職場の新人と家庭裁判所

 

 外気も少し肌に沁みる様になってきた、10月半ばの昼下がり、道源寺ソウタは、上司の羽村ミオリに言われ、家庭裁判所の前で「待て」をさせられていた。


事務所に入ったときは、どちらかというと後見問題や遺産管理などの、比較的ローカルでお年寄り目線の、地味な仕事だろうと思っていた。それが3か月前のこと。”弁護士”を諦めていた自分にとっては、まるで救いの糸だった。やぶれかぶれで紹介された事務所に即採用が決まったときは、まさか自分が、こういう毎日を送るとは思っていなかった。


ロースクールでは、周囲に少し馬鹿にされながらも、家族法とその実利的利用について必死で勉強した。試験合格だけでは終わらない。すべては、自分の理想とする裁判官像のためだった。しかし上には上がいるもので、席次は真ん中もいいところ。何も名誉心からではなく、彼なりの正義感の行方を決めたかったのだ。


“世の中の不平等に苦しむ人を、助けたい”

自分がその一助になれるのなら、過酷な頭脳労働も厭わないと思っていた。


彼が持って生まれたものの多くは、彼の両親や、その祖父母たちに寄るもので、不自由ない暮らしに、心身の健康、優しい家族という、この上ない環境に感謝しながらも、自分は、家業である茫漠とした不動産業の渦に、身を投じることはできないと思った。むしろそうした商売が陰に隠してしまう、経済的・社会的弱者の人の身に起こる、数々の不幸にこそ、自分は手を差し伸べるべきだと考えていた。


「それが今では…」


何もミオリのお供をさせられていることを、不満に思っているのではない。むしろ、こうした外出は珍しい位で、今日も勉強になるからと言って、ミオリの運転する車の助手席に乗せてもらい、ここまでやってきたのだ。彼自身は、ほぼペーパードライバーである。


女性の上司も、”助手席”という位置も、それほど問題ではない。肝心の仕事内容の方だ。


「えっと、○○商事の年末調整?」

「え!あの有名な○○の離婚調停?」

「なんで海外セレブの相続税が、日本で問題になるんですか?」


こじんまりした、ひどく落ち着いた雰囲気の事務所は、別に、都内一等地のロケーションにあるのではない。それなのに、ミオリの口から出てくる仕事の話は、どれも、専任で受け持つのではないとしても、目がチカチカするほど派手な内容で、いったいどういうルートで関わっているのかは知れない。


事務所のある、昔ながらの街並みの残る飲食街は、ソウタも気に入っている。特に、隣に建つ老舗の蕎麦屋は絶品だ。6階建ての、少し古びた赤レンガ調の壁が目印の、ビルの二階と三階。


三階が事務所で、二階がまるまる事務所の応接室だというのには少し驚いたが、上司で、かつ雇い主でもあるミオリと、ほとんど事務所に帰ってこない「優秀な」男性弁護士二人に、司法書士のサツキさんと、倉橋さん。それと、清掃とお茶出し、電話担当のアメリカ人?の、エミリーさん。これだけの人員しかいない事務所である。


「"僕ができること"って、なんですか?」


思わず口をついて出てくるのは、こんな自信の無い言葉。ソウタのこの質問には、ミオリも少し辟易しているようで、


「”出来る、できない”は、まだ、ソウタ君の決めることじゃないから」


と一度、そんなことを言われたのを覚えている。


それ以来、内心の不安を吐露するのは、主婦業と兼業で4時上がりの、自己申告”アラフォー”の、気さくなサツキさんの前だけになった。


「べつにいいのよぉ。難しく考えなくたって、別に誰も怒らないんだから。少しずつ慣れていくもんよ」


「はぁ」


サツキさんの鷹揚な答えには、正直、ホッとしないでもないが、その隣で、寡黙に書類仕事をテンポよくこなす倉橋さんの鋭い視線に、同性のソウタは「役立たずの若い奴」と見られているような気がしないでもなく、一日でも早く、仕事に慣れたいと思う。


「あ、」


正面玄関前の駐車場で、時折出ていく車の邪魔にならないよう、立っているだけのソウタの視界に、ミオリの姿が映った。そのまま出てくるのかと思えば、誰かに引き留められて、話をし始めたようだ。ソウタは肩を落として、意味もなく薄手のコートのよごれを探す。さっきも同じことをしていた。


「ごめんね、待たせて」

「いいえ!」


セミショートの長めの前髪をかき上げ、耳に掛ける仕草で、そう静かに詫びたミオリは、彼と目を合わせることもなく、目の前を横切る。


黒の艶っぽいスーツに、靴も黒。ちなみにストッキングまで黒だ。ソウタは、この難しい色を、ここまで器用に、かつ美しく着こなす女性を他に知らない。


ミオリは、少し離れたところに停めた黒のベンツに向かって、コツコツと歩いていく。ソウタも後を追う。だが、べったり後を付いていくのも気恥ずかしいので、距離をとって歩く。


 

 二人とも車に乗り込み、シートベルトを締めたのを確認すると、ミオリが、さっと周囲を見やって、エンジンをかける。高級車で、かつ、それがマニュアル車となると、ちょっと入れ込み方が普通とは違うのではないかと、ソウタは思う。しかしそう思っても、自分が車に詳しくないため、話の種にできないのが残念だった。


走り出して、一つ目の信号で止まったとき、ソウタは今日の離婚調停の話をふることにした。


「なんか、養育権の話ってこんなに難しいものだとは、思いませんでした」


停止している間も、渋いエンジン音が響く車内で、発した言葉がこもる。思わず、すうっと息を吸うと、隣の上司の、控えめに香る花の香りに気付く。どきんと胸が痛んだ。


「香水きつい?窓開けるから」


そう言って彼の上司は、自分の側の窓だけを少し開けると、一呼吸の間をおいてから、ソウタの話に応える。


「大抵はね、ここまでこじれないんだけど」


「ですよね」


普段から沈黙の多い、この上司の返事が貰えただけでも、ソウタは舞い上がってしまうのだった。緊張ついでに、ぺらぺらと言葉が口をつく。


「基本的に集められる資料って、母親の有利になるようなものばかりだし、離婚で、母親側にこれだけ慰謝料渡るって、相当ですよね。たとえ母親が現在無職でも、これだけ母親に資産が残るなら、ほぼ例外なく、積極的に養育権を主張している母親で決まり、ですよね」


青信号に変わり、ゆっくりと右折する。ミオリが黙っているので、ソウタは話を続ける。


「それにしても、自分の夫がある日、『僕は男の方がいいから離婚してくれ』って言ったら、夫婦仲修復するの、難しいですよね。、っていうか。なのに、16になる一人娘は、それを知っても、父親の方についていきたいっていう意思を表明している。理由は、父親の方が好きだから。


でも、父親の方は、もうすでに男の恋人がいて、一緒に住もうかと考えている。そんな環境で年頃の娘を育てるのは難しいため、母親の方がいいのではと主張。それに対して娘は、そういうことなら、自分を寄宿学校に入れてくれと言う。


たしかに、妻に慰謝料を渡しても、将来的に見て、父親には娘を養育するだけの十分な社会的身分も経済基盤もある。それなら子供の意思に沿うのがいいだろうかというのが、おおむね現在の家裁の見方ですよね。でも、それでは母親が納得しない。泥沼ですね」


「何を指して?」

「え?」



時間帯がまずかったのだろう。さっきから車はほとんど進まず、渋滞の並びに入ってしまった。ソウタは、ミオリの突然の質問に焦る。何を問われたのか、とっさに理解できなかったからだ。肝心のミオリは、車に置いてあった自前のタンブラーを開けて、何か温かいものを口に含んだ。終始、仕事中のミオリはこんな風である。


マイペースというか、何を考えているのか、周囲に悟らせない無表情で、ソウタも、事務所に入ってばかりの頃は、彼女がいつも何かに怒っているのではないかと思ったほどだ。


それにしても、何とも美味しそうに飲んでいる。ソウタもつられて、鞄からミネラルウォーターを取り出し、喉を潤す。ミオリは満足したように、タンブラーを置くと、また前方車両に倣って、わずかに車を進める。ソウタは、しばらく悩んだ末に、ようやく自分の最後の一言が、余計だったと気付いた。


「泥沼…不適切だったかもしれません。家庭裁判所まで来て、何言ってんだという話ですよね。すみません」


またしばらく沈黙が続いたのち、ミオリが答える。


「どの立場にも、一応の”理”があるからね」

「はい」


ミオリの一言、ひとことは、とても重い。それは、考え抜かれた末の言葉のためか、彼女自身の纏う”空気”のせいなのか。とりあえずは両方だろう。


ソウタは、この上司のもつ会話のテンポに、いまだ緊張してしまうが、それは、自分がそれまで抱いていた弁護士のイメージが、いかに勝手なものだったかを、反省している為でもある。


弁護士とは、もっと損益勘定にうるさく、仕事に対して、常にアグレッシブでなければいけないのだと思っていた。


それはひとつに、まるで競争でもするかのような電光石火で、所属先の事務所を決めた同窓生たちのテンションに、二つには、遅ればせに漕ぎ着た、幾つかの面接で繰り返された“仕事への積極性”、という言葉のもつ、苦い温度のためだった。


それが、ミオリとなると、たしかに有能で、どこからか絶えず仕事を持ってくるコネもあり、美人で口煩くもなく、むしろ無言が怖い位で、何より定時で帰宅する。週4勤務で、所長という立場なのに、金曜日は事務所に来ないのである。


仕事に対して、とてもクールというか、”冷めている”。それは、私生活とのバランスのためというよりも、仕事自体が嫌いなんじゃないかという疑問を、ソウタに抱かせた。


だから、たまにこうして、仕事にかこつけて、反抗的なことも言ってみる。



「でも、結局事の始まりって、父親のせいですよね。結婚もして子供までいて、なんで今さら、男に走るんですか。身勝手じゃありません?娘がそれに対して”理解している風”なのも、解せません。


 たしかに僕たちは、父親側の弁護士で、できるだけ穏便に、子どもの意思を尊重した離婚にしたいっていう、都合のいい話からきてますけど。これで、父親に本当に親権が渡って、本当に娘は幸せになるんですか。これから一緒に住むとかいう、父親の恋人って、何を考えているんですかね。こんな大ごとになっていることに、何の良心の呵責も、感じないんでしょうか」



「ソウタ君は、同性愛者が嫌い?」


「いえ、嫌いとかじゃなくて、倫理的な問題です。別に、大人二人だけの関係なら、何も言いません。これが既婚者だったり、子どもがいて、だから、問題なんです」


「そう」



 ここで、『仕事に私情を持ち込むな』などと怒られれば、ソウタも納得できる。だが、ゆったりとしたシートに深く腰掛け、まっすぐハンドルに伸びた腕にも大人の色気を感じさせるこの上司は、そういう熱を持たないのだ。


ソウタは自分で高めた熱を冷やす様に、自嘲的に口走る。



「僕はやっぱり、弁護士にむいてないのかもしれませんね。ミオリさんに採用を決めて貰って、いまだに、どうして僕が雇われたのか、分かってないんです」



いつもの独り言で終わるかとソウタが思い始めたとき、ミオリの唇が動いた。



「あれは、お盆ごろの真夏日の暑い日で、知り合いから頼まれて、断るつもりでいたんだけど。ソウタ君、ハンカチで、汗を拭ってたじゃない?


就活生がハンカチ持ってくるのは、当たり前かもしれないけど、その動作が、『あぁ、この子は普段から、そうしてるんだな』って思って。よっぽど育ちがいいか、自分でそうした気遣いができる子なのか、どっちかだろうって。決め手はたぶんん、それかなぁ…男女構成的にも、一人、男の子がいたほうが良さそうだし、ってなって。ごめんね、大した理由も無くて」


「あっ、いいえ」


珍しく沢山話してくれたことに、ソウタは自分の扱いが、ミオリの中では、それほど悪くないのではないかと思い始めた。


確かに、ミオリの、自分に対する見立ては間違ってはいない。実際、自分は”ボンボン”なのだろうし、母親に姉が二人と妹が一人。男兄弟はいない。とりあえず、”男っぽさ”を理由に嫌われることだけは、どうしても避けないとと思い、生活してきた。

お陰でどこへ行っても、女子たちの快い関心の対象にはなれたし、友人たちにも終始、気が利く奴だと言われた。


だが内心、どこかでそれは義務的なもの、後天的に仕込まれた技術の上の、一つの結果なのだとも、自覚している。でも、そんなことでも、女性上司の評価ポイントになるというなら、悪くはない。むしろここから、である。


そんなことを思って、ソウタはちらっと隣のミオリを伺う。すると驚いたことに目が合った。


どぎまぎとして視線を外そうとしたが、ミオリがくすっと笑ったので、硬直したように目が離せなくなった。


「あやまりついでに言っておくと、私、ではないから。試用期間も過ぎたし、言っておくね」


『ん?』


ソウタは目をぱちぱちとさせる。ミオリの嘘も冗談も言わない、その唇の艶めきを固視し、自分が、彼女に与えていた印象の一部を理解した。


恥ずかしい、この上なく、恥ずかしい。


「いえっ、あの、僕はただ…ただちょっと…」


うまく取り繕うとしても、遅いのだ。それにしても、いったいどういう…どういう顔をしていいものか。


『ミオリさんは、女性が好き…女性が…』


ソウタは、興奮で湧き出た汗を拭おうとして、ハッと手元のハンカチを見る。それはきれいなアザミの刺繡の入った、薄紫色のハンカチだった。


姉の高校時代の作品である。プレゼントして誕生日に貰って、それ以来、フォーマルな場面で持ち出す様になっていた。


『これ…』


ぼんやりとした記憶の向こうで、夏の暑い日、ひどく申し訳ない気持ちで、汗を拭ったのは、このハンカチだったかもしれない。これをミオリが見たのだ。


「それ、いいハンカチね。刺繡がすごくきれい。私も手芸好きだから」

「あぁ!そう、そうですね…」


上機嫌で微笑む上司を横目に、ソウタは違うと言えなかった。


『つまりはそういう…そういう、何だ⁇』


彼女の何気ない告白を前に、聞き逃しました、という体も出来ない。何にせよ、自分がミオリにとって、いわゆる「男」扱いではないことが、はっきりと分かっただけ、良かったかもしれない。


いや、良かったのか?


ソウタは一人、悶々としながら、相変わらずの沈黙の続く車内で、思い出したように、係争中の資料をめくる。


「それで、さっきの話だけど」

「はい!」


ソウタの威勢の良すぎる返事に、ミオリは眉を少し顰める。


「今後の為に言っておくと、離婚調停だろうと刑事裁判だろうと、できるだけ当事者以外の人間を関わらせないようにするのが、弁護士の姿勢だと覚えておいてほしい。私たちの様な立場の人間が出てきてしまっている状態で、結果的に救われるのは、どちらが勝とうと、当事者だけ。それ以外の人間の保障までは、出来ないから」


「すみません…不勉強で」


ソウタは半分のうわの空でそう答える。ミオリは気付いていない。


「べつに。新人で、痛い思いをしてから学ぶこともあるけど、人によるでしょ。ソウタ君は、教え甲斐がありそうなタイプかなって」


「そうかも、しれません」


 

ようやく抜けた渋滞の先はもう、事務所までの見知った道を走るだけ。それにしても、とても長く感じた帰り道だったと、ソウタは、まだ混乱している頭を軽く振り、雑念を振り払う。何にせよ、上司の新たな一面を知れたことを、今は喜ぶべきだと、自分に言い聞かせたのだった。

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