祖母の語る「女」と自分の生きる道


 一方、ミオリの正月は、12月の終わりから、三が日、七日まで、毎年実家で決まった役割がある。恒例の顔合わせと情報交換に、入れ替わり立ち代わり、男たちが出入りし、挨拶ともてなしの食事が、滞りなく終わるのを見届ける。


 朝方、早起きをして庭先を眺めたとき、空からは雪が降っていった。まだ夜ではないかという光量でも、仕事があると思うと、その時間に目が覚めてしまう。目覚めの良さはいいのだが、睡眠が浅くなるのは、困りものだ。こういうときは、例年通りならば、ネコ太が癒してくれるのだが、今年は歯の治療から食欲不振になったまま、事務所のサツキさんの家にお世話になっている。目を離せない状態の彼女を、ここに連れてくる勇気はなかった。


 ミオリは、ネコ太の手触りを思い出し、今頃どうしているかと、また一つため息を吐く。仕事が無ければ、家でネコ太の世話も、料理も、裁縫もし放題なのに、そうもいかない立場が時折憎たらしい。ただ、趣味や快楽と、仕事は分けておかないとと、ミオリは思う。すべてが一緒に出来たら、きっとそれは幸せなことだろう。


 ただ、家の外にあるものは、決して好ましいもの、自由に出来るものばかりでないのだ。まして自分には、生まれた家、身の内から既に逃れきれない因果が、深く根を張っている。


 

「ねぇヨウジ、今日到着の鹿児島の叔父貴たち、飛行機が遅れるって連絡あったよね」


「はい、あねさん。だから、サタケ兄のお好きな和菓子は、少し後で届くように言ってあります。お茶の先生には、少し待ってもらって」


 

ミオリは、実の弟のように育ってきたヨウジを連れて、屋敷と言った方がいい実家の中を、文字通り、様子を見ながら巡回していた。さっきまで会合に使われていた、20畳間の部屋の障子戸をすべて閉め終わると、流石の寒さでも、首元に汗が滲んだ。


「うん、先生ああ見えて気が短いから、三味線でも、話し相手でも送っとかないと、帰ってしまうから」


「あぁ、そうでしたね。若くて気の付くの、やっときます」


「ありがと」



まだ、気を抜くには早い。年が明けてから三日。今日が終わっても、7日までは祝い事が続く。この時期だけとはいえ、連日着ている着物は、すっかり普段の生活から意識を隔絶するためのアイテムになっている気がする。ミオリは襟元に指を入れ、帯の位置を直しながら一息つくと、足袋の白い足で、また廊下をそそと進む。


 ヨウジはというと、この日の為に髪を黒に染め直して、着慣れない黒スーツに、ネクタイを締めている。子飼いの”弟”たちは皆、個性豊かだが、ヨウジはその中でも、14、5の頃からあまり雰囲気の変わらない、妙な男だった。あと3,4年もすれば三十に手が届くのに、貫禄が見えてこないのは、少し心配でもあった。


 

 ミオリは正直、毎年のこの”若女将的”仕事は、辞めたいと思っている。ただ、年通しで本家に立ち寄りがてら、会社内部の権力闘争と事情に通じているような人間は、ミオリを含めて数人程度。ミオリの祖父と祖母は、昔からの地獄耳と関心で、当然そのうちの二人であるが、面倒なことには一切顔を出さずに、口だけ出すという、まことに都合のいい知恵を回すので、年を追うごとに面倒である。


それから、神奈川の横浜支社を仕切っているヒロオミ兄は、適役だとは思うが、やはり自場の人間が一番だと言うし、その顔の広さで、知らないはずのことまで知っているので、わざとだろうが、対等に話がし辛い。余所の人間で知っているのは、仕出し弁当で付き合いのある、小料理屋の親父さんが俄然詳しいが、勿論、こんな役を頼めるはずもない。


 他にも真剣に探せば、地方にある支社、グループ会社のトップを務めるのではなく、ミオリの父親の直属の部下として5人ほど、常駐のデキる男たちがいる。当然彼らは、会社内の事情に通じているが、一人一人が既に、百人規模の部下と、得意とするシノギの世界にどっぷりとはまっているため、出張ると角が立つ。


角が立つんなら仕方がない。じゃあ、姐さんでいいんじゃないかと言い出したのは、誰だったか。それからこうして毎年、当然のように実家に帰り、父親の用意した、黒地の、しかし派手な模様の着物に着替えて、おつとめを果たしている。


 

 実のところ、ミオリは戸籍上、既にこの家の娘ではない。形式的なその「独立」を守るため、実家の顧問弁護士は断固、拒否している。その代わりに口数の少ない巨木のような男と、検事上がりの調子のいい男が、その役に付いてはいるが、言うなれば二人は、普段使いの「建前」のような存在である。実質の裁判沙汰で彼らがやるのは、いわば、顔つなぎである。多すぎず、少なすぎもしない金を用立て、腕のいい弁護士を紹介するのが、彼らの役割だった。


そこまでではない、ちょっとした留置場、暴力事件の際は当然、彼らも自分の仕事をするが、それは正しく汚れ仕事であったし、制服警官のこちらを見る目にこもった侮蔑を、ミオリは決して忘れることが出来なかった。ミオリも、十代の頃は色々あったのだ。




「姐さん、おかみさんが…サチコさんが呼んでおいでです。都合、つきますかって」



もう月の昇り始めた夕方六時、ミオリが、夜の宴会場に用意する膳の数を確認していると、祖母付きのナリチカが、ひどく、すまなさそうな顔をしてやってきた。


”おかみ”といっても、ミオリの母親ではない。父を生んだ女、つまり祖母のことだ。この男がニタニタと揉み手をして、へこへこと頭を下げるときは、碌な話ではない。呼ばれもしなければ、ミオリは祖母に会いに行くことが無かった。


 

 毎週金曜、家の仕事をしに帰っても、その意図をもって移動しない限り、父親は勿論、祖父母とは、顔を合わせる必要もない。出来る限り、会わないで済ませたい。会えば、二言目に何を言われるか、ミオリは十分予想がついていた。



「わかりました。こちらが終わり次第、伺いますと伝えてください」


今から頭痛がしてきそうな気がして、ミオリは額を押さえる。



「それじゃあ、確かに伝えましたぁということで、俺は失礼します」


「はいはい」


 しっ、しっという身振りで、坊主頭のナリチカを追い返すと、ミオリは少し考えた後、周囲の男たちにそれぞれ、次の準備の指示を出した。それが終わると台所へ行き、水を一杯飲み干して、立ったまま一息つく。そして、料理の進捗に遅れが無いことを確かめると、着物の襷掛けを外し、だいぶ崩れたように感じる化粧を直しに、手洗い場へ急いだ。祖母は、こういうことに兎角うるさいのだ。


 

「失礼致します」


廊下の板間に膝を付き、首を垂れて、祖母の部屋の戸を開ける。


「お入んなさい」


下げた頭の上、部屋の奥から、低くもよく通る、祖母の声が応えた。


 明るい角部屋、全室青畳の祖母の住まいは、一つの完結した住居といえる。小さな台所、トイレ、浴室まで、祖母専用のものが備わっており、どれも使い勝手のいい、最新式であることをミオリは知っている。実家の最高権力者は祖母であり、この振る舞いは、圧倒的多数の男たちが暮らす屋敷内にあっては当然のもの、というのが一つの了解事項になっている。


許可を得た上での入室。決まった動作で、敷居を跨ぎ、背後の戸を閉める。静かに身体の向きを正面に向けると、三つ指をついて、また深々と頭を畳に付ける。



「新年、明けましておめでとうございます」


「おめでとうございます、ミオリさん。少し遅い挨拶ですけれど、まぁ、いいでしょう」


 まるで女王蜂のような祖母であるとミオリは思う。祖母の敷くルールの前では、どんな男も抵抗の意思を捨てた。


ミオリは、祖母を見ていて、恐怖という感情が、実はそう単純な仕組みで起こるものではないことを学んだ。強靭な理性と言うべきか、諦念に似た人生の捉え方というのか、そうしたものでも、見せ方次第で大きな力になるということだ。


ようやく頭を上げて、祖母をまっすぐに見据える。ミオリはこういう時、自分が祖母の血を引いていることを強く意識する。



「えぇ。あっちからも、こっちからも、声が掛かって、まったく忙しいったらありません。お陰様で、ご挨拶が遅れてしまいました。お赦し下さい」


 

 ミオリが小学校に上がる前、彼女をおいて逃げた母親も、何より祖母から逃げたかったのだと、ミオリは思う。怒るどころか、その事実を知った朝に感じたのは、非情な母への共感だった。自分を押し殺して祖母に従っていた母は、傍目に見ても、ひどく危うく、痛々しかった。「いつかはこうなる」と、誰もが思った結果であり、残されたミオリもそれほど驚かなかった。



「あら。随分と言うようになったじゃないの。ミオリさんもいい加減、腰の据わる歳よねぇ。ずうーっと、言ってますけれど、いつになったら、結婚して息子を育てようという気になるのかしらねぇ。決まった相手がいるなら、ここに連れてきなさい。ヤスタカさんよりいい人がいるとは、思えないけれど」


「いいえ、います。でも、この家には関係ないことです」


ミオリはそう答えつつ、このやりとりを繰り返すのは、これで何度目かと考える。


祖母の言うヤスタカというのは、実家公認の”婚約者”であり、当然ながらそれは、ミオリの与り知らぬところで決まった男のことだった。


何をどう言って、祖母に取り入ったのか知らないが、候補と言うだけなら、他に幾らでもいそうなものを、その中でも一段、”軽薄”にしか見えないのが、ヤスタカという男だった。



「私は、ヤスタカさんと言う人を、好きません。サチコさんが、私の30歳の誕生日に写真を送って下さいましたけど、あのひょろっとした体躯。防弾チョッキなんて着たら、まともに動けないように、見えました。それから夏の盆に呼ばれて、何かと思えば、ホテルでの食事。他人のセッティングした見合いに、緩んだ笑顔で臨む人間の神経が、私には分かりません。別に私でなくとも、他にいい方がいらっしゃるんじゃありませんか」


 あまり日本では見ない黄土色のスーツに、黄色のタータンチェックのネクタイなんぞをして、ふわふわとした笑みを浮かべていたヤスタカという男は、年齢だけは自分と変わらないようだと、ミオリは感じた。


仕事で慣れている分、初対面の相手と話をする場面には困らないが、どうにも、会話の端々から自分の個人情報を得ようとしている、その意図が見えて、気分が悪かったのを覚えている。


「ヤスタカさんは、あの歳で大学教授をされていて、五か国語に堪能な方です。普段はアメリカに住んでらっしゃるのを、わざわざミオリさんの為に時間を作って下さってるの。話も合いそうだし、インテリなミオリさんには、お似合いでしょう?」


「いいえ、結構です。30歳も半ばの女を捕まえて、そんな優秀な方が結婚したいだなんて、よくよく他に何かあると思うのが当然です。あれですか、あちらの方は、すっかりこの家に”婿に入る”気があるということですか。それなら十分、理解できます」


祖母がわずかに顔を顰めたのを見て、ミオリは、そら見たことか、と思う。結局、家を離れた孫娘に再度、結婚という首紐を付けたいだけなのだ。



 ミオリが、ロースクールを卒業後、弁護士という職を得て、早々に理解したのは、自分の生まれが何のことは無い、社会に認知されても尚、それを本気で否定したり、生活の安寧を破壊したりする人間が、法曹界にいないということだった。どこにでも、似たような顔があって、こちらを見返し、『お父さんに宜しく』と言わんばかりの知った顔をする。


 終始ミオリは考えている。イスミを守れる、”強い人間”になりたいと。それはどんな意味においても、だ。


 でもそうしてミオリが上を目指し、業界を見渡せるようになると、嫌でも父親の存在が大きいことを認識する。家を出ても、イスミが住むこの社会で一緒に生きて行こうと思えば、実家からの完全な自由は、到底、望むことが出来そうにない。それを願ってもがけばもがくほど、逆に判断を誤り、本当に大事な人を見失いそうになった。


 ならば、次に何を為すべきか。分かっている。向き合うしかないのである。


 目前の祖母は、正にその向き合うべき現実の一つだった。



「ミオリさん、女の仕事とは、何だと思いますか」



ミオリは、祖母がまた、いつもの持論を持ち出したと、無言で構える。


うっすらと暖房の効いた室内で、お気に入りの藤色の着物に、黒の薄い綿入れを羽織った祖母は、厳しさの中に、美しさを兼ね備えた類まれな女性だということを、ミオリはよく知っている。


祖母を呼ぶとき、”おばあちゃん”ではなく、名前で呼ぶのも、そうした敬意からだ。



「女の仕事は、家を築くこと。ですか?」


だが、この話には、ほとほとウンザリである。祖母はひとつ、咳ばらいをして続ける。


「そうです。女の仕事は、男の人と結婚して子どもを産み、子どもの親となって家を作る、家を支える仕事です。だから女は、男の人と対等にはなりません。子どもが屋台骨を支えるようになれば、こうして男の人の上に立つようにもなりますが、基本、男の人の下でせっせと働くのが女の忍耐と言うものです。女の可愛げも、そういう健気さから自然と出てきます。


 それが何ですか、若いうちに色を売るようなことばかり夢中になったり、男の人と張り合って、蹴落とすようなことばかり考える様な、男みたいな女が増えて、わきまえも知らない。そうして家を守ることを知らないで、どうやって男の人と添えますか。望みが高いのは結構ですけれど、男の甲斐性は女次第です。最初から、あれも駄目、これも駄目。考えが甘いにもほどがあります。守ってもらう立場で、文句の多い」


ミオリは憮然として言い返す。


「文句、ですか。別に何かを期待して、口にしている訳ではありません。女が男と社会的に違わない生き物になったからって、何だっていうんです。

 

 確かに、女は子どもも産みますし、人間は所詮、動物です。でもだからといって、顔の上に『女』とか『男』とか、そんな生物学的分類をくっつけて、生きているわけではありません。サチコさん、あなたの仰ることは、です。いまは、自分の望む姿が、、映っていればそれで十分、と考える時代です」


 そう言いつつミオリは、これは自身のことを言っていると、少し後悔した。そしてまた無為に、祖母を怒らせるような言い方をしたのも、失敗だった。



「そんな自分勝手が許されると、ミオリさんは思っているの?」



 祖母のいつも白い顔が、さらにすうっと、蒼白になった気がした。ミオリはその様子を見て不敵に笑ってみせると、言葉を返す。


「勝手も何も、この世の中は、そんな個人を批判こそすれ、ただ一つのを示してくれるような、生優しいものではありません。自分勝手でなければ、それは、誰かの勝手に従って生きる、ということでしかない。サチコさんは結局、ご自分のルールの賛同者、シンパを近くに置きたいだけでしょう。何度も言っていますが、私はそこには入りません」


 祖母は、口をきゅっと結んで、腕を組むように羽織を寄せると、しばらく沈黙のままミオリを見据える。そしてふと思いついたように、小首を傾げてこう言った。


「ミオリさんは、曲がりなりにも弁護士先生でしょう。そんな立場の人が、言うこととは思えませんね。法律っていう同じルールを一緒にきちんと守りましょう、っていう約束をして、それで初めて、社会と云うものが成り立っているんです。違いますか」


ミオリは、自分と同じく勉強熱心な祖母が、法律に無関心だとは思っていない。だがその関心に情を抱くほど、ミオリは、祖母が好きではなかった。



「法律に、個人の生き方は書いてありません。確かに勝手な行動を制限したり、罰したりするのも法律ですが、正当な理由のない支配から、人間を守るのもまた、法律です。ただ、裏を返せば、そうした支配から守らない手段にもなりうる。


 無機質な道具に過ぎないそれに、心なんてものはありません。サチコさんの云うようなことを仰る人たちは一様に、法律に「心」があると考えていらっしゃる。確かに、条文を考えた人間に心が無い訳ではない。でも、そんな「心」なんてものを持ち出す方々は、法律にたった一つの解釈しか認めない、狭い了見の人たちばかりです。


きっと都合がいいのでしょうね、法律に心があれば、時代に合わせて変えたり、様々な解釈を加えることは、ので」



 ミオリは、仕事上、日々向き合っている法律というものに対して、こんなに熱弁をふるう日が来ようとは、今の今まで、思いもしなかった。まるで学生の頃のような青さが残っていることにも驚いたし、口論の果ての言い分だとしても、清々するどころか、墓穴を掘った気分だった。



「まぁまぁ。ミオリさんに法律の話をしても、勝てっこない、というわけね」


祖母にこんなあてこすりを言われても、それ以上は、何も言い返す気にならなかった。


自分の立場がどれだけ矛盾したものか、そしてその矛盾が、いかに周囲の人間に甘えたものかということを、またしても、突き付けられただけなのだ。



 ミオリの父親の仕事は、全国展開をしている有名な警備会社の社長である。その分野の人材派遣もやっていて、社員寮の整備の必要から不動産業、人材を広く募りたいという理由で、海外人タレント養成まで手掛けている。だが、その背後にあるものの実体は、恐ろしく”見えない”権力の構図だった。


幼い頃ミオリは、『もともと家は武士の家系なのだ』と父親が言うことを、ほんとうに信じていた。


時代が変わっても武士の矜持は受け継がれ、かつての御侍と似た仕事をしている、警察、政治家、官吏、それらはみんな父親の味方で、良い人たちなのだとも、ミオリは教えられた。だから絶対、「裏切ってはいけない」のだと。


 

 年頃になり、本をよく読むようになったミオリは、実家が、政治的右傾組織の集まりの場なのかと訝しんだ。高級車と強面の運転手付きで訪れる父親の友人、知人は皆、ひどく落ち着いていてあまり特徴が無かったが、どうやら、秘密の相談事をしに来ているらしかった。


ミオリは用心深く、家にいる間は、そうしたお客たちと鉢合わせないように過ごしていたが、やはり、同じ家の中である。手伝いの男たちの噂話に上る名前が、ニュースで聞くような老舗メーカーから、製薬会社、新興のネット通販会社まできりがない。普通は覚える様な名前ではない、人間の名前まで覚えるくらいには、関心を持つようになる。いったいどんな仕事の話なのだろうか、直接会わねばならないような話とは、どんな類の話なのか、と。


 知りたくて手を伸ばしたか、自ら望んで、首を突っ込んでしまったのか。それとも、気が付いたときには、既に遅かったというべきか。今ならわかるというものだ。




「勝手を申しました。支度があるので、戻ります」


「あらそう?じゃあ、今度は、武闘派のお相手でも探しときますね。そうなると、イツキさんが口出しして来るから、大変だろうけど」


「結構です」


 

 新しい候補者が、身内から出てくるという話など、もう聞いていたくなかった。だが、祖父母たちは諦めないだろう。ミオリは、部屋を出て行きかけて、振り向くと、祖母に向かって言い放った。


「サチコさん。私には決まった相手がいますが、子どもを持つ予定はありません。相手にも、この家に関わって欲しくない。それだけです」



 祖母がぽかんと口を開けて、何事かを言い返す前に、ミオリは部屋の戸を閉じた。

相手が女性だと言えれば、もっと良かったかもしれない。けれど、それを言えば、ものの数秒で特定されるくらい、イスミは自分の近くにいる。それが怖くて言えなかった。


 イスミを守りたい。自分の性別が男であったなら、もっと簡単だったのだろうか。いいや、もしそうだったら、イスミをとっくの昔に、”こちら側”に引きずり込んでいたかもしれない。



ミオリはここまで考えたとき、ふと、大声で叫び出したいような気分に駆られた。


でも急ぎ足で、台所に戻れば、ぶわっと熱気が立ち込める程、男たちがせっせと皿洗いや、グラス出しをしているし、目を離したすきに、やらなくてはならないことが山積みだった。

”こちら側”という言葉が、頭の中で出てくる限り、もしかして自分とイスミとの距離は、。その不安で、胸がつまりそうになった。


 どうしようもなく絶望的な気分を押しやるかのように、ミオリは着物の袖をたくしあげる。



「手が空いてるの数人!買出しに行くよ!」


「はい!」


 切り離せない、この世界での自分は、イスミに出会わなければ、今もこうしてここに在ったのだろうか。



「姐さん、大丈夫っすか?」


玄関で車出しの男たちを待っていると、疲れたようにネクタイを緩めながら、ヨウジがミオリに声を掛ける。


「うん、大丈夫、ありがと」


「そうすか」


ヨウジはうんうんと頷きつつ、幼げな笑みを浮かべる。ミオリもつられて笑い返す。



 半面ガラス張りの引き戸越しに、車のライトが近づいてくるのが見えた。ミオリが草履に足を乗せると、ヨウジも一緒に土間に降りて二重の玄関戸のカギを外し、ミオリの前に傘を広げた。朝に降っていた雪が、この時分になって、また降り出したようだった。


「お気をつけて」


ヨウジが小さく手を振り、ミオリは代わりに頷いて、それに応えた。



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