『アニカリズム』
ミーシャ
prologue
週末の趣味と彼女のこと
ミオリはミシンを踏みながら、昨日、友人のイスミに言われたことを思い出していた。
「”動物的”って、良い意味に使われないけど、”本能的”と同義に使われるからなの?」
イスミの使う言葉は時々むずかしくて、会話ではまず聞き取れない。
この春から、食品加工会社の営業職に付いた彼女は、話すスピードも速い。ゆっくり話していたら嫌味な人間だと思われるからと、いつか彼女は応えたが、その返答には正直、納得できなかった覚えがある。
「ドウギ?」
「”同じ意味”っていうこと。ほら、動物好きな私たちでも、すっかり馴染んでるじゃない?その言葉の使い方が。そもそも”本能”って何なのかっていう話」
そう言いつつイスミは、ミオリの作ったマドレーヌにパクつく。もぐもぐと膨らむ彼女の頬を見て、くすりとミオリは笑いをこぼした。
「そういうのとか?」
「?」
イスミは一瞬目を上げたが、口の端からこぼれた欠片を追って、視線はテーブル下をぐるりと泳いだ。
戻ってきた眼差しは、はにかみついでに、皿の上を一なぞりする指の動きを『咎めないで』と言っていた。
「美味しかったら持って帰ってね。ちゃんと数あるから」
無言でうなずくイスミの耳元には、赤いピアスが光っている。去年のクリスマスにプレゼントした、特別なルビーのピアス。宝石店に勤める父の友人から貰った物だ。
その妖しい美しさに心を奪われた。だが、身につけるのは自分ではない。直感的に、誰のためのものかを思いついてしまった時、胸がズキンと高鳴った。
「はぁ…」
ため息一つで回想を終えると、最後のしつけも終わった。ふわふわと厚めの生地を裏返すと、動くたびに揺れる幅をもたせたスカートがひとつ、出来上がった。裏地をつけるかどうかは、いい生地を見つけてから考えよう。
手元を見るのに使っていたメガネをはずし、こうした音の出る仕事をするときは、離れて過ごしている愛猫を探す。
「ネコ太―どこー」
彼女の好きなスリッパを脱いで、植木の鉢の後ろを覗き見る。
「いたー」
彼女は不思議そうに目を丸くし、ミオリの手に握られたスリッパを見ると、つられる様に真っ白な前足を伸ばしてくる。
「こっち、いやこっちかな?」
もこもことしたスリッパの弾力が好ましいのか、ネコ太というメス猫は、これにそっとふれては、臆病そうにすり寄る。彼女は、クリスマス前のミオリの誕生日に、イスミが突然連れてきた猫だった。
平日は仕事で家を空けている。月曜から木曜は、事務所でみっちり書類仕事。金曜は実家で”内輪の”顧問として、些末な相談を受けつつ、財務整理までやらされている。ミオリは弁護士である。
正直、家猫なんて困ると言いたかったが、イスミがきらきらとした瞳で、真っ白な子猫を抱いているのをみたとき、何とも拒絶しがたい魅力を感じてしまった。
『猫に罪は無いものね』
それ以来のネコ太である。
意外なほど大人しく、気の弱いこの猫は、最初、トイレの躾けこそ手間取ったが、その後は事故も大病もなく、すくすくと育った。
こんなことでもないと頼めない。幼い彼女のために、実家の家人にカギを渡し、交代で面倒をみて貰った甲斐があるというものだ。今では、その通いも少なくなり、彼女はイスミに負けない大きな瞳の、美人猫に成長した。
イスミがそもそも、何故、そんな生きたプレゼントを寄越したのだろと思えば、たしかに出逢った13の頃から、道端の猫や近所の飼い犬、水槽で泳ぐグッピーまで、彼女の好奇の対象ではあった。
しかし折にふれて、何か飼っているのかと尋ねれば、『それはできないでしょ』と悲しそうに答えていた。彼女は当時、母親と二人暮らしだった。
そんな彼女が一人暮らしを始めたのは、働き詰めの母親が脳梗塞で倒れたまま、戻ってこなかった、その翌日からのことだった。今でも憶えている。
がらんとして、女性二人暮らしとは思えない家の中、彼女は、一枚、また一枚と、箪笥から母親の衣服を取り出しては、それは大事そうに、頬を摺り寄せて泣いていた。
彼女がいったい何を失ったか、ミオリには痛いほど分かる気がした。しかし、自分はイスミとは違い、別の男と逃げた母親の顔さえ、録に覚えていない。そのことをイスミも知っている。だから、何を分かる、というのだろう。
友人の苦しみの瞬間に何も言えない、不甲斐ない自分が嫌で、それでもずっと、イスミの傍に居ると決めたのは、そのときだったかもしれない。高校卒業目前のことだった。
イスミとの仲も、かれこれ20年近くになる。ミオリは、目の前のネコ太に注意を戻し、もしかしてイスミが、この猫に自分を重ねたのではないかという想いに充実を感じつつ、彼女の顎をくすぐる。
不安そうにしながらも、だんだんと目を細める猫に、はぁっと、ミオリはまた淡い溜息をついた。
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