかった。どこかの資産家が倒れて、一計を案じた家族が、相続問題の先手を打つため、ご指名なのだという電話だった。
「ごめんね、イスミ。今日呼ばれたら多分明日もだけど。月曜日には、無理やりにでも都合つけるから」
「うん、ケーキ、出来立て貰っとく。代わりに、渡したいものが私にもあるし」
ミオリは、わかったという体で頷くと、まるで男並みの速さで黒のスーツを着込み、コートとマフラーを抱えて、リビングに戻ってくる。イスミが、テレビを見ながらケーキをつつく横で、ミオリも味見程度に一口、口に入れる。
「甘さが足りない?」
「いいや、ちょうどいい」
「そう」
安心したようにミオリが微笑み、イスミに手を差し出す。今年から始まった、しばしの間の別れの挨拶だった。
「いってらっしゃい」
イスミはそう言って、ミオリの小さく、温かな手を、ぎゅっと力を込めて握り返す。
「いってきます」
ミオリも、イスミのほっそりとした指先の冷たさに、名残惜しい気持ちを残して、部屋を出ていく。休日呼び出しの際の化粧は、必ず立ち寄る事務所で済ませるのが、ミオリの行動パターンなので、イスミも気にしない。
『要するにこれだな…』
イスミは、フォークを咥えたま、向かいのミオリの席に置かれた、食べかけのケーキを見つめる。
『食べてしまっていいものか』
そう思いつつも、すでに手は伸びていた。ついでにミオリのティーカップも引き寄せる。
『本当にいい香り』
チョコレートケーキに合う、最高のミルクティーを崇める様に、イスミは湯気の上るカップに鼻を近づける。可哀想なミオリ。本当は、家の中での仕事や暮らしが大好きなのだ。
先だっての年始の誓いは、せっかちなイスミの性分もあり、早々に実行された。
「ねぇ、ミオリって、いまの仕事好き?ずっとやっていくって、私はてっきり思ってるけど」
「え、何。あらたまって」
レースのストールを編むミオリの横で、イスミは、自分の膝の上で落ち着いたネコ太を撫でていた。
その日は、年明け初めて会えた日曜日で、ミオリの好きなチャンネルのラジオを付けて、オレンジリキュール入りのココアを、おやつに用意した。
ミオリの家の床暖房は快適なうえに、普段飲まないココアが、何とも言えず美味しくて、気が軽くなったのもある。
イスミは自身の転職の際、ミオリがしてくれた、あらゆるアドバイスと助力を忘れていない。
「私は、今の加工会社に入って、良かったなって思う。時々、空気が魚臭いかな、って思う時もあるけど、魚、食べるのは好きだし。慣れれば、漁村暮らしみたいな気分で、いいかなって。
営業部に私以外、女がいないのも、楽な理由かもしれない。前の会社で、女同士の面倒な足の引っ張り合い、というか嫉妬というか、うんざりだって。全部、ミオリに話したこと、みんな覚えてて、そういう職場を紹介してくれたんだなって、私、きちんとそこまで、気を回せてなかった。
気付くの、遅いよね。まぁ、必死だったわけなんだけど。で、私の方はいいとして、ミオリね。ミオリが弁護士って、すごいって思ってるし、尊敬してるし、そのおかげで助けてもらってるわけだし、他の仕事をしてるミオリ、って私知らないし、まぁ、当たり前だけど。
でも、もし、もしだけど、ミオリが仕事を好きじゃない、専業主婦がいいって思ってるなら、私も、何か…手伝えることないかなって。いや、ミオリは頭がいいし、ほんと、どんな仕事でもできるはずで」
ここまで早口で言ってのけたイスミは、どうだ、とばかりにソファの上のミオリを見上げる。するとそこには、豆鉄砲をくらったようなミオリの驚いた顔があり、次の瞬間、ぷっとミオリの表情がゆるんで、笑顔がはじけたときは、さすがのイスミもドキッとした。
「やだなぁ、イスミは。そうやって、何でも先先、話を進めるんだ。私、弁護士辞めようとは思ってないよ。たぶん、向いてるし。この業界って特殊で、そうそう簡単に辞めさせてもらえないんだな。それに事務所持ち、だしね。
独立して事務所開くとき、付いてきてくれた人間もいて、今、なんとかやってるわけで、そういう勝手は、死ぬまで出来ないなと思う。ごめんね、イスミ。もしかして、いつぞやのやりとりを、気にしてた?」
ふわふわの白い花のモチーフを、その器用で、良く動く指先から垂らし、金色のかぎ針を、ペンのように握って笑うミオリ。
言葉ほど、気楽な話ではないハズなのに、どうしてこんなに穏やかに笑えるのだろう。イスミは真面目な顔をしてネコ太を抱え直すと、ミオリの方へ少しだけ、にじり寄った。
「ねぇ、ミオリ。ミオリが優秀だってこと、私も知ってる。ミオリに助けてもらって、喜んでる人、たくさんいるのも知ってる。でも、その分、大変な仕事だって思う。ほんとは土日だって、私が帰った後、書類仕事、してるよね。
たまにだけど、呼び出されて仕事に行くときもあるし。平日は? 夜、ほんとうは何時まで仕事してるの? ごめん、私、こういうのにだけは鼻が利くんだ。母さんが働くの、好きな人だったし。私も、あのときは止めなかったけど。でも」
勢いで詰め寄ったイスミの前に、ミオリがピンと指を立て、その唇に蓋をするように寄せると、一瞬、困ったような笑みを浮かべた。すぐさま、やわらかな微笑に代えて、イスミの頭を撫で始めときには、イスミも、自分の心配は杞憂だろうかと思い始めた。
「イスミのお母さんのこと、私も覚えてる。病院にも行けないくらい、忙しかったよね。大丈夫、私は健康診断行けるくらいは、余裕あるよ。健康にも気を付けてるし。
たしかに、弁護士の仕事は、底無し、限界無し。他の士業で出来ないことは、全部やらなきゃいけないような、責任もある。でもその分、個人の裁量も大きいの。ある程度顧客が付けば、それなりに、ね。
あとは、付き合いで回って来る仕事、国選の仕事が、期限とか拘束時間も含めて、ふいにやってくると、いきなり忙しくなったりするくらい。どっちにしても、仲間内で飲んだり、情報交換と言いつつ、雑談してる時間が長いよ、弁護士は。だから専ら疲れるのは、頭と口と…目だね。イスミがやってるような仕事とは、多分、感覚が違うから大丈夫」
「…そう?」
頭の天辺から、やさしく撫でおろしてくれるミオリの手が心地よくて、イスミは、少しうっとりとしながら、ミオリの目を見返した。膝の上のネコ太が、うーんと伸びをしたまま、またすっと、うたた寝に戻っていく。
ミオリは、編みかけのストールを横におき、今度は左手で、イスミの反対側の髪をさわさわと撫でおろす。
「イスミの方が、私は心配だな。今は良くても、もし、これから先困るようなことがあったとき、本当は傍でいつも支えてあげられたら、って思ってる。そうだな…結局、無いものねだり、なんだろうね。
万全の状態で、イスミをサポートできる立場だったらって、いつも思うけど。その一番、分かりやすい形が、イスミの家のハウスキーパーさんとか、そういう感じかなぁと。あれ、今も頼んでるよね」
「ん? うん、そうだね。週2で頼んでる。掃除とか洗濯とか、料理もたまに」
転職して間もなく、イスミは、身の回り、生活エリアの維持に回せる気力が、帰宅後残らないことに気付いた。ミオリにも相談して、そうしたサービスを利用するようになったのだ。
「あ、あれ? もしかして、ミオリの”おかえり”って、そういう意味?」
イスミは、はっと気づいて、立ち上がりかけ、危うくネコ太を落とすところだった。
「そういう…って何? そのままの意味だけど…」
イスミを撫でていた手を引っ込め、またストールを取り上げると、ミオリは不思議そうな表情をして、そう返した。
イスミは、誤魔化すように「ハハハ…」と言いつつ、クッションの位置を変え、もたれるように身体を倒すと、ネコ太を抱えて、そのまま床に突っ伏した。
『やだなぁ、私の早とちりか…我ながら呆れる』
ひとりで猛省しつつ、黙ってしまったイスミを見やって、ミオリは一つ深呼吸し、ココアのマグに手をのばす。
「イスミは、私が弁護士やってるの、好き?」
その言葉に、ぴくっとイスミが反応し、ロングヘアをかき上げると、その下から顔を覗かせた。
「好き。だってかっこいいもん。自分が着るとどうだかわかんないけど、ミオリの黒スーツは、なんかこう…むらむらっとくる。濃い目の化粧も、スーツの時は、ちょうどいいし」
これを聞いたミオリは、思わずココアで咽かけたが、なんとか堪えた。そして時間差でじわじわと火照り始めた頬を隠す様に、そっぽを向く。
また、それを素早く見抜いたイスミは、しめたっとばかりに、追い打ちをかける。
「高校生の時の、セーラーもやばかったよね。ミオリ金髪でさ、いまよりもっと髪が短くて、男子みたいで、『俺にふれたら怪我するぜ!』みたいな、キレた感じでさ。ケンカも滅茶苦茶強くて、でもスカートの下、年中、黒タイツでさ。そこだけなんか謎で、でも、きれいだったな。危なっかしくて、10代!っていう感じ?バイク乗ってたのも…」
「そこまで、そこまでで」
ようやくこちらを向いたミオリを、ニヤニヤとしたイスミが見上げて、『しーっ』というポーズで、”了解”の意思を示した。
「ミオリはほんと、昔の話すると、嫌がるよね。私は楽しいけど」
イスミはもう一度起き上がってそう言うと、残りのココアを、がぶがぶと飲み干す。その様子を見て、ミオリは、気持ちを切り替える時の癖で、左側の髪を、右手で耳にかけ直す。そして、殊更言いにくそうに、次の言葉を口にした。
「今後の生活に、昔の私が出てくると、少し厄介だから…」
口の端を拭いつつ、イスミは「ああ、そうだよね」と、今気づいたように、言葉を返す。しかし、次に何を言ったものか、今度はわからない。短い思案の末に、イスミは口を開いた。
「でも、全部、ミオリじゃん。私は知ってるぞ、って言いたいだけ。今のミオリからじゃ想像できない姿や言動を、私だけが知ってるという、要するにあれだね」
「あれ?」
ミオリの疑問符に、イスミは、喉まで出掛かった言葉を、ぐっと飲み込んだ。
「あぁ、っと。そろそろ5時だね。明日に備えて、今日は帰るよ」
イスミは立ち上がると、代わりにネコ太をクッションの上に寝かし、鞄を拾い上げた。上着は玄関にある。
「イスミ、あのさ」
ミオリもそう言いつつ立ち上がり、一緒に玄関まで付いてくる。そして上着を手渡すと、靴を履くためにしゃがんだイスミの肩口を、おもむろにポンポンと叩く。
「なに?」
イスミが振り返ると、ミオリがまっすぐに手を出して、握手を求めている。何事かと戸惑いつつも、イスミも手を出し、軽く振るように、ミオリの手を握った。
ミオリは言う。
「こうやって会えるときはさ、イスミに触れたいんだ。色々と日々、気力が奪われることも多いから、元気を貰いたくて。いいかな? こういう帰りの握手」
「いいけど…」
イスミは、そう答えたものの、緊張のあまり、急速に汗ばんできそうな掌を、どうしたものかと、考えていた。それ以来、この一見よそよそしい様な、奇妙な習慣が続いている。
**
イスミは、すっかり二人分のケーキを食べてしまうと、残りのケーキにラップをかけ、冷蔵庫にしまう。お茶も飲み干し、皿と一緒に台所で洗い、水気をふいて、戸棚にしまう。
「あとは…」
部屋を見渡して、洗濯物がたまっていないか、掃除をしておくべき場所がないか、確認する。ミオリのことだから、平日の内に大抵、全てやってしまっているのだが、どうやら今出来るのは、ネコ太の餌くらいだと気付くと、イスミは一人、苦笑する。
「好きでやってるって言っても、完璧すぎる。ほんとミオリってまめ」
あれから後日、また仕事の話をして、『本業と家事を比べたら、どっちが好きか』という話になった。
イスミは即答で、「営業」と答え、ミオリはしばらく悩んだのち、「楽しいのは家事」と答えた。その答えにイスミは、「まさかぁ」と言い、ミオリは、「ほんとほんと」と、冗談のように言って返した。
家事と言っても、大方、友人の世話を焼いているだけのような気もするのに、それと弁護士の仕事を比べる時点で、何か間違っていたかもしれない。
イスミはふと、開所以来、なんとなくの気兼ねから、訪れていない事務所へ差し入れでも持って行こうかと、思い付いた。
まさしく、『日頃、おたくの大事な先生にお世話になってます!』という気分になったからだ。すぐさま携帯で、事務所の場所を検索する。
「羽村事務所…あった」
足元にじゃれてきたネコ太に、「なぁに?」と声を掛けると、イスミは鼻歌を歌いながら、今度の会社の定休日に、ミオリの事務所訪問の予定を入れた。ネコ太に食事を準備し、彼女が、ムシャムシャと缶詰を平らげる様を、満足げに見守る。
「まずは、更にいっそう、良く知ることだよね、ネコ太」
ネコ太は返事をするように、小さく『にゃーん』と鳴き、イスミは「よし」と笑顔で応えたのだった。
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