バレエ教室と冬の夜


 イスミは凝った肩を撫でつつ、いつもの乗換駅で改札を降りた。途端に顔面を突く冷気に、慌ててマフラーで首元を覆う。今日は久しぶりにバレエ教室の予約を取った。本来なら「レッスンの前日までに予約」の鉄則も、コウちゃんとの仲で勘弁してもらっている。


「もう少し、定期的に通いなさいよ。毎回毎回、骨の折れる」


 昼休み中の電話の向こうで、少し息を切らし気味にそう言ったコウちゃんこと、大洗コウイチロウは、ファンの間では有名な、『女性は友人』宣言をした、元プロのバレエダンサーである。


 現役を降りて後、舞台役者などをやっていたらしいが、バレエの感覚が忘れられず、自分の教室をオープン。経営自体は軌道に乗り出した頃、やっかいな金融会社に目を付けられ、一時は教室自体を閉めようとしたこともあったという。そのときに、ある伝手で紹介された弁護士がミオリで、詳しいことは話してはくれないが、万事解決。


イスミ自身は、そんなことがあったとはつゆ知らず、運動不足を嘆いた折に、「それならいい料金で通えるところがある」と、ミオリに連れて来られて以来の生徒、というわけである。正直、正規のレッスン料でもなく、会社帰りの8時以降に寄らせてもらえるというだけでも、十分すぎる待遇だとは自覚している。コウちゃんの懐の深さを含め、改めてミオリってすごい弁護士なんだなと、イスミは思うのである。



 夜になると途端に、艶っぽい雰囲気を帯びる大通りには、お酒の飲める多種多様な飲食店が立ち並ぶ。しゃれたイタリアワインの銘柄を載せたボードを出しているところもあれば、ぶんぶんと回る換気扇からの匂いだけで、通行人の嗅覚を刺激するお好み焼き屋までと、新旧、ジャンルともに幅広い。おまけに、その間を縫うようにそびえる細い個人向けマンションや、二階建てのヘアサロン、有名ブランドの輝くショーウインドゥの光まで混ざり、このエリアの、比較的富裕な層の住人のことをイスミは想った。


 彼女はとかく、荒れていた学生時代を含め、お金の心配をしなくていい生活、すなわちマイホームと自家用車を持ち、車で買い物や旅行に出かける家族連れの空気、といったものとは無縁の生活を送ってきた。テレビの宣伝や、こうした街中を歩いていると、そうした環境への”憧れ”をかき立てる様な、そんな仕掛けがあるように感じるが、イスミはそこからも自分は距離があると思う。何も、そうした「一般」的な幸せが、自分の幸せではないのだろうと感じるからだ。


 イスミは、大事な記憶のアルバムをめくり、引き出したミオリの涼やかな十代の頃の横顔に、胸のうちのモヤモヤが、温まっては消えていくような安堵を覚える。この2、3週間会えていない現実が、そうした過去への逃避を誘うのだが、14で出会ったころの彼女は、今とは違った魅力があったのだ。


こっちの角を…と、いつも目印にしている洋菓子店の明るい軒先を回り、バレエ教室の入るテナントビルを見つける。疲れた脚に気を巡らせ、入り口になる地階へ続く階段の入り口まで駆け寄ると、今度は、照明で照らされた足元を見つつ、ゆっくりと下りていく。



「こんばんはー」



ガラス製のドアを押し開け、外からも見える鏡張りの教室に、「先生」の姿を探す。応えの挨拶の代わりに、俄かに女生徒さんたちの談笑する声が聞こえてくる。そして、あの特別に高く響くコウちゃんのハイテンションの声が、そこに混ざって、何やら楽しい話題で持ちきりの様子。


邪魔するのも嫌なので、イスミは来訪者リストに自分の名前を書いて、読み取り機で会員カードをスキャンすると、カウンターから、いつも使っている番号のロッカーのカギを拝借する。



「御邪魔してまーす!」


声だけかけると、コウちゃんは初めて気づいたようにこちらに視線を向け、手を上げる。許可自体は取れているので、イスミはまっすぐに更衣室に向かった。



使い捨てのアルコールティッシュで汗を拭い、運動用のブラとレッスン着に着替えて、仕事用の化粧を落とす。ここでありがたいのは、広い洗面台と、仕事着のスーツも安心してしまえる鍵付きのクローゼットがあることだ。ごわついた髪を水で梳いて、一つにまとめると、かるく化粧水をはたいて、アイラインだけ入れ直す。そうしてしばし鏡の中の自分と対面して、年齢による変化を探す。


少しシミが増えたかも、とか、皮膚にハリがない、とかいったことだが、こまめに見ておかないと、ある日突然、大打撃を受けそうで、それが怖いのもある。

ある程度、気の済んだところで、いつかミオリと出かけて購入したコロンを、少しだけ手首に振りかけた。別に誰のためでもない、気分の問題である。



『若いってだけで、ある程度の自信になるのね…』


いつかのミオリが、ふと、ドラマの若い主演男優をみながら、こんなことを呟いていた。珍しく最近のドラマに夢中なのかも思いきや、どきりとすることを口走るものだ。それを聞いて気に留める方もなんだが、ミオリのそうした癖は、意外と誰かれの胸に突き刺さっているのだろうと、イスミは想像する。


同い年でも、社会人になると勤め先や仕事の交友関係の違いで、まったく違う世界の住人の様な気さえしてくるのが、不思議である。

長い付き合いだから、年齢のことは共通の関心として、歩み寄れそうな気もするが、どうも、ミオリに至っては「美」というより「健康」が第一らしく、化粧をしていない休日の何と生き生きとしていることか。


彼女の手料理に、自身の体調も整えて貰っているイスミとしては、全く反論の余地がない。共通項が少なくとも、を、互いに持ち続けて、だから話も絶えないのだろうかと、そんなことを考える。


イスミは、入念なストレッチをしながら、今日もそんな調子でミオリの話をする。話し相手は一応、鏡の前で、基本ポジションを確認するコウちゃんではあるが、彼はあいづち程度で、意識は自身の練習に向いている。ようやくまともな会話になったのは、ストレッチを終えたイスミが、バーの前にようやく立った時だった。


「ふぅっ、それで、あんたはミオリの機嫌を気にしてるっていうのね」

「そうなんだけど…あたた、まだ痛いわ」


 話は、夏に遡る。ミオリが珍しく真剣なまなざしで旅行雑誌をめくりながら、イスミに海外旅行に行かないかと誘ってきたのだ。学生時代は、学校や大学の友人たちと団体で、一緒に旅行に行ったことはある。また二度ほど、イスミの暮らすアパートの大家さんたち御夫人仲間に請われて、バス旅行に無理やりミオリを連れ出したこともあった。


国内旅行は経験済みで、海外にも行きたい気持ちはあったが、何ぶん、転職して一年目ということもあり、イスミの提示した1週間の夏休みは、ハードルが高かった。



『ごめんね、ミオリ。来年…いや、お正月ならどうかな?』


『あぁ、そうだよね。ん…正月は私がダメなんだ』


『そっか…』


 

今年はともかく、基本的に長期の休みが取れないのは、イスミではなく、むしろミオリの方で、思い出せば出すほど、無理にでも行く、と答えればよかった気がしてくる。



「お互い仕事があるんじゃ、そういうこともあるわよ。二度とないチャンスでもないでしょう?」


「そうなんだろうけど。でも、同じ年は巡ってこないというか」


「そりゃそうだわ」



まだ、身体に感覚が戻ってこないイスミを見かねて、コウちゃんは隣で、自分の動きを見る様に指示する。


指先、足先はもちろん、頭のてっぺんから体の中心をとおって、すべての四肢をつなぐ「芯」のようなものが、はっきりと「見て取れる」コウちゃんの動きは、性別を超えてとても美しい。そうして身体の動きも美しくなると、表情は勿論、頭の中まで美しくなる、というのが、コウちゃんの持論である。



「コウちゃんって、いつまでもきれいだけど、何かを目指してる、とか?」


イスミの出し抜けな質問に、コウちゃんは苦笑しつつも明るい声で応える。


「目指してるねぇ…具体的にこうなりたいとか、もう少し前ならあったけど、今はそういう、具体的な形よりも、意識を、毎日透明に保つ方が、大事な気がしてるわ。朝起きて、空がきれいねとか、子どもがかわいい、とか。そういう喜べることをちゃんと見つけて、前向きにみんな喜べるなら、何だっていいんじゃないかって、思う。形なんて、後からでいいわって」


「形…意識…はぁ、そういうのもありか」



動きがとまったイスミに、コウちゃんは「ほら、止めない」と、腰の位置を押さえる。思い出したように、イスミは自分と、自分の身体の可動範囲を感じつつ、縮んだり、固まっている筋肉や関節の隅々にまで、血が廻る様に意識する。


10代の頃の様なプロポーションはもう要らない。女性で生まれたからには、その性が与えてくれる身体の良さを感じられるように、円熟していけたらいい。


”幸い”イスミには、自分一人の仕事以外に、気遣う家族も無ければ、心配事もない。贅沢も出来るだけしないで、でも、ミオリのために魅力的であろうと、そういう努力はしていたつもりだった。


でも、どこかで自信がないのだ。ミオリが誘った一週間の旅行は、二人きりで過ごす夜のことを考えずにはいられなかった。もしかしたらミオリは、そんなイスミの心中を察して誘い、また断られたことを気にしているのかもしれない。


「コウちゃん、私たち、どう見えるのかな」


額に浮かんできた汗をぬぐい、一休憩の際に、イスミは尋ねた。同じように首元の汗を拭いつつ、コウちゃんは言う。



「どう見えるも何も、あんたたち、付き合いさえしてないんでしょ。身体の付き合いも無いのに、何いってん…」


最後まで言えなかったのは、慌てたイスミが、彼の口を押さえたからだった。声を殺してイスミは抗議する。


「…そんなこと!大きな声で言わないで!」


鬱陶しいとばかりに、イスミの手を払いのけると、コウちゃんも言って返す。


「あらやだ!他人のことは、根掘り葉掘り訊くくせに、自分のことは幼稚園生どまりってわけ?不公平~私にもあんたの恥ずかしい話、聞く権利ってあるわよね。なに?結局、旅行断ったのって、そういう理由なの?三十も過ぎて、そんな初心な女、初めて見るわよ、やめて!ニキビができそうだから」


「だって、だって!あのミオリだよ」


イスミも赤面しつつ、応戦する。


「これまでもそれとなく、それとなーく、言ってきたけど、いまいち伝わってる気がしないし、週末も私の方から『行っていい?』ってメール入れる方が多いし、手料理や手作りの服とか、なんかいろいろもてなしてくれるけど、家まで押しかけて来た友人なら、それも仕方なしなのかな…とかって、思うじゃん!仕事の話聞いても、あんまり話したくなさそうで、話題変えちゃうし、結局、私が自分の話だけして終わるっていうパターン、めちゃくちゃ多いんだよ!そんなんで楽しいのかなって、正直わかんないよ…」



運動後に水分もろくにとらずに、こんな話をするなんてと、イスミは、新たに噴き出た冷や汗を拭い、スポーツドリンクをごくごくとあおった。コウちゃんは熱いわね~とばかりに、片手をひらひらと動かしては、ひやかす様にそんな彼女を見つめた。


見た目も経験も、年相応に女ざかりなはずのイスミの、その青すぎる恋愛観を、友人としてはどうしたものか、と思うのである。


「まぁ、でも男同士ではないし、あんたたちみたいに、『自分の身体は気に入ってます』の女同士で、これだけ長い間、”友人関係”っていうのも既に変よ。お互い、彼氏の一人や二人、結婚して子ども持ってって、考えたはずの時期、とっくに過ぎてんじゃないの? 『私にはイスミが』『私にはミオリが!』って、互いに口に出さなくても、”了解済み”みたいな空気に、結局あぐらかいてるだけなのよ、そういう弱音が出るっていうのはね。あーやだやだ、もう少し、夜にやって来るなら、色っぽい話の一つや二つ、持って来いっていうのよ」


「…それは…失礼しました」


「ふん、分かればよろしい。じゃ、どうする?もう少しやってく?」


ヘアバンドからこぼれた髪を直しつつ、コウちゃんがイスミに尋ねる。イスミは、内心このまま帰りたい気分を押し殺して、笑顔で応えた。


「じゃあ、あと1セットのみで…お願いします」

「そうこないとね」


そう言って微笑むコウちゃんの笑顔は、とても女性らしい輝きがあって、イスミは、ときおりこの人が、年の離れた姉の様に心強く思う時がある。男性なのに、姉だなんて、とは思うが、基本、異性を恋愛対象にできないイスミからすると、とても特別な存在であるのは確かである。そしてついつい、相談事ばかり持ち込んでは、かなり突っこまれたことを言われて、タジタジとなる。


そのときは、わーっと頭が熱くなっても、あとで思い返すと、「コウちゃんの言うとおりだ」という感想しか出てこないため、時々これをやりにくる、という訳なのだが。


教室を閉める作業を一緒に終えて、ガラスドアを施錠し、表玄関の階段を一緒に上がると、イスミは振り向きざま、コウちゃんに言う。


「コウちゃんも、幸せになってね」


ニット帽を目深にかぶり、華奢なトレンチコートに身を固めたコウちゃんは、イスミよりだいぶ背が小さい。ヒールのせいもあるが、教室の一歩外を出ると、コウちゃんは意外と小柄な人なのだと、少し前に知った。


「何言ってんのよ」


コウちゃんは、そうボソッと嬉しそうに呟きながら、くるりとイスミに背を向け、彼氏の元へ帰っていく。そんな幸せそうな背中を見送るのも、イスミはとても好きだなぁと、思っている。

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