mild part
職場の先輩と秋の空
大気の湿っぽさが抜けて、気づけば天高く~何とやらの秋である。
綿菓子の切れ端の様に漂う雲を見上げ、手元から昇る煙草の煙が、それと似ていないこともないと思う。
イスミは、営業先から帰ってくると、部長への報告の前に、この社食用に建てられたプレハブ別棟の脇のベンチで、一服するのを習慣にしていた。といっても、それほど長居はできない。
ポンポンポーンと、軽やかな合図が、そこかしこの古びたスピーカーから流れてくると、工場の白い作業服を着た工員さんたちが、休憩に出てくる。小さい会社だ。営業職の人間は基本的に顔が知られているし、とにかくスーツでいれば目立ってしまう。
煙草を置き、書類鞄から訪問先の資料を取り出して、頭の中を整理する。かなりの無理難題を押し付けられたが、付き合いの長い相手で、無碍にも出来ない。
「確認致します」の笑顔一つで、その場で課長に取り急ぎ連絡を入れた後の、持ち帰り案件だ。自分としては、こちらからも条件付きで、要望に応えるべきかと思っているが、最近会計ファイルに詳しくなったせいか、”採算”にうるさくなった社長を説得するのは、かなり骨が折れるはず。自然、出てきたため息を、聞いていた相手がいた。
「なに?
口元のマスクを剥がしながら、歳はそう変わらない工員のウタウが、声を掛けてきた。午前の作業が終わって、女子更衣室へ作業服を返しに行く途中の立ち寄りだ。
ここの会社のいいところは、こうした工員への配慮がそれなりに篤いこと。昼休みは90分。少し足をのばせば、駅前、駅ナカに展開されている十二分な食事にもありつける。それに引き換え営業は、各自結果で、休み時間を獲得すべしという基本姿勢であり、実質、回らねばならない取引先プラスαで、なかなかしんどいローテーションである。
先日もこのことを、同じ場所でウタウに愚痴ったところ、
「でも、やれてんでしょ」
と切り返された。一週間も前ではないそのやりとりを思い出し、イスミは、そのときと同じ苦笑いを浮かべて、ウタウを迎える。
「どうも、ご苦労様です、ウタウ様」
「いやいや、それはどうもどうも、向坂様」
ウタウの為に、スペースを空けると、イスミは、自動販売機でホットコーヒーを二本買う。一つはブラック、もう一つは加糖、ミルク入りだ。
「はいよ」
「どうも」
硬いベンチに、白い作業着姿のまま、伸び伸びと腕を上げ、足を延ばすウタウ。帽子下で蒸れたキャラメル色の短髪を指で梳きながら、缶コーヒーに口をつける自由な様子は、見ている方まで気分を穏やかにしてくれる。そんな彼女にブラックコーヒーをおごるのは、入社以来の決まり事だ。
「向坂さんは、顔に似合わず、甘党なのだね」
小気味よい音で開封したコーヒーの香りの向こうから、今日も、謎の問いかけがやってくる。
「そういうウタウさんだって、甘いものダメって顔じゃないでしょ」
「まぁね、谷坂食品の妖精って、言われてるくらいだからね」
「まぁまぁ」
所属も仕事も何もかも、全く違うはずのこのウタウ先輩と出会ったのは、入社早々、指導係の
『私、何をしたらいいですかね』
部長のデスクに詰め寄ったイスミに、困った部長が、『じゃ、会社案内で』と、作業途中で引き抜かれたのがこのウタウだった。
目元に愛嬌のある、幼顔のこの先輩を、イスミは始め年下に見たのだが、実年齢は一つ上なだけ、社歴は既に10年と、優に侮れない相手であることは、すぐに判った。
その理由を、『年下とはいえ礼儀だから』と答えたウタウだったが、それがイスミには、たまに居心地の悪いような、怖いような気もする。
「向坂さんは、そろそろ行かないとまずいんじゃない?」
コーヒーを銘々に飲み干した頃合いで、ウタウがイスミに声を掛ける。イスミは、また、はあっと息を吐き、中身の空いた缶を両手の中に納める。
「ウタウさん、ずばり、社長の落としどころってなんですか?」
「はぁ?」
ウタウは、慌てたようにベンチに深く座り直し、変な顔をしてイスミを見る。
「向坂さんもまさか、そっち狙いだったか?」
ウタウの切り返しに、イスミも慌てた。
「いやいや!違いますよ、別に社長を狙っているとかじゃなくて、最近、採算とか、経営の合理化とか、ちょっと説得しにくいっていうか…そういうんじゃないですからね、ちょっと!」
イスミが反応したのは、『なんだ』というウタウの腕組みと、まさかの舌打ちだった。だが正直、自分がいわゆる「そっち側」前提だと言われたのが心外だった。ウタウは少なくとも、知っているはずだからだ。
感情が素直に顔に出るイスミを見やって、ウタウも、自分が心無いことを言ったかと、反省して言った。
「悪かったよ、向坂さん。冗談だってば。あんまり仕事に熱心だから、からかっただけ。社長でしょ?あのひと、新しいものに目がないし、半年くらいは飽きるまで言うこと聞かないよ。で、何?そんな社長に通さなきゃいけないような面倒、抱えてんの?ちょっと、見せて」
イスミは、こういうときあまり気乗りしないが、まず、間違った助言が来ることは無いと知っている。難題含みの新製品の情報は、営業以外が本来知るべきではないが、ウタウは、「おしゃべり?そんなの仕事中にすることじゃないよね」という人間のため、信頼している。
ウタウは、うってかわって、至極真剣な瞳で、書類をじっと読み込み、「ふんふん、あーそうね」と一人頷いている。
イスミは、押しなべて、こういう仕事に集中している誰かの姿を見ているのが、好きなタイプだ。ただ、同じ女性でも、他の誰かには決して感じない「何か」を感じる例外がいる。それが自分の思い違いか、何なのか。時々頭をもたげては、胸の内を占拠する。
「伊東理研ね、ここ、要注意。相手が若いと、実はいびるのが好きな営業課長がいる。土台無理なことを言って、要は、対応力を見てるのよね。まぁ意外と、”本気で通せるなら、通してくれても?”的な感じだから、こっちも騙されるんだけど、きちんと言質とって一個ずつ進めないと、キャンセル、あるからね。それもざっくり根元から。金井課長は、そこんとこよく知ってるから、大丈夫だろうけど、え、何?」
イスミは、感嘆のあまり言葉が出てこないものの、目の前の先輩を、改めて"見直した"心持で眺めていた。無言のまま、手を差し出す。
「あ、あぁ、握手ね」
イスミとしては、ハグでもよかったが、相手は先輩だ。それはさすがに難しい。ウタウは、イスミの書類を返し、代わりに煙草を一本要求する。イスミは、書類を鞄にきちんと戻すと、ウタウ先輩に煙草を取らせて、「カチッ」と火を献上する。
「ウタウ先輩はもしかして」
イスミが、詰め寄ると、ウタウは観念したように口を開いた。
「うん、やってたよ、営業。でも、こんなしゃべり方でしょ?自分でも向いてないってわかったし、それ以来こっち。適材適所よ、イスミちゃん」
「適材適所…」
イスミは、先輩に初めて名前で呼ばれたことよりも、その言葉にうなずきつつ、今度は違う理由から、小さく息を吐いた。今は週末にしか会えない友人のミオリ。彼女は出会ったころから、きれいで、才女で、とても静かな…感動をくれる。そのミオリもいつだったか口にした、「適材適所」。
ウタウ先輩にお礼を言いながら、事務所へ帰りを急ぐイスミは、自分を鼓舞するように、書類鞄を前に振る。
『あぁ、私もあなたに見合う人になりたい!そうしたら…』
ミオリが贈ってくれたピアスは、いつでも見えるところへ飾ってある。
ネコ太の写真も、写真たてと携帯の待ち受けに。目の付くところに彼女との関わりを残しておきたい自分は、たいがい"重症"だと思う。それでも、仕方ない。仕方ないと諦めて、もう何年経つ?
「ただいま戻りました!向坂です。伊東理研さんの件で…」
間違いなく今の自分を支えているのは、ミオリという友の存在だ。
友人という枠に納めていいのか、分からないほど大事な存在。そんな女性を、イスミは他に知らない。だから今後、本当に何かの変化、きっかけがあったとき、自分はどうするのだろうと、イスミは頭を抱える。
例えば結婚とか…そう思うと、息が止まる気がした。自分はともかく、ミオリには恐いお父さんがいる。
イスミは、ミオリとの隔たりを想いながら、口と手と頭、全部をフル稼働で仕事に打ち込む。”自分に今できることを精一杯やる”。それがミオリと共有した「生き方」だからだ。
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